十八、緋色
一人になると、ときわは急激に心細くなった。よろよろとたき火のそばに座り込んだ。同時に激しい後悔が胸を突き上げて、ときわは膝に顔を埋めて丸くなった。ひどいことを言った。秘色を傷付けた。殴られた頬が痛かった。誰かに殴られたのも、殴られる程誰かを傷付けたのも、生まれて初めてだった。
ゆらゆら揺れる炎が洞穴内に不気味な影を落とす。ふと、ときわはまたあの感覚に襲われた。一人だけ取り残された、不安と恐怖——。
知らぬ間に、ときわは泣いていた。そうして、泣いていることに気が付くと、どういうわけか心細さがいや増した。ときわは後から後からこぼれ落ちる涙を必死でぬぐった。さびしくてさびしくて、気が狂いそうだった。早く秘色に帰って来てほしい。
しかし、秘色はなかなか戻ってこない。もしかしたら、彼女に何かあったのではないかとときわは不安に駆られた。
(もしも、秘色がこのまま戻ってこなかったら……)
そしたら、自分はこのわけのわからない世界で、本当にたった一人になってしまう。その時のことを考えて、ときわはあらためてぞっとした。ぞっとするのと同時に、ときわは立ち上がって洞穴の入り口に駆け寄った。顔を出して、辺りを見回してみる。闇の中に立ち並ぶ木の影しか見えなかった。
ときわはごくりと唾を飲み、恐る恐る洞穴の外に出た。足音を殺して少しずつ歩を進める。
「……秘色ぅ……」
小さく呼びかけたその声に答えたのは大きな悲鳴だった。ときわは硬直した。またしても少女の声だった。緋色か——秘色か。
「秘色っ」
いてもたってもいられず、ときわは森の奥に足を踏み込んだ。
「秘色っ、どこっ」
その時、辺りを見回すときわの目に小さな明かりが飛び込んだ。秘色の持つ火に違いなかった。ときわはそちらに駆け寄った。
「ときわっ!?」
案の上、木の影から飛び出して来たのは真っ青な顔をした秘色だった。ぎんぎんに見開かれた目が必死さを物語っている。
「バカッ! なんでこんなところに来たのっ」
秘色はときわの腕をひっつかんで走り出した。
「走って、早くっ。あんた達も早くっ」
秘色が後ろを振り返って叫んだ。そのとき初めて、ときわはすぐ後ろをかきわと緋色が走っていることに気付いた。そして同時に、全身が凍りつくような恐怖を覚えた。
あの狒狒のような生き物が、一匹や二匹ではない、群れとなって彼らを追ってきているのだ。
ときわはたまらず悲鳴をあげた。
「走って、しっかりっ」
秘色の叱咤が飛ぶ。ときわは走りながら秘色の腕にすがりついた。
「洞穴まで戻るのよっ、早く走ってっ」
そう叫んだ秘色の声に被さるように、後ろで声が上がった。
「緋色っ」
振り返ったときわは、地面に膝をついた少女に跳びかかる白い化け物を見た。
「緋色っ」
かきわが緋色に駆け寄ろうとした。
「ええいっ」
秘色が手に持った薪を思いっきり投げ付けた。薪は一匹の狒狒の目に命中した。耳障りな悲鳴が上がり、狒狒の群れは一瞬ひるんだ。その隙にかきわが緋色を抱き起こし、秘色は再びときわの手を取って走り出した。
ときわも必死で走った。後ろを見る余裕もなかった。薪を失ったことで生まれた「次はない」という思いが全身をつき動かしていた。
「見えたっ」
洞穴から漏れる明かりをみつけ、秘色が叫んだ。
「入って、早くっ」
四人は秘色、ときわ、かきわ、緋色の順で洞穴に転がり込んだ。ときわは胸を押さえてへたり込んだ。喉がぜいぜいとかすれた音をたてる。湯気でも立ち昇りそうなぐらい顔が熱かった。
「緋色っ」
かきわが悲痛な声を上げた。顔を上げて初めて、ときわは緋色の衣が真っ赤に染まっていることに気付いた。
緋色は右肩を押さえながら小さくあえいでいる。流れ出る血が茜染めの袴を暗い紅に染め変えていく。
「緋色っ、しっかりしろっ」
かきわの声に、緋色は心持ち顔を上げた。血の気を失った顔は真っ青で、息することさえ辛そうだった。
「かきわ……」
やっとのことで緋色はそれだけ口にした。だが、口の中にあふれた血のせいでそれ以上何も言えないようだった。
「しゃべるなっ。なんとかしてやるからっ。絶対助かるからっ」
そうは言うものの、かきわにもどうすればいいのかわからないようだった。
その時、秘色が緋色に歩み寄り、彼女の腰に下げられた朱色の鈴を手に取り、それをかきわに手渡した。
「これで、いいんでしょ」
秘色がそう尋ねると、緋色は安心したように頷いた。
その瞬間、緋色の全身が淡く輝き、あっと思う間もなく、彼女の姿は霧のようにかき消えた。
「緋色っ?」
かきわは慌てて辺りを見回した。ときわは茫然としてその様子を眺めていた。ただ一人、秘色だけが冷静だった。
「緋色は死んだのよ。巫女は死んだら消えてしまうの」
秘色の口調が、ときわにはひどく冷たく感じられた。
「そんなっ……」
かきわは呻いたっきり二の句が継げずにがっくりと肩を落とした。
「悲しむことはないわ。巫女は死んでもまたよみがえる。緋色も次のかきわを待つために霧の里によみがえる。あたし達は土に還ることを許されていないから」
「そんなことっ」
ときわは思わず声を上げた。
「悲しむななんてっ、ひどすぎるじゃないかっ」
ときわは両の手で顔を覆った。大粒の涙がぼろぼろと流れ出した。
緋色の死の悲しさよりも、人の死を目のあたりにした恐しさのほうが涙をあふれさせているのだということは、ときわだけが知っていた。




