夏のピーコート
以前コミティアで出したものです。
一か月前にネット通販で買ったエアフォースが右足だけ緩いことに気づいたのは、最近あまり出歩いてないからと、今歩いているのが緩やかな上り坂だからだった。となりで電動ママチャリを押すサヤちゃんの首筋に汗がキラキラ光るのを見て、この子でも汗をかくんだなぁ、とわたしは思った。車道を追い抜いた先の停留所に止まったバスには学生がすし詰めにされていて、不機嫌そうな顔の男の子や楽しそうに笑う女の子たちが中にいた。暑そうに見えて、きっとクーラーガンガンなんだろうけど、だとしてもわたしはあの中には入りたくないと思った。正午過ぎ、わたしたちが素通りした駅前のバス乗り場には、たぶんまだ学生が行列を作っていて、次々到着するバスにどんどん飲み込まれて、ここまで、とドアを閉められたらまた猛暑の中を立ちぼうけしなければならない。
「大学って七月末にもなってまだあるんだっけ?」ヘロヘロの声になってわたしは言った。
「今の時期はテストでしょ。期末テスト」サヤちゃんは前を向いたまま自転車を押す。製薬会社か何かの大きな工場を過ぎると、十階建てぐらいの同じ形をしたマンションがジグザグにずれながら八棟並んでいるのが見えた。道の反対側に沖縄料理屋を見つけて、
「あそこ、おいしいの?」と聞いたら、
「行ったことないからわかんない」とやっぱり言われた。サヤちゃんはチェーン店以外の店にはあまり入りたがらない。二年前、だからわたしが大学四年、サヤちゃんが二年生の夏に二人で石川に行ったことがあって、そのときもお昼を食べようとすればファミレスに行きたがり、夜飲みに行こうと言えば、東京の各駅前にあるみたいな居酒屋チェーンでいいと言った。
ここ、とサヤちゃんが促したのは三角屋根で新しめの大きな自動ドアが待ち構えるエントランスで、さっきから見えていた八棟マンションが彼女の家だった。サヤちゃんはインターホンのそばの黒いプレートのようなものに鍵をかざして自動ドアを開けた。そこからまた外に出ると、不思議にも暑さは少し和らいだように思え、タイル張りの舗道によく手入れされた植え込み、前も後ろも横も同じ形のマンションに囲まれて、電車の中吊り広告でよく見る、都心に出やすい郊外のマンションのイメージ図そのままだった。サヤちゃんは当たり前だけど迷いのない足取りで奥の方の棟へ向かっていく。棟ごとにもオートロックがあって、さっきと同じように鍵をかざして中に入った。
「すごい、めちゃくちゃきれいだね」
「一番上の階だと富士山もランドマークタワーも見えるよ、たぶん」
ママチャリも余裕で入るエレベーターに乗って、サヤちゃんの部屋は四階の角部屋だった。確かポーチとかいう玄関の前の広い空間の隅に自転車を置いて、サヤちゃんは家のドアの鍵を、今度は普通に鍵穴に入れて開け、
「よぉこそ、我が家へ」と言ってドアを開けた。サヤちゃんの服からする匂いをさらに凝縮した匂いが家の奥からわたしの鼻へと吹き込んできた。それはきっと洗剤と何かがまざったもので。別に嫌いな匂いとかではなかったけれど、少しの疎外感はおぼえた。
「お邪魔しまぁす」とりあえず、といった感じでわたしが言うと、
「なんか新鮮。ケイさんがここにいるの」とサヤちゃんはにやにやしていた。そういうものなのかな。自分の場所に親しくてもいつもと違う人が入ってくる感覚。親しいからこそ変な感じがするのかな。わたしは、一人暮らしというのもあって、よく自分の家に人を呼ぶ方で、サヤちゃんも何度かうちに来たことがあった。
備え付けの靴箱の上には青い花の一輪挿しとゴッホの夜のカフェテラスの絵が入った小さな写真立て、それと、リードディフューザー(匂いの元はこれだった)が置いてあった。廊下のすぐ左側がサヤちゃんの部屋だった。引っ越すと言っていたわりには段ボールは一個もなくて、夏なのに白いふわふわのラグとお姫様みたいなベッドが置いてある、女の子らしい部屋だった。でもCDラックには部屋のイメージに似つかわしくないヘヴィメタルのCDが並んでいて、やっぱりすごいギャップだなぁ、とわたしは思ったが、すぐに、逆にわかりやすいのか、と思い直した。サヤちゃんはベッドの上に打ち捨てられていたエアコンのリモコンでクーラーのスイッチを入れた。
「ケイさん、お腹空いてる?」
「うん。なに? なんか作ってくれんの?」
「そんなわけないじゃん」ちょっと待ってて、と言って、サヤちゃんは部屋を出ていった。ラグの上の小さなテーブルにはマックブックがあり、CDラックの上にはディズニーとジブリのぬいぐるみが力なげに置かれている。木製の勉強机は使われていないみたいで、マンガの塔が二つとテレビ、あと積み重なったクリアファイルがあった。所在なく立ちすくんでいると、サヤちゃんがカップうどんとカップ焼きそばを持って戻ってきた。
「どっちがいい?」
「えーと、うどん」
「ですよねー。青のりがねー」
サヤちゃんはまた部屋を出てお湯を入れ、アツイアツイ、と歩幅の狭い走り方で部屋に戻り、小さなテーブルにカップうどんを二つ置くと、ふとももを払うような仕草で指先の熱をごまかした。雑な手つきでマックブックを床にどかすと、四十五分まで、と言って、また部屋を出ていき、今度は麦茶を入れたコップを二つ持ってきてくれた。
「ありがとう」わたしはコップを受け取ると、麦茶を一気に飲み干してしまった。ほとんど同時にサヤちゃんも飲み終わって、あれごと持ってきた方がいいか、と言って、また出ていった。普段はわたしの方があれこれやってあげる立場なので、彼女があちこち行ったり来たりするのが少しおかしかった。麦茶のパックの入ったプラスチック製のポットを持ってきたサヤちゃんはようやく、一息ついたようにラグに座った。
「ケイさんも立ってないで座ってよ。ベッドの上でも床でもいいから」わたしはそう言われてようやくラグの上に座った。わたしって人の家に行き慣れてないんだな、と改めて思った。サヤちゃんはTシャツの胸元をパタパタしながらもう一杯麦茶を飲んだ。
「あれ、あ、ごめん。うどん、時間過ぎてた」
「え、今何時?」
わたしのスマホは四十八分になっていた。カップうどんの蓋を開けると、見た目は普通だったが、割りばしで少しかき混ぜると、かなり麺が多くなっているようだった。
「あーあ、これふにゃふにゃだよ」
「ごめんて」忘れていたのはサヤちゃんも一緒なのに、わたしはあやまった。サヤちゃんにはこれぐらいの態度がちょうどいい。変に張り合うと彼女は途端に不機嫌になってしまう。うどんはたしかにふにゃふにゃでほとんどないはずの歯ごたえが気持ち悪かったが、それよりも冷房のまだ効いてこない部屋では熱かった。真っ白でふわふわのラグは汗ばんだふくらはぎに毛足がまとわりついて気持ち悪かったし、なにより白すぎてうどんを食べるのに慎重にならざるをえなかった。
「いつが引っ越しなの?」と聞いてみる。サヤちゃんは上気した頬を麦茶の入ったコップに押し付けて冷やしていた。
「八月末」
「なんだ。まだまだじゃん」内心引っ越しの手伝いもさせられるのかも、と思っていたので安心した。
「まだまだじゃんじゃないよぉ」サヤちゃんは反対の頬にコップを当てた。
「荷物多すぎてどうしようって感じ。全部は持ってけないし、いらないものも多いし。だからケイさんを呼んだんだよ」
サヤちゃんからラインが来たのが一昨日の夜で、別にそれが久しぶりというわけではなかったが、実際に会おうというのは半年ぶりぐらいだった。その半年のあいだにサヤちゃんは大学を辞め、一人暮らしを始めることを決めた。
サヤちゃんは軽音サークルの後輩で、わたしはベース、サヤちゃんはボーカルだったけど、人数の多いサークルだったというのもあり、わたしたちは同じバンドにいたわけではなくて、むしろ新歓合宿での飲み会で連絡先を交換しただけで直接の関わりはほとんどなかった。だから最初のうちは、うわさでしか彼女のことを知らなかった。新歓合宿から三か月ほど経ったころ、サヤちゃんが所属するバンドが解散するという話をバンドメンバーのユウちゃんから聞かされた。サヤちゃんのいたバンドはそれまでに三つが解散していて、そのすべてが色恋沙汰による揉め事が原因らしかった。『サークラ』という言葉がいつ生まれたのかは知らないけれど、サヤちゃんは間違いなく『サークルクラッシャー』だった。
当時、部室の壁にはやぶれかかったニルヴァーナとかレディオヘッドのポスターが貼られていて、ロッカーにもヴェルヴェッツのバナナやらストーンローゼスのレモンやらのステッカーが貼ってあった。ザ・フーとかスモール・フェイセズとかのモッズ系が好きだったわたしは、よく使うロッカーの右下の端っこにイギリス空軍のターゲットマークを貼った。長椅子が三つと長机が二つ置かれていて、長椅子には必ず誰かが横になって寝ていた。いつからあるのか、一弦のないクラシックギターが置いてあって、わたしはチューニングのあやしいそのギターをポロポロ指で弾いていた。バンドメンバーのリンがパソコンから流すマイブラがわたしには暑苦しかった。エアコンのない部屋で扇風機が忙しなく首を振り続けるのがむなしかったが、あのころはそこがわたしの居場所だった。
「ケイ先輩聞いてくださいよ」勢いよく入ってきた一つ下の後輩の名前はなんていったか、今は思い出せない。
「あの女、うちのバンドの○○の彼氏も寝取ったんすよ」名前は憶えていないがパンクロック好きだったはずの彼女の喋り方ははっきりと思い出せる。真夏の真昼間からそんな話を本当は聞きたくないわたしは適当に相槌を打って、合わせても合わせても狂っていくギターのチューニングをしていた。そこにちょうどサヤちゃんが来た。わたしは修羅場というものをそのとき初めて見たのかもしれない。椅子で寝ていた石山くんも起きて様子を見守った。パンク後輩の怒りのボルテージが上がっていくにつれて、サヤちゃんはどんどん不機嫌に、でも冷静に言い返していく。パンク後輩が、
「ここはそういうところじゃないから」
と言ったら、サヤちゃんは、
「そういうところってどういうところですか? 先輩も△△先輩とできてるじゃないですか。同じサークル内でそういうことになってる時点でここも『そういうところ』なんじゃないんですか」と言い返した。まぁ、そうだよね、とわたしは思っていた。屁理屈だけど、それに言い返したらこっちも屁理屈になってしまう。
サークル内のほとんどが部内恋愛状態の中、わたしだけバイト先の男の子と付き合っていたので、サヤちゃんのことについては、対岸の火事といった具合で、他の人たちが向けていたような敵意はなかった。そのことが幸い、もしくは災いしたのか、その年の暮れにサヤちゃんから直接連絡がきた。パンク後輩との言い争いのあとからめっきり姿を見せなくなって、サークル内も平和になっていたところだったので、気は重かったが応じた。ゼミの相談だった。
うどんを食べ終わって、サヤちゃんはまたそそくさと片付けてくれた。冷房が効き始め、汗はひいていた。ウォークインクローゼットの中から夏物冬物問わずいろんな服を引っ張り出してベッドの上に広げていくサヤちゃんを、わたしはコップ片手に立って眺めた。ただであげると言われても、わたしとサヤちゃんの趣味はまったく違っていて、今まさにそれを再確認していた。わたしはラフな格好が好きなので、今日も紺色のワイドパンツにグレーのTシャツの裾を入れて、トートバッグを持ってきていた。サヤちゃんも今日は休日仕様なのかTシャツにジーンズだけど、普段はふわふわした女の子らしい、悪く言えば男受けのいい服を着ていた。ベッドに並べられているのもそういう系統のものが多い。
「あの一応ラインで言ったけど、わたしそういう服着ないよ?」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと定番もあるから。これとか」サヤちゃんは淡いピンクのスカートと白いニットをわたしにあてがった。
「いやいや、絶対違うじゃん。半笑いだし」サヤちゃんは、バレたか、とその服を無造作に床に落とした。
「いいの? そんな扱い」とわたしが言うと、
「いいの、卒業するの。退学だけど」と床に落ちた服を見下ろしたままサヤちゃんは言った。わたしは後ろから見ていたから彼女の表情は確かめられなかった。
「一応きくけど、なんで辞めるの?」
「べつに、そんな理由とかないよ、大学入る理由もなかったんだし」
これ以上は説教になるから何も言わない。説教って、教えて言い聞かせることだけじゃなくて、これからどうするのとか、何かやりたいことあるのとか、相手に質問をぶつけ続けることだって説教になってしまう。サヤちゃんはクローゼットの奥にあったと思われる冬物のアウターをベッドに投げ始めた。薄いピンクのダッフルコート、黒いチェスターコート、真っ白いマフラー。はいはい、と思っていると、最後にベッドに倒れ込んだ深緑のピーコートにわたしの心は少し動いた。
「あれ、こんなんも持ってんだ」わたしはそのピーコートを拾い上げた。裾が長くなくてすっきりしているし、作りもしっかりしていた。ボタンが茶色の木目調なのもかわいいと思った。
「ああ、それいとこのおさがり。一回も着たことない」ウォークインクローゼットから出てきサヤちゃんは、あっつぅ、と言ってエアコンの真下に風を浴びに行った。
「いいじゃん、かわいいじゃん」
「じゃあそれあげる」あとこれと、これもあげる、とサヤちゃんははどさくさに紛れて水色のトレーナーとこれまた真っ白のベレー帽を、わたしが絶対に行かないようなブランドのお店の大きな紙袋にピーコートと一緒に入れてくれた。服が敷き詰められたベッドの上に、サヤちゃんはドサッと寝ころんだ。わたしは服を少しどかしてできた隙間に座ってみた。人のベッドの上に座るのは、普通なら気が引けるというか、わたしなら自分のベッドにしてほしくないのだが、この状態で気をとがめることはなかった。サヤちゃんのベッドのマットレスはふかふか過ぎて眠りづらそうだと思った。二人で黙ってしまうとエアコンの稼働音が大きく聞こえた。
「この部屋、時計ないんだね」サヤちゃんに話しかけたのか、ただの独り言なのか自分でもわかりづらい音量でわたしは言ったけど、
「うん。どんな時計買おうか迷ってるうちにとうとう買わなかった」とサヤちゃんは答えた。時計のない部屋。わざと時計を置かないようにしてるのは何のお店だったっけ。
「ねぇ、わざと時計置いてないお店って何のお店か知ってる?」
「なにそれ。なぞなぞ?」サヤちゃんは天井にかざした爪を見て言った。
「なぞなぞじゃなくて、なんかそこにいるあいだはお客さんが時間を忘れられるようにって。あー、最近見たんだけどなんだったっけ」わたしは思い出せないことに自分でおもしろくなるくらいもやもやした。
「美容院」爪を見続けているサヤちゃんが言った。
「いや、違う」映画館。遊園地。水族館。少しの沈黙。回らないお寿司屋さん。そのどれも違った。うーん、とサヤちゃんは考えてくれてるのか諦めたのかわからない唸り声を出した。
ガチャガチャと鍵が開く音と、ドアが開かれる音がした。
「お母さんだ」サヤちゃんは上半身を起こした。わたしもつられてベッドから立ち上がる。コンコンと上品なノックがされてからドアが開いた。開ききる前に「ただいまー」という声がした。サヤちゃんが男の子と話すときの声に似ている、と思った。サヤちゃんのお母さんは重そうなエコバッグを腕に提げ、その手に鍵を二つ持っていた。おそらくもう一つは車の鍵だろう。痩せていて髪が短いからか若々しく見え、クリーム色の半袖ブラウスと茶色のロングスカートで、いかにも『自然体』な雰囲気が漂っていた。玄関のあの感じはお母さんの趣味なんだと確信した。
「お邪魔してます。栗原圭と申します」
「あらー、あなたがケイさん。いつも娘がたいへんお世話になって。お話はたくさん伺ってますぅ。すごくいい先輩だって、いつも言ってるんですよ」
サヤちゃんのお母さんは一息に言うと、ご飯は食べたの、とベッドの上の服の中に座っている娘に向き直った。
「うどん」サヤちゃんはそっけなく言った。
「もう、お客さん来てるのにそんな、ねぇ」
「いえ、わたしは別に」
「ごめんなさい。この子勝手に買ってきちゃうの、カップ麺」
じゃあ、ゆっくりしてってね、と言い残してサヤちゃんのお母さんは部屋を出ていった。
「ケイさん、駅まで送ってあげる」サヤちゃんは立ち上がって言った。
「え、あ、うん」サヤちゃんに紙袋を差し出されて、わたしはとっさに受け取った。
外は今一番暑い時間だった。クーラーで凝り固まった関節が熱気に溶かされていくような感じがした。もと来た道は日陰の逃げ場所すらなく揺らいでいる。反対側のマンションから親子連れが出てきた。母親は日傘と日よけのアームカバーをして、五歳くらいの男の子は帽子をかぶっていて、母親の数歩先を走っては立ち止まり、また少し走っては立ち止まってを繰り返していた。
「サヤちゃんはお母さんと仲悪いの?」
「全然、むしろいい方だと思うよ。なんで?」
「帰ってきてすぐ送るとか言うから」
下り坂だから自転車のブレーキを握りながら歩くサヤちゃんは、ああ、と笑って、
「あの感じだと絶対お菓子とお茶持ってくるもん。今度二人で食べよう、って言ってたやつ。あの人見栄っ張りだから」と、ふくれっ面を作るときの声で言った。
前方からおじいさんが歩いてくる。この猛暑の中でもジャンパーを着ていた。白いひげの生えた浅黒い顔は涼しげで、わたしたちをちらりと見てすれ違ったあとで歌うように何かを言ったが、もしかしたら本当に歌ったのかもしれない。
「ケイさん、あのドラマ見てた?」サヤちゃんは春にやっていた推理もののドラマの名前を出した。見てない、と言うと、
「なんだぁ、あたしあれ出てたのに」と言って左側のペダルに右足を乗っけて左足で地面を蹴り、わたしの少し前に出た。
「えー、うっそ、なんで?」
「死体役、密室殺人、風呂場で溺死」サヤちゃんはそれこそドラマの次回予告みたいに、キーワードを並べた。
「言ってくれればよかったのに。エキストラではないんだ」
「半分そんな感じだけどね」
前にどこかで、遺影にされる役はギャラが高いとか聞いたことがあったので、死体役はどうなのか聞いてみた。
「全然だよ、これだよこれ」サヤちゃんは人差し指を立てた手をわたしに見せた。
初めてサヤちゃんと二人で話したとき、わたしたちはスタバで甘いコーヒーを飲んでいた。彼女はやっぱり白いニットを着ていて、天使みたいだった。店内は暖房が効きすぎていて、わたしはコーヒーよりも水を飲んでいたかった。昼下がりのスタバは学生が多くて、一人ひとりの声の大きさは普通なのかもしれないけれど、その声の質とか話している内容のせいなのか、ガヤガヤと騒がしく感じて、混んでいたというのもあって、長居はできないと思っていたわたしは、ゼミについて知っているかぎりのことを話した。サヤちゃんは真面目に聞いていたふうだったけど、わたしが話し終わると、
「どの先生が一番楽ですか?」と聞いてきた。えぇ、とわたしは苦笑う。結局わたしはサヤちゃんに、発表の評価基準も低く出席をとらないらしいという教授を教えた。わたし自身がそこまで熱心な学生じゃなかったというのもあるが、仮にも先輩であるわたしをわざわざ呼び出してまで聞きたいのがそれ、ということについて怒る気にも注意する気にもならなかったのは、サヤちゃんが単位を取れようが取れまいがわたしには関係なかったし、大袈裟に言えばサヤちゃんの人生がこの先どうなろうがわたしにとってなんの影響もないと思ったからだった。
お店の外に出て、突然冬の外気にさらされた首を守ろうと、わたしは急いでマフラーを巻いた。サヤちゃんはコートを着ても首元が開いていて寒そうだったけれど、そんなことはおくびにも出さなかった。
「先輩はいい人ですね」と別れ際にサヤちゃんは言った。それが決して誉め言葉ではないというのは明らかだった。しかしその言葉が彼女なりのお気に入り認定ようなものだったのだと、わたしはあとから気づいた。サヤちゃんが人に求めるものは友情や愛情や思いやりといった、暑苦しく押さえつけようとするものではなかった。
「引っ越したらまた連絡してよ」
「手伝ってもらうことになるかも」
「それでもいいからさ」
自転車があったから、サヤちゃんは駅の階段の下までわたしを送ってくれた。階段を上りきって振り返ると、サヤちゃんが自転車を漕ぐ背中が小さく見えた。帰ったらお母さんとお菓子を食べるのかな、とわたしは皮肉交じりに思ってしまった。ホームに電車が来ていたので走って飛び乗った。座れないこともなかったけど、立ってドアの脇にもたれて、ピーコートの入った紙袋に印刷されたお店のロゴを隠すように足のあいだに挟んで下に置いた。スマホを取り出しながら、ナオキからラインが来た。『今から帰るよ』と返信する。すぐ返信したのになかなか既読がつかないのは、ナオキがラインでテンポ良く会話するのが苦手で、通知に気づいても少しのあいだ放っておくことがあるからだ。一度すぐに送ると、その時間に囚われてしまうのだと彼は言っていた。品川駅を過ぎたあたりでようやく返信が来て、市ヶ谷で会うことになった。足元からサヤちゃんの匂いが立ち昇る。旅館だ。わたしは突然思い出した。わざと時計を置いてないところ。サヤちゃんとのトークを開いて、それを送ろうとして、やっぱり閉じた。スマホの画面から目を上げると、スピードを落としたこだまが並走しながら近づいて、ゆっくりと追い抜いていくところだった。わたしと向かい合うように反対側にもたれている化粧の濃い女の人も窓の外の新幹線を見ていた。真っ赤な口紅をつけているから印象は違うけれど、クイズ番組でよく見るフリーアナウンサーに顔が似ていた。こだまの座席には出張中のサラリーマンらしきYシャツを着た中年男性がこっちを眺めていた。わたしを見ているわけでも、向かいの女の人を見ているわけでも、誰を見ているわけでもないんだろうけど、そのサラリーマンは東海道線とその中にいる人を見ている。その人と同じような人が何人かいる。グリーン車には窓際に缶ビールを置いている旅行者風のおばさんもいて、その人もこっちを見ている。二つの車両のあいだ。身勝手な思考と想像のぶつかり合いがそこにはあった。