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九、晴の里


 一瞬、体がずしんっ、と重くなった。驚いて立ち止まると、途端に目の前の白い霧が晴れて視界が広がった。


「うわあ、すごい。本当に現れたのね」


 甲高い声がして、驚くほど近くに立っていた少女が、ひょいと広也の顔を覗き込んだ。


「うわっ」


 面食らってのけぞった広也は、後ろの壁に思いきり頭をぶつけた。


「いってえ……」

「大丈夫? 岩なのに、痛いんだ?」


 後頭部を押さえて呻く広也の顔を、その少女はしげしげとみつめ、何を思ったのか、手を伸ばして彼の頬に触った。広也は驚いて身を引いたが、少女はうれしそうに声をあげて笑った。


「すごぉい。ちゃんとやわらかくなってる」


 齢は広也と同じぐらいだろう。巫女装束のようなものを着ていて、紺色の袴の腰元に青い大きな鈴をつけている。肩口で切りそろえられた髪は黒というより袴と同じ紺色に見えた。

 少女はくりっとした大きな目で広也を見据え、こう言った。


「よろしくね。ときわ」


 広也は訳がわからずに辺りを見回し——驚愕した。  


 そこは神社のようにただっ広い板の間の空間で、立派な丹塗りの柱が立ち、その壁に沿って大きな祭壇が設けられている。そして、その祭壇の上に乗っているのが、他でもない広也自身だった。


「な、なんだ、ここ」

「ここ? ここは(はる)の里の神殿よ。ときわを奉っている場所だもの。他のどこでもあるはずがないじゃない」

「晴の里? 」


 一瞬、遠野にそんな名の場所があったかと考えてみたが、さっきまで山で迷っていたことを思い出して広也は頭を振った。


「晴の里ってどこだい? 僕はなんでこんなところに?」

「晴の里は晴の里よ。あなたはここへやって来たのよ。トハノスメラミコトを探すために」

「とはのすめらみこと? 」

「そうよ。それがときわの役目だもの」

(ときわ? )


 聞き覚えのない言葉の羅列に、広也は眉をひそめた。


「ときわって、何? 」

「あなたのことよ」


 少女はごく当然という顔で広也を見下ろした。訳がわからないまま、広也はとりあえず否定する。


「僕はときわじゃないよ。僕の名前は広也だ」


 少女は不思議そうな顔をして、


「いいえ、あなたはときわよ。間違いないわ」  


 断定的に言いきった。広也は少し慌てて繰り返した。


「人違いだよ。僕は今堀広也。ときわって人じゃない」

「何言ってるのよ。ここに現れたことがなによりの証拠じゃない」


 そう言って、少女は広也が乗せられている祭壇を目で指し示した。広也もつられて下を見る。白木でつくられた立派な祭壇だ。


「証拠って言われたって、僕だってどうしてこんなところにいるのか、自分でもわからないのに……」


 広也は泣きたくなった。


「わからないって? じゃあ教えてあげるわ。この晴の里の神殿にはときわと呼ばれる岩が奉られていて、その岩は人の姿に変わって里を救うのよ。だから、あなたはときわなの」


 少女は明るい声で断定した。


「なんだかわからないけど……とにかく僕はときわじゃないんだってばっ」


 広也はやけになって叫んだ。わけのわからないことを当然のように並べ立てられるのが少し怖くもあった。

 少女は眉を下げて小首を傾げた。


「困ったわねえ。ときわとしての自覚がないなんて。ねえ、あなたはここでは絶対にときわでしかないのよ」

「ここではって……」


 馬鹿げたことだとわかってはいたが、広也は思いきって尋ねてみた。


「ここって、もしかして、僕の住んでいるところとは、別の世界なのかな………? 」


 広也は元来、そういったファンタジーまがいの話は一切信じない主義である。それなのにこんな質問をしてしまったのは、夕餉の席で広隆が話していたことがふっと思い出されたせいだった。


——山奥で道に迷い、不思議な場所に迷い込む。


 それに、山中で見た白い光や、誰かの歌声のことも、広也をちょっと現実離れした気分にさせていた。

 少女はしばしの間考えているふうだったが、やがて思いきったように口を開いた。


「あたしにはわからない。こことは別の世界っていうのが、あるのかないのかも。ここに現れる前のあなたがどこにいて何をしていたのか、あるいはどこにもいなくて何もしていなかったのかも。だって、あたしはこの世界しか知らないし、今ここに現れたあなたしか知らないから」


 煮え切らない答えではあったが、よく考えてみるとひどく理にかなっているような気もするので、広也は何も言わなかった。


 しかし、一体どういうことだろう。広也は今までのことを順を追って思い返してみた。

 そうだ。自分はあの蛍のような光を追ってきて、ついにはこんなところまで来てしまったのだ。


「ねえ、僕は白い小さな、蛍みたいな光を追って来たんだけれど……えっと、その、心当たりないかな? 」


 少女は怪訝そうな表情で広也を見た。その目に見据えられて、広也はどきりとした。なんだか自分がひどく突拍子のないことを尋ねたような気がした。

 案の定、少女は心当たりがないと答えた。この分では、歌声のことをきいても返ってくる答えは同じだろう。  

 広也は大きくため息をつき、それから思った。もしかしたら、これは全部夢じゃないだろうか。白い光を追ってきたことも。山の中で道に迷ったことも。今ここにいることも。


 だが、夢で片付けてしまうにはあまりにリアルだ。山の中を歩き回った証拠として、Tシャツもジャージもスニーカーも泥まみれ汗まみれで、鼻を近付けるとちゃんと土の臭いもする。おまけに、先程山の中で転げ落ちた時につくった擦り傷もじんじん痛む。


(夢でも、なさそうだけれど……)


 さりとて、これほど現実離れした状況を、素直に受け入れる気にはならなかった。


「ねえ、ときわ。ねえったらねえ」


 難しい顔をして黙り込んだ広也のTシャツの裾を、少女がぐいぐいと引っ張った。


「ねえってば。ときわ」

「ああもう、少し静かにしてくれよっ。それに僕はときわじゃないってばっ」


 少し強い調子で言って、広也は少女を振りほどいた。だが、少女は少しもめげた様子を見せずに言う。


「あなたはときわよ。あたしはこの目で見たんだから」

「何を見たっていうのさ」


 いい加減この押し問答に嫌気が差した広也は投げやりな口調で問うた。


「あのね。この神殿に奉られているときわという岩はね、時が来ると人の姿に変わり、トハノスメラミコトを見出すと言い伝えられているの。その言い伝えの通りに、あたしの見ている前でときわは人の姿に変わったわ。急にときわから霧のようなものが吹き出して辺りが真っ白になって、それが晴れた時には、祭壇の上に岩ではなくあなたがいた」


 少女は一つ一つ、言い聞かせるように語った。


「だから、ここではないどこかで、あなたがときわじゃない誰かだったとしても、あたし達の住むここに現れた瞬間から、あなたはときわになったのよ。あなたはこの世界ではときわでなくちゃあいけないの。それ以外の何者であってもいけないの」


 広也は大きくため息をついた。これほど強情な相手は初めてだ。


「わかったよ。じゃあいいよ。ときわで」


 少女はうれしそうに笑った。


「私の名前は()(そく)。晴の里のときわの巫女」

「巫女? 」

「いつかあなたが現れる時のために、ずっとときわ——あなたを奉っていたのよ」


 広也——ときわは怪訝そうに秘色を見た。彼女の話を信じると、自分は岩が変形してここに現れたのだという。つまり——


「僕は、岩だと? 」

「この世界ではね」


 あっけらかんと、秘色は言った。


「前にいたところで、あなたがなんだったのかは知らないけれど」


 想像を絶する話だ。ときわは頭を抱えた。


「わけがわかんないよ」

「よかったわね」

「よかったって? 」


 こともなげに言い放つ秘色に対して、ときわはむっとして顔を上げた。


「何がいいっていうんだい? 」


 あら、だって。と、秘色は明るく言った。


「わけがわからないほうが楽しいじゃない」


 ときわはあきれ果てて肩をすくめた。秘色は彼の腕をぐいぐいひっぱって立たせようとする。


「なにするんだよ」


 いい加減腹が立って、ときわは少しきつい口調で言ったが、秘色は相変わらず能天気な声で言う。


「早く立って。長の館に行かなくちゃ」

「長? 」


(ええと、長っていうのは、たぶんこの里の長老とか村長みたいな人だよな)


 案の定、秘色はこう続けた。


「長はこの里が晴の里と霧の里に分かれる前から生きている一番の年寄りよ。トハノスメラミコトがお戻りになるのを待ち続けているのよ」

「トハノスメラミコト? 」


 先程も出てきた言葉だが、ときわには意味がわからなかった。


「トハノスメラミコトって、何? 」

「そのうちわかるわよ」


 秘色はやはりあっけらかんとそれだけ言って、さらにときわの腕をひっぱる。ときわはこれで何度目かの大きなため息をついた。どうやら、ここに来てしまった以上、自分には何かやらなければならないことがあるらしい。

 この際、しばらくは成り行きにまかせてみようか。長というからには物知りそうだし、元の世界に帰る方法も知っているかもしれない。あるいはこれが夢だったとしたら、その場合は別に慌てたり騒いだりしなくても、そのうちに目が覚めるだろう。


「わかった。行こう」


 ときわは観念して、のろのろと立ち上がった。




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