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二、マヨヒガ

 全くといっていいほど箸が進まない。

 ちゃぶ台を囲んでの大勢での食事は、広也にとってはひどく気詰まりなものだった。

 ふだんなら、学校帰りにコンビニ弁当で腹ごなしをして塾に向かい、家に帰ってからつくりおきのグラタンやハンバーグを温めて一人で食べる。その食卓には当然会話などない。


「どうだ、広也。東京に比べたら、こっちの夜は涼しかろ」

「おじいちゃん、何言ってんの。東京の家じゃちゃんとクーラーたいてるんだから、外はともかく、家の中はこっちのほうが暑いくらいだよ」

「なんじゃ、そうか」

「そうだよ。おばあちゃん、おかわり」


 一番よくしゃべってよく食べるのは広隆と茂蔵だ。茂蔵はもう七十過ぎだというのにはたで見ていていっそすがすがしいくらいによく食べる。内蔵が丈夫なのだろう。一方、広隆もカヨについでもらった三杯目の飯をかっこんでいる。カヨはそんな二人をにこにこ笑って眺めている。


「広也。お前全然食ってないじゃないか。おばあちゃんがつくった茶碗蒸し、うまいから食えよ。ほれ」

「う、うん………」


 広也はうなずいて広隆の差し出した碗を受け取ったが、あまり食べる気がしなかった。茶碗蒸しが嫌いなわけではないが、今は食欲がなかった。それどころか、居心地が悪くてしょうがない。

 できれば、とっとと座敷に引き揚げてしまいたいのだが、なにぶん、まだ出された食事の半分も片付けていなかった。残すにしたって、これでは申し訳ないと思い、仕方がなく、広也はのろのろと箸を動かした。

 どこか遠い池で鳴いている蛙の声がここまで聞こえる。網戸の目から吹き込んでくる涼しい夜の風と、しっとりとした匂い。それが腐葉土や青草の匂いなのか、あるいは夜の闇の匂いなのか、広也は知らない。

 その網戸に、時々あかりに誘われてきた蛾がぶつかったりもする。


「ほら、広也。たくさん食わなきゃお兄ちゃんみたいに大きくなれないぞ」

「お前はみてくればかり大きくなりすぎじゃあ」

「なんてこと言うの、おじいちゃん。よけいなこと言わないの」

「ほれほれ、お前さん方は。少しは黙っておれんのかね」


  笑いながら言い合う広隆と茂蔵を、カヨがやはり笑いながらたしなめた。

 広也はなんとなく三人から目をそらして、茶碗蒸しを胃に押し込んだ。口の中に栗の甘さが残った。

 ちらりと隣に目をやると、光子もやはりのろのろと箸を動かし、ぼんやりと何かを考えているようだった。


「しかし、広也も中学生になったか」


 唐突に、茂蔵が言った。


「正広も、制服姿を見たかったろうにな」


 辺りがしんとなった。ややあって、広隆がぽつりと口を開いた。


「そうだね。父さんは………悔しがってるかもね、天国でさ」


 それを聞いた茂蔵は、うむ、とうなったきり、口をつぐんだ。

 正広というのは、死んだ父の名だ。父は広也が四才になったばかりの頃、交通事故で他界した。その時は広隆も十二才でまだ小学生だった。父は二人の息子のどちらの制服姿も見ることができなかったのだ。

 広也にとって、父は遠い存在だ。顔などとうに忘れ果てている。アルバムを開けば写真が貼ってあるが、今さらそんなものを見て父を偲ぶ気も起こらない。父は早くに死にすぎた。広也が人の死を理解し、それを悲しいと思えるようになった頃には、すでに母と兄と自分——三人での生活が当たり前になっていた。少し前までは、そこにもう一人、重要な人物がいたのだといわれても広也にはピンとこなかったし、“父親のいる生活”を想像するのも難しかった。父親がいないということで、特に寂しい想いをしたことがなかったからかもしれない。

 友達が「お父さんと遊園地に行った」と言えば、広也は「お兄ちゃんと公園で遊んだ」と返した。

 その頃中学生、あるいは高校生だった広隆に、どういうつもりがあったのかは知らないが、彼は平均的な父親の役割を一通りこなしてくれていた。

 だから余計に、広也の中で父の存在は遠くなったのかもしれない。


「やめましょう、そんな話」


 初めて光子が口を開いた。彼女は吐き捨てるようにこう付け加えた。


「お食事中に」


 一瞬、しんとした沈黙が流れた後で、つとめて明るい口調で広隆が言った。


「そうですね。光子さんの言う通り」


 広隆はちらっと広也を見た。


「ええと、それじゃあなんの話をしようか。おじいちゃんが畑で転んでミミズを潰してしまった話でもしようか」

「こりゃ、広隆。それこそ食事中にする話じゃないわい」

「あ、そうか。それじゃあ」


 広隆は再び広也に目をやって、にやっと笑った。


「俺の得意な話をしよう」


 広隆は広也のほうに身を乗り出した。


「広也。マヨヒガって知ってるか? 」

「マヨヒガ? 」


 広也は眉をひそめて問い返した。聞き覚えのない響きだった。


「遠野物語は知ってるだろ? 」 


 再び広隆が問うてきた。遠野物語。


「ああ」


 今度はすぐに思い当たった。この遠野にまつわる伝承や昔話を集めた有名な書物の名前だ。幼い頃、他でもない広隆からよく聞かされたのだ。河童や山姥や座敷童。


「聞いたことある」


 広也はなんとなく曖昧に答えた。

 広隆はふふん、と鼻を鳴らし、それからとっておきの秘密を打ち明けるかのように声をひそめて語り出した。


「マヨヒガっていうのは、遠野の古い伝承だ。遠野物語にもちゃんと載っている。山奥で道に迷った村人が、不思議な場所に迷い込む。そこには、色とりどりのきれいな花が咲いていて、大きな屋敷も建っている」


 まるで見てきたことのように話す兄を、広也は箸をくわえたままみつめていた。なるほど、確かに得意分野だろう。広隆は大学で民俗学を研究していたはずだ。遠野物語とは縁が深い。

 しかし、マヨヒガの話をする広隆の目が、その昔幼い広也相手に鬼や河童の話をしていた時の目と全く変わっていないことに気づき、広也は少しあやぶんだ。


(まさか、兄さんだって本気で信じているわけじゃないよな)


 妖怪だとか幽霊だとか、広也は全く信じていない。そりゃ、小さい頃は語り上手の兄に鬼だ河童だとおどかされて、びくびくともしていたが、広也ももう子供じゃないのだ。


「やめなさい、広隆。そんなくだらない話」


 苛立たしげに言う光子を無視して、広隆は続けた。


「それからな、広也。これがマヨヒガの一番いいところだけど」


 広隆は広也の目をまっすぐ見据えてこう言った。


「マヨヒガに迷い込んだ人間は、たった一つだけ、そこにある物を持ち帰ってこられるんだ」


 迫力に押され、思わず広也が呆然としていると、そのすきに広隆はすっかり空になった器を片付けて、さっさと二階の自室に引き揚げてしまった。


 いつもこうだ。突然突拍子のない話をはじめて、話し終えると風のように去っていく。その後には決まって、目を丸くした広也ばかりが取り残されるのだ。


 三年ぶりだというのに、本当に全く変わっていない兄を見て、広也は半ばあきれ、半ばほっとした。




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