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一、兄弟





 電車の窓からのぞく外の景色に緑が増えていく。

 着いたのだ。遠野に。広也は座席にもたれかかってぼんやりそれを眺めていた。


「広也」


 横手から声をかけられ、広也は振り向いた。母の光子が立っていた。


「降りるわよ」


 耳障りな音をたてて電車は速度を緩め、やがて大きく揺れて停まった。

 


 駅のホームには男が一人立っていた。

 その男を一目見るなり、広也の顔が強ばった。男は広也達をみつけると、手を振りながら駆け寄って来た。


「光子さん、お久しぶりです。広也、大きくなったな」


 広也の異母兄、広隆はにやりと笑って弟の顔を覗き込んだ。

 広也は反射的に目を伏せた。いつもそうなのだ。昔から、広也はこの兄が苦手だった。

 荷物持ちますよ、と言って、光子の手からスーツケースをひったくり、広隆は先に立って歩き出した。その後に光子が続き、広也は少し離れて二人の後ろをとぼとぼついていった。背の高い兄の広い背中をじっとみつめると、なんだか複雑な想いがよぎった。


 兄弟ではあるけれども、広隆と広也はあまり似ていない。顔立ちも背格好も性格も。


 広隆の目つきは鋭く、厳しいが男らしい顔立ちをしている。逆に、広也は小さい頃から女の子に間違えられることが多かった。内気で気弱そうな、頼りない顔をしていた。性格のほうも、広隆が外見に反して明るくひょうきんであるのに対し、広也は見た目に違わず内気で気弱な、人見知りの激しい少年だった。身長に関しても、小中高とぐんぐん伸び続けた広隆と、周りの男子より頭一つ小さい広也。似ているところなど何一つなかった。


「広也」


 広隆が、軽く振り返って尋ねた。


「十三になったんだよな」

「うん」

「中学校はどうだ?」


 広也は顔を曇らせた。今一番触れてほしくないのがその話題だった。


「広隆」


 光子にきつい調子でたしなめられた広隆は、うつむいて押し黙った広也をちらっと見て、


「すみません」


と、ちっともすまなくなさそうに言った。


 それから一行は押し黙って歩いた。会話がなくなると、けたたましく降る蝉の鳴き声がよけいに大きくなったような気がした。


 まばゆい光に照らし出された地面に、三人の影がはっきりと映っている。光子と広隆は前を向いて歩いていたが、広也は首を下げて自分の影を見ながら歩いた。歩き慣れない砂利道を必死で進む。もう少ししたら、この道が緩やかな斜面に変わることを広也は知っていた。

 体力のない広也はこの駅から丘の上にある祖父母の家までの道のりが大嫌いだった。その果てにある家も、そこで迎えてくれる祖父母のことも、どうにも好きになれなかった。


 つまるところ、広也は遠野が、この田舎が嫌いだった。

 夏になると遠野にやって来るのは父が生きている頃からの習慣で、父が死んでからも広也が九才の夏まではそれが続いていた。しかし、三年前、広也が十才になり、四年生に進級すると、急に勉強が忙しくなり、その年から夏の遠野行きはとりやめになった。英語の塾には幼稚園の時分から通っていたが、四年生になるとさらに私立中学合格のために進学塾にやられることになった。

 広也の夏の行き先は遠野の旧家ではなく東京の五階建てビルの一室になった。


 しかし、その年から東京を出なくなった広也とは逆に、広隆はその年から東京を出て遠野に住みつくようになった。


 広隆は変わった男だ。


 我が兄ながらとらえどころがないと広也は思う。今は亡き父と、自分の母の前に父の妻だった女性との間に生まれた兄。生まれてすぐに母を亡くし、十二の時に父をも亡くし、それからの広隆は義母と年の離れた弟と共に暮らしてきた。これは広也のあずかり知らぬことだが、父が死んだ当時、遠野に住む祖父母が広隆を引き取るという話もあったのだ。

 が、これには光子が反対した。

 あの人の子供は私が育てます。と、光子は言い張った。

 その後実際に、光子は女手一つで二人の息子を育て上げた。光子は専業主婦ではなく、結婚後も仕事を続けていたので、生活に困るということはなかった。


 この時の光子の申し出が、純粋に亡き夫とその息子に対する誠意から出たものなのか、あるいは世間体を気にしてのことなのかはわからない。ただ、近所の噂では、自分が働いている間、幼い我が子の面倒をみさせるために前妻の子を引き取ったというのが通説であった。


 あるいは、それも一つの事実かもしれなかった。実際に、夜遅く帰ってくる光子に代わって広也の面倒をみていたのは広隆だったから。


 だから、広也の記憶の中には、光子の顔よりも広隆の顔のほうがずっと多い。あの頃中学生だった広隆の学生服姿は思い出せても、今より若かっただろう母のスーツ姿は思い出せないのが事実である。


 しかし、この事実はいつも広也を不思議な気分にさせる。ずっと広隆に面倒をみてもらっていたのだから、自分はもう少し兄に懐いてもよさそうなものだ。兄は自分をかわいがってくれたのだから、なおさら。


 広隆が広也をみていてくれるから、光子も安心して働きに出ることができたのだ。万事において、広隆はしっかりした子供だった。たった一つ、広也の勉強の邪魔をすることをのぞけば。


 広也が宿題をしていると、ひょっこりと現れて弟の横で鬼や河童が出てくる昔話をはじめる。週に三回の塾の送り迎えも広隆の仕事だったのだが、広也を勝手に休ませて遊びに連れ出したりもした。何週間も続けて休ませて、塾からかかって来た電話に光子が仰天したこともある。そんなことがしょっちゅうだった。いくら光子にいさめられても広隆は聞く耳を持たない。この二人、別に仲は悪くなかったが、この問題に関してだけはよくいさかいが起こった。

 だから三年前、広隆が岩手の大学に進学することになったと聞いた時、広也は内心ほっとした。これで勉強に集中できるし、母の金切り声を聞かなくてもすむと思ったからだ。





「よお来なすったなぁ、広ちゃんや。さ、あがられ」


 玄関の戸を開けると、中から満面の笑みを浮かべた祖母が出てきて三人を迎えた。


「おばあちゃん、座敷の窓開けておいてくれた?広也あそこで寝るんだからね」

「あいあい。ちゃんとしといたよ」


 広隆は祖母——名前はカヨという——と顔を見合わせてにっこり笑うと、荷物を抱えてさっさと奥へ入ってしまった。


「ふだん使うとらんから、夜まで窓開けてないと、暑苦しいしカビ臭いゆうてな。よく気のつく子じゃてタカちゃんは」


 カヨは相槌を求めるように広也を見たが、広也は小さくはぁ、とだけ答えて家に上がり込んだ。

 茶の間に入ると、臙脂色の古い座椅子に背中を丸めて座っていた祖父の茂蔵が広也に声をかけた。


「おお。よう来たな広也。長いこと来とらんかったで、迷わんかったか?」


(迷うわけがないじゃないか、兄さんが迎えにきていたんだから)


 そうは思ったが、口には出さなかった。


「お義父さん。お久しぶりです。お世話になります」


 広也の後ろから入ってきた光子が茂蔵の前に座って手をついた。それから、光子は突っ立っている広也に向かって「広也。挨拶はしたの?」ときいた。


(する前に話しかけられたんだ)


 心の中で反抗してから、広也は口の中でもぞもぞと「こんにちは」と言った。

 広也の声があまりに小さかったので、茂蔵には聞こえなかったかもしれない。茂蔵は首を傾げた。


「どうした?広也は具合が悪そうだなぁ」

「じいちゃん、広也は長旅で疲れてるんだよ。尋問は後にしなよ」


 いつの間にやって来たのか、広隆が戸口のところに立っている。


「広也、夕飯まで座敷で休んでるか?扇風機出しといたから」  


 ありがたい申し出だった。広也はさっさと座敷に引き込んだ。

 座敷は確かにふだん使われていないらしく、十畳の空間に暖かみのない、人を寄せ付けないような独特の臭いが漂っていた。桐の箪笥と扇風機、愛想のない木机と椅子ばかりがぽつんとある。

 広也は肩に引っ掛けていたボストンバッグを畳におろし、ほっと息をつくと、座敷の真ん中に寝転がった。開け放した窓からは涼しい風が吹き込みはじめている。日暮れが近いのだろう。こころなしか、蝉の声が控えめになっている。


 広也は薄汚れた天井の木目をぼんやりと眺めた。

 どうもやはり、自分は不健康そうにみえるらしい。先程茂蔵に言われた言葉が広也の中に残っていた。

 足元で機械音がする。扇風機が回っているのだ。広也は腹筋を使って起き上がり、扇風機の前に顔を持っていった。なまぬるい風が勢いよく顔に当たって、前髪を吹き上げる。


 広也は今年の春に中学生になった。広也の住む地域では有名な私立中学。難関と呼ばれる狭き門を突破した喜びよりは、受験勉強の疲ればかりが残る体に溜め息をつきたくなった。


 しかし、本当に大変なのはそれからだった。


 授業の速度が、小学生の時とは比べ物にならない程速く、しかも内容も一気に難しくなって広也を大いに戸惑わせた。


 小学校でも塾でも、優秀の内に数えられていた自分が、どんどん周りから取り残されていく。


 今まで味わったことのないその感覚に、広也は焦り、戸惑い、すさまじいーー受験勉強中にも感じなかった程のーー重圧に襲われたのだった。


 広也は必死で勉強した。休み時間も、寝る間も惜しんでーーその過酷な生活とプレッシャーが広也を押しつぶすのに、さほど時間はかからなかった。


 五月の半ば頃からか、授業に出ると必ず気分が悪くなるようになった。ひどい時には吐き気やめまいまでした。神経性のものだ。と、医者は言った。ストレスだの自律神経だのという単語が飛び交う医者の話を、広也はほとんど聞いていなかった。じっと指先をみつめながら、なんだかうつろな気持ちになった。


 遠野に来い。と言ったのは広隆だ。


 光子からの電話で広也の状態を聞いた広隆は、夏休みになったら遠野にやってくるべきだと断言した。


「ずっとこもってばかりいたから、体が腐っちまったんだ。遠野のきれいな空気で腹の中洗い流せば治る」


 かくて、広也は三年ぶりに遠野の土を踏むことになった。


(でも、ここに来たからといって、なんになるんだろう。兄さんと母さんに言われてついてきたけれど、ほんの五日間ここにいたぐらいで、元気になるはずがない。兄さんの僕のこのぐじぐじした神経を、森林浴でどうにかできると思ったんだろうか)


 三年ぶりに会った兄の顔を思い浮かべた。日に焼けて健康そうな、銀縁眼鏡をかけているせいでちょっととぼけた感じにみえるが、二十歳を過ぎてますます引き締まった男らしい顔。


(五日間じゃ、ああはなれない)


 広也は大きく両手を広げて、畳の上に倒れ込んだ。




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