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二十九、かきわ



 しゃらしゃらと涼やかな音が耳に届いた。

 かきわはうっすらと目を開けた。透き通った青い世界が目の前に広がっていた。

 ガラスの林だ。

 かきわはぼんやりする頭を振って思い出した。ぐえるげるの泉。その一つに落ちた——突き落とされたのだということを。

 かきわは暗い気持ちで立ち上がった。一人になってしまった。


(いや、俺は最初から一人だったんだ……)


 ときわも秘色も、仲間でも友達でもない。成り行きで一緒に行動していただけだ。

 しゃらしゃらと音をたててガラスの葉が揺れる。生き物の気配が感じられない無機質の林。自分にぴったりじゃないかとかきわは自嘲気味に笑った。


(あの泉にこの場所が映ったのは、この場所で死ねっていう意味なんだろうか)


 この先どこへ行けばいいのかわからない。かきわには道を示してくれる巫女もいない。


(俺には帰る場所もない……)


 かきわはズボンのポケットに手を入れた。大きな鈴が指に触れる。短い間だったが一緒にいた緋色が残してくれたものだ。かきわは心の中で詫びた。


(やっぱり、俺にはトハノスメラミコトはみつけられねえや) 


 かきわはため息をついた。何気なく辺りを見回して、かきわの視線はある一点ではたと止まった。

 かきわは信じられないものを見た。彼の小さな弟が、ガラスの木立の間にぽつりと立っていた。


「広也?」


 かきわは叫んで駆け寄ろうとした。

 だが、弟の姿は木立の陰にすうっと消えた。その姿を追いかけようとして、かきわは思い直して足を止めた。弟がこんなところにいるはずがない。幻だ。

 かきわは大きく息を吸った。そして、自分が今堀広隆だった時のことを思い出した。前の世界でもこの世界でも、自分は結局ひとりぼっちになるらしい。広隆は自嘲の笑みを浮かべた。


 風が吹き、ガラスの葉がしゃらしゃらと音をたてた。

 ふと、広隆は目の前の木の幹に自分の姿が映っているのに気付いた。

 ガラスの中の自分は現実よりもずっと惨めに見えた。広隆は目の前の自分をいつまでも眺めていた。

 しゃらしゃらと音をたててガラスの葉が揺れる。

 薄く透き通った葉は一葉、また一葉と広隆の足下に降り積もった。

 広隆は己の姿をみつめて思った。暗い目をした自分を、秘色が信用出来なかったのは仕方のないことなのかもしれない。


 ガラスの葉は後から後から落ちてきて広隆の足首を埋める。落ちた葉は溶け合って再び固まり徐々に広隆の足を地面に縫い付けていく。それは足首から膝へ、じわじわと這い上った。

 膝から太ももへ、太ももから腰へ、少しずつ広隆の動きが封じられていく。それでも、広隆は目の前に映った自分の像をみつめ続けた。

 自分は父に似ていた。誰もがそう言ったし自分でもそう思っていた。弟はあまり父に似ていない。だから、自分のほうが父に近いような気がして、何かに勝ったような気になっていた。


 だけど、父は死んでしまった。


 固い音をたてて広隆の体をガラスが包んでいく。いつしかガラスは一本の木になり、広隆はその中に閉じ込められた。

 ガラスを通して見る像はひどく歪んで、何故だかひどく老けて見えた。


「………父さん」


 広隆はガラス越しに見る自分の像に向かって呼びかけた。


「どうして死んじゃったんだよ………」


 それはずっと誰かに問いたかったことだった。

 何故、父は死んだのか。何故、父が死ななければならなかったのか。

 だが、そんな問いに答えてくれる相手は広隆の周りには誰もいなかった。


「どうして側にいてくれなかったんだよ。俺、いい子にしてたじゃないか。わがままも言わなかったのにっ………なのになんで俺を置いていったんだよ父さんっ」


 一度口に出した言葉は、堰をきったようにあふれだした。


「なんで再婚なんかしたんだよっ。光子さんなんか大嫌いだ!広也も嫌いだよっ………大嫌いだ」


 それは閉じ込めてなくしたはずの言葉だった。言ってはいけないと自分に言い聞かせた言葉だった。それが今更、抑えることが出来ずにあふれてくる。


「なんで父さんも母さんも死んじゃったんだよっ。なんで俺だけひとりぼっちなんだよぉっ」


 広隆の声に揺らされたかのように周りの葉がしゃらしゃら鳴った。


「俺なんか、もうどうなったっていいんだ。ここで死んだって、誰も悲しまないさ。広也がいればいいんだ。光子さんもじいちゃんもばあちゃんも、広也さえいれば、俺なんかいらないんだ」


 涙で視界が歪んだ。

 ガラスに映った像も、歪んで遠くなった。父の姿が、歪んで消えていくように見えた。


(行ってしまう。父さんが、行ってしまう)


 広隆は己を戒めるガラスの円柱に拳を打ち付けて叫んだ。


「行っちゃやだあああっ」


 叫んだ瞬間、周囲のガラスの木がぱぁんっと音をたてて砕け散った。

 広隆の足元を固めていたガラスも、透き通る木の幹も、日の光を受けて宝石のように輝く葉も、みんな粉々に砕け散って、細かい破片がちらちらと宙を舞った。まるでこの世のものとは思えないほど美しかったけれど、広隆の胸は何かをえぐりとられたようにじんじん痛んで、己の身に降りかかる光も目に入らなかった。


(………言って……しまった)


 支えるものをなくした広隆の体はガラスの破片と共に地面に叩き付けられた。

 広隆はうつ伏せに倒れ込んだまま、自分の胸にぼっかりと大きな穴が空いていることに気付いた。


 幼い頃から、あれほど言ってはいけないと思っていた言葉を。あれほど深く封じ込めていた言葉を、とうとう口に出してしまった。


 涙が頬をつたった。

 自分はずっと、この言葉を言いたかったのかもしれない。と、広隆は思った。出かけていく父の背中に向けて、そう叫んでみたかった。一緒にいてほしいと、訴えてみたかった。父を困らせることになっても。

 だけどもうそれは出来ない。言えないままに、父は死んでしまった。

 広隆は胸を押さえた。この胸に空いた穴は、一人では埋められない。広隆の脳裏に広也の顔が浮かんだ。自分は、弟を置いてきてしまった。森の中にたった一人で。広隆はそのことを今更ひどく後悔した。


 ああ。自分は帰らなければならない。帰って弟に無事な姿を見せなければならない。だって自分は弟に「待っていろ」と言ったのだ。約束をしたのだ。だから、帰らなければならない。


(俺が帰らなかったら、きっと、広也の胸にも穴が開いてしまうんだ)


 その瞬間、広隆の脳裏にぐぇるげるの言葉がよみがえった。


 帰りたいと思う者だけが帰ることが出来る。


 唐突に理解できた。

 元の世界に帰る方法が、広隆にはわかった。

 広隆は起き上がって服に刺さるガラスの破片をほろった。

 ときわを見つけなければ、と、広隆は思った。

 そして、教えてやらなければ。元の世界に戻る方法を。

 広隆は林の奥を見据えると、力強く地を蹴って歩き出した。





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