十三、夢
光子は一人で森の中にいた。星明かりのきれいな夜の森。ああ、これは夢だ。と光子は思った。
光子は細身で小柄なショートヘアの女の子になっていた。
ドーン、と、大きな音がして、辺りがさあっと明るくなった。花火が上がったのだ。
その花火の明かりに照らし出され、前を歩く二人の子供の姿が浮かび上がった。
背の高い男の子と長い髪の小柄な女の子で、二人共浴衣を着て手をつないで歩いている。
(ああ、あの人だ)
その男の子が、亡くなった自分の夫正広であることが光子にはわかった。では、彼の隣にいるのは……
(なつきさんだ)
それは、広隆の母親、正広の幼なじみで彼の最初の妻になった女性だ。光子は直接会ったことはないが写真で顔は知っていた。昔から、内気で人見知りのするタイプだった光子とは違い、勝気で人懐っこそうな顔をしていた。彼女は正広とともに遠野で育ったのだ。
光子は黙ったまま、前を行く二人の後ろ姿をみつめていた。光子は、自分がどんどん小さくなっていくような気がした。再び花火が上がったが、その音はどこか遠くで鳴っているようで、光子の耳には届かなかった。
正広の性格はとてもおおらかで、細かいことなど豪快に笑い飛ばしてしまうような人だった。その気質は今ではしっかりと広隆に受け継がれている。
まったく、広隆は本当に正広にそっくりなのだ。顔も性格も、ちょっとした仕草も、成長するごとに正広に生き写しになってくる。
一番最初、広隆は光子を値踏みするような目つきで見た。光子にとっても、それは覚悟していたことだった。自分がこの子とうまくやっていけるのか不安でもあった。
だが、存外に広隆はあっさりと光子を受け入れた。結婚してからも広隆の態度は変わらなかったし、自分からすすんで広也の面倒を見てくれたので、光子はずいぶん助かった。ただ、広隆は光子を「おかあさん」と呼びはしなかった。決して。
正広は明るくて優しい男で、その息子の広隆も正広と同じようだと、光子は最初思っていた。だが、だんだんと、正広と広隆の間には、大きな差異が存在しているような気がしてきた。
(どう言えばいいのか、あの子は、そう、どこかで聞き分けのよい子を演じているようなところがあった)
それは、注意深い光子だけがうっすらと感じ取ったことだった。あの子の内には、本当はもっと、何か暗い部分があるような気がする。
だが、光子はそれ以上そのことを追求しなかった。
他人の暗い部分に目を向け理解しようとする時、その時はいやがおうにも自分の暗い部分にも目を向けざるを得なくなる。それはとても恐ろしいことだ。一歩間違えれば、自分も相手も壊してしまう。
(もしかしたら、私はそうやって広也の暗い部分からも、目をそむけてきたのかもしれない)
光子はふと、そんなふうに思った。
(そうだ。私は自分の息子のことさえ、本当に理解しようとはしていなかったのかもしれない。そしてあの子も、私の前に自分をさらけだすようなことはしなかった)
光子は鬱々とした気分で考えた。
(私と同じように、あの子も怖かったのかしら。自分自身と向き合うのが。そうしていつも逃げまわって……)
その時、光子の中で何かが激しく「違うっ」と叫んだ。叱責されたように、光子はびくんっと体を震わせた。そうして、それから「ああ、そうだ。全然違う」と思った。
(私の前に自分をさらけだしたってなんにもならないことに、あの子は気づいていたに違いない)
実際に、広也が自分に向かって胸の苦しさを訴えてきたとしても、自分にどうしてやることが出来ただろう? 光子は情けなさでいっぱいになった。せいぜいが、テレビドラマで聞くようなあたりさわりのない台詞でなだめすかすことぐらい。そうして、自分ではなぐさめているつもりでいて、実のところは失望させ、よけいに追いつめるのが関の山であっただろう。
(そう。子供とはそういうものだ。何も見ていないようで、実は全てを見通している。そうして、白々しい言葉をなによりも軽蔑する。だから、あの子は私に何も言わなかった。私はあの子にとって、何かを訴えかけられる程の存在ではなかったのだ)
その時、ドオオンッと、ひときわ大きな花火音がして、前を歩いていた二人が突然振り返ったので、光子もつと顔を上げた。だが、その目に飛び込んできたものは、正広となつきの顔ではなかった。
中学生くらいの広隆と、まだ幼い広也が、じっと光子をみつめていた。
声にならない声を上げ、光子は飛び起きた。大きく息を吐いて布団に半身を起こし、光子は額の汗をぬぐった。
夢の感触は、まだ生々しく残っていた。あまりにはっきり覚えているので、今のが本当に夢なのかどうか疑わしくさえあった。
なんだって、こんな夢を見たのだろう。久しぶりに遠野へ来たせいか。
ただの夢のはずなのに、光子はどっと疲れてしまった。今の夢の中で感じ取った事実は、光子を憂鬱な気分にさせ、ぬるくよどんだ部屋の空気とあいまって、ひどく暗い雰囲気が流れた。
光子は髪をかき上げ、頭を押さえた。夢から覚めた途端に、今度はじっとりとした怒りのようなものが光子の胸にこみあげてきたのだ。何かしら。何に対して腹を立てているんだろう、私は。
光子は目の前の闇を睨みつけながら考えた。考えるうちに、光子は今までにも何度もこんな気持ちを味わったことがあることを思い出した。
そう、まだ正広が生きている頃から、毎年夏にこの遠野に来るたびに、こんな気持ちを味わっていた。さびしいのだ。遠野に来ると、自分の居場所がどこにもないような気がして、ないがしろにされているような気になって、腹が立ってしまうのだ。
遠野では、光子は一人だけ他所者になってしまう。遠野は正広となつきがたくさんの思い出を育んだ場所だ。だが、自分とはなんの繋がりもない。入り込めない世界なのだ。
(そうか。これは嫉妬なのか)
突然、光子は理解した。自分はずっと、なつきに嫉妬していたのだ。自分よりもずっと長い年月を正広と過ごした彼女のことを。だから、彼女の存在が染み付いた遠野のことも憎んでいたのだ。
(私は今でもなつきさんのことを?まあ、なんて執念深い女なんでしょう)
自分にあきれた光子は自嘲気味に笑った。だが、事実だった。
あるいは、正広が生きていてくれたら、今でも自分のそばにいてくれたら、光子もこれ程なつきの存在にこだわることはなかっただろう。彼女よりも長い時間を、正広と共有できたなら。だが、正広はいくらもしないうちになつきのところへ行ってしまった。
正広が死んだ。あの時程むなしかったことってない。
あの時、広也はまだ四才で、気持ちをわかちあって嘆きあうことが出来なかった。あの時、光子に近い想いを味わっていたのは、広隆のほうだったかもしれない。
冬の病院の廊下で、肩からずり落ちたランドセルを直そうともせずに、息を切らせて立ち尽くしていた広隆。
彼は泣きはしなかった。ただ、見る者が驚く程うつろな目をして、その場にたたずんでいた。
(そうだ。あの後しばらく、広隆は別人のように笑わない子になったっけ)
さわさわさわ。
ざわざわざわ。
強い風が吹いたのか、ふいに葉ずれの音が大きく響いた。
なんだろう。今夜に限って昔のことを妙にはっきりと思い出す。後から後から、過去の映像がやけにリアルにあふれてくる。
そのことを不思議に思いながらも、こぼれ落ちてくる思い出を塞き止めることが、光子にはどうしても出来なかった。




