二十五、ときわの巫女
どれくらい経ったのか、軽い足音が聞こえてきて扉の向こうから秘色が姿を現した。
「すごく神聖な気分だわ。ときわ達も来ればよかったのに」
ときわとかきわは曖昧に笑ってみせた。
「さて、それじゃあこっちへおいで」
ぐえるげるが席を立ち、うろの外に出た。
三人はその後に続いて森の中を歩いた。
しばらく歩くと、木々が途切れて小さな丸い泉が七つある場所に出た。
その一つを指差してぐぇるげるが言った。
「覗いてごらん」
言われてかきわが素直に泉を覗き込んで声を上げた。
「ガラスの林が見える」
「本当?」
秘色もかきわを押し退けて覗き込んだ。
「なあんだ。何も見えないじゃない」
がっかりした声で秘色が言う。
「嘘つけ。見えるだろ。ほら、ここに来る前に通ったあのガラスの林だよ」
「見えないわよ」
秘色とかきわが喧嘩を始めた。
それを無視して、ときわも泉を覗いてみた。
真っ暗だった。水の色とは思えない程黒い闇の中を、ほわほわと小さな光が泳いでいる。
「ねえ、何も見えないでしょ」
秘色が背中越しに覗き込んで来た。
「見えるって」
かきわも言う。
「その泉はの、見る者によって映す場所を変えるのだ。その者にとって必要な場所を移すのだ」
ときわが答える前にぐえるげるが言った。
「その泉に飛び込めば、映った場所にすぐに行けるのじゃよ」
「映った場所に? 」
「うむ」
「行きたい場所に行けるわけじゃないのか。便利なんだか不便なんだかわからないな」
かきわは泉を覗き込みながら言った。
「さて、それじゃあわしはこれで失礼するかの」
ぐえるげるが言った。
「え? もう」
ときわは驚いて尋ねた。
ぐえるげるはほっほっほと笑った。
「わしと一緒におってもこれ以上得るものはないぞ」
ぐえるげるはくるりと向きを変えて秘色に声をかけた。
「巫女よ。おぬしは真ん中の泉に飛び込むがいい。晴の里まで帰れるぞ」
秘色は驚いて振り向いた。
ぐえるげるは何か言おうとした秘色を遮って続けた。
「巫女が行けるのはここまでじゃ。この先はときわとかきわだけで行かなくてはならん。それが掟じゃ」
それだけ言うと、ぐぇるげるはゆっさゆっさと巨体を揺らして森の奥に戻っていった。
後に残された三人には重い沈黙が流れていた。ときわはちらりと秘色を見た。秘色がいなくなる? では、この先はかきわと二人で進まなければならないのか。
これまで一緒にいた秘色と離れるのはやはり不安だった。秘色はどう思っているのか、下を向いて黙っている。
(秘色とここで別れなくちゃいけないなんて……)
出会ってから過ごしたのは短い間だったが、秘色の存在はときわにとってとても大きなものになっていた。別れたくない。この先も一緒に来てほしい。でも、それは出来ないのだ。
ときわはふっきるためにぶんぶん頭を振った。
「秘色。いままで本当にありがとう」
そう言った。
涙が出そうになったのでぐっと拳を握って耐えた。
「僕のことは心配しないで。大丈夫だよ。かきわと一緒なんだし」
「ああ。心配すんなよ」
かきわもそう言って秘色の肩を叩いた。
秘色はうつむいていた顔を上げてときわとかきわを交互に見た。その目が複雑そうに揺れていた。
「一緒に行けないなんて、すごく悔しい」
低い声で秘色が言った。
「ときわのこと、この先もずっと見ていたいのに。ずっと一緒に行けると思っていたのに」
秘色は唇を噛み締めて再びうつむいた。
ときわはどう言えばいいかわからずに黙り込んだ。かきわも同じようだった。
沈黙が流れ、木々の葉がさらさらいう音が吹き過ぎていく。
三人はしばらくの間黙ったまま、泉のほとりに座り込んだ。
水面の細波をみつめながら、ときわはふと元の世界のことを思い出した。
広隆と光子の顔が頭に浮かんだ。二人共、どうしているだろう。寝床から消えた自分のことをどう思っているだろう。それを考えると少し怖いような気がした。
どれくらい経ったのか、かきわが立ち上がって先程の泉の縁にかがみこんだ。
「やっぱり俺にはガラスの林が見えるんだよなあ。なんでなんだろ」
かきわはわざと明るい声を出しているようだった。
自分がさびしいのと同じように、かきわももしかしたら秘色と離れるのが寂しいのかもしれないとときわは思った。
秘色が無言のまま立ち上がった。ふらりとした足取りでかきわに近付き、その背後に立った。
「そういえば、ときわはこの泉の中に何が見えたんだ」
かきわがそう尋ねるのと同時だった。秘色が両の手でかきわの背中を押したのは。
かきわの体が傾いで、次いで大きな水音が上がる。ときわはその光景を一瞬理解出来なかった。ときわのみつめる前でかきわの姿が消え、肩を震わせて荒い呼吸を繰り返す秘色の姿だけが残っていた。
秘色がゆっくり振り向いた。目が合って、その時初めてときわは秘色がかきわを突き落としたことに気付いた。
「……かきわ」
ときわは泉を覗き込んだ。
「かきわっ、かきわっ」
返事は返って来ない。
ときわは信じられない思いで秘色を見た。
「なにやってるんだ秘色! なんでかきわをっ」
「あなたのためよっ」
秘色が叫んだ。
「あたしはこれ以上一緒に行けないのよっ。かきわは敵なのよ? かきわとときわを二人だけで送り出すなんて出来ないっ」
「なんだよそれ? かきわが僕に何かするとでも思ったのかよっ。そんなことあるわけがないだろっ」
「わからないじゃない! そんなことは」
ときわは頭が痛かった。ぐわんぐわんと、割れそうだ。
「あたしはときわを守らなくちゃいけないの! それがあたしの全てなの! 」
もう秘色が何を言っているのか理解出来なかった。
「……人殺し」
ときわは耐えきれずに叫んだ。
「人殺しっ」
その剣幕に押されて、怯んだ秘色が後退った。そして、バランスを崩して水音と共に落下した。かきわが落ちたのと同じ泉に。
水音がおさまると静寂が訪れた。
ときわはその場にへたり込んだ。地面に手をついた。絶望が深すぎて、ときわは地面を叩いて泣き叫んだ。




