月に嫌われたおしゃべりうさぎ
ーーウサギが出た。
だからどうしたんだと言いたくなる言葉を、この町に来てから幾度となく耳に挟んだ。
決して鈍間兎や俊敏兎の事でないのは分かる。そんな低級の魔物が出たくらいじゃこの町の人たちは騒がないだろう。
彼らのいうウサギとは、月兎の事だろう。月兎とは要は魔兎種の魔物の俗称だ。危険視されている魔物にはそういった俗称がつく事がある。
わたしは見たことないが、なんでも恐ろしく大きくて、一本の角が生えているのだとか。
そして月の満ちる夜、ーー宵の三日月に現れるという。宵の三日月とは一年で最も月が美しく満ちる三日間のことだ。一日目の初宵に月兎が現れるのは珍しいとされているため、この町の警戒はかなり緩かったのだろう。
一番危険なのは央宵。あの大きな空のてっぺんに、爛々と白光を放ち大地を照らし、その影響でか月兎も凶暴性が増すのだとか。
いまいちな説明なのは、わたしは宵の三日月も見たことがないからだ。里で暮らしていた時、お父さんもお母さんもなぜか宵の三日月のことは教えてくれなかった。むしろ成人した今やっと知ったほどだ。最近旅を始めひとと話をして「もうすぐ宵の三日月だな」と言われなんのことかと聞き返して漸く知り得た情報だ。
この町は高い丘の上にあり、毎年この時期になると人でいっぱいになると言われて来てそれは楽しみにしていたというのに、初宵は宿で自室に入るなりどうやら眠りこけてしまっていたらしく、さらには町の近くの丘農林に月兎が出たときた。
町は警戒態勢を最大に引き上げ、どうやら冒険者ギルドから緊急依頼まで出て月兎討伐のため躍起になっているようだ。外からも冒険者を募り、月兎に因縁のある者たちも今日のために急いで向かって来ているようだ。
わたしはというと、もちろん逃げる。月は見たいが月兎は拝みたくない。やっと旅に出れたのにこんなところで命を落とすなんて無様すぎるにも程があるだろう。さっさと消えさせていただく。
宿の食事処も喧騒に駆られており浮き足立った様子だ。皿のスープを一気にかきこみ宿の店主にひとこと礼を述べて宿を後にした。代金は朝夜食事部屋代こみで先払い一泊銀貨一枚と良心的な宿だった。
外に出ると、祭りの用意までしていたはずの露店街は幕や旗を畳み避難のため準備をしているようだった。そのため人でごった返しており、町の出口に向かって列ができていた。
「すごい人……きゃっ」
「何突っ立ってやがんだ!」
「ご、ごめんなさ、あっ」
転んだ弾みで、頭に深く被っていた皮帽子が地面に落ちる。
「お、お前……兎っ!」
「ち、ちが、ぁう……」
咄嗟に頭に手をやるが、もう遅い。
今までぱんぱんに押し込められたものが解き放たれるように、帽子の中にあった暗めで濃紺の長髪と
ーー長い垂れ下がった兎の耳が現れた。
その特徴的な容姿に周囲は驚き、懐疑の念の篭った視線を浴びせられた。
「て、テメェ、まさか月うさーー」
「おら、邪魔だよおっさん」
ぶつかって来た冒険者らしき中年の男は戦慄きわたしを指差して、皆が想像させた存在を口にしようとしたところ、見知らぬ青年が彼の肩を掴み押しのけーー
「大丈夫か嬢ちゃん。ほれ、手貸すぞ」
わたしの前で膝をつき手を差し伸べてくれた。
「あ、ありがとーー」
「なんだテメェは!? ガキが調子乗って出張ってくるんじゃねぇ! こいつは月ーー」
「こんな年端もいかない女の子が月兎だぁ? あんたの目ん玉狂ってんじゃねぇのか? どう見たって普通の亜人、兎人族だろうが」
「わ、わわっ」
わたしはその問答の間に目の前の青年に引き寄せられ、何も言えずに立ち上がらせてもらっていた。
うっ、顔絶対赤い……。
「あんたらもだ。どいつもこいつも何もしてないか弱い女の子に、んな目付き向けてんじゃねぇよ。いい大人どもが恥ずかしくねぇのか」
「あぅ」
青年はそう言いながらわたしに帽子をぽんっと被せてくれた。
変な声が出てしまった……。
「言わせておけば……」
先程の中年男性とは違う冒険者らしき男が、わなわなと拳を震わせながらにじり寄ってくる。
わ、わたしのせいで、なんだか大変なことに……。
「止まりなさい」
すると、今度は青年の側で立っていた小柄なローブの少年……? 少女のどちらとも、声だけでは判断できない人が青年の前に立ちはだかり、冒険者の男の進行を阻止する。
「あぁ? またガキが増えーーんな!?」
謎の人は突然視界から消え、その一瞬のうちに冒険者の男はいつの間にか眼前にまで迫っていた謎の人に膝を曲げられ、喉に鋭い刃物を突きつけられていた。
全く動作が見えなかったのはどうやらわたしだけではないようで、皆一様に驚きを隠せない様子だ。
「此の方に不貞な手を出すようでしたら、この場で月兎に食い殺されるよりも早く私が斬り裂いて差し上げますが、如何なさいますか」
その抑揚のなく、淡々と綴られた謎の人の言葉は冒険者の男だけではなく周囲にいる人たちにも向けられているようで、今にも殺してしまおうかという殺気を、一身に浴びている冒険者の男は恐怖で震え小声で助けを乞うていた。
その殺気に充てられた周りの人たちもこの青年たちが只者ではない冒険者だと悟り、そそくさとこの場から離れ避難の列に戻っていった。
高圧的だった冒険者の男も、謎の人が刃物を離すと同時にそそくさと逃げおおせて行った。
「……はぁ、勝手に動きすぎです」
「あぁすまん、体が勝手に……」
得物を懐へと納めた謎の人は、呆れた様子の溜息を吐いてそう言い、青年はそれにバツの悪そうな顔で申し訳なさそうに返した。
わたしはそのやり取りをぼーっと眺めていたが、あることを忘れていた。
「あ、あの、助けていただきありがとうございましたっ」
「ん、あぁ。いい。俺は気にすんな。礼ならこいつに」
「私も大丈夫です。此の方の尻拭いをしたまでにすぎませんので」
なんだか変わった人たちだ……そんな感想を抱くほどに見ていて二人の信頼関係は不思議なもので、主従関係にしては青年も若く雰囲気も達人の域を出るというわけでもなさそうだった。むしろ今の彼は一般人のそれに近い。なんだか先程のかっこよさが段々と薄れていくようだった。
「あの、あなた方は一体……?」
「あぁ、俺たちはーー
ーーその会話が、彼らと出会って最初にした会話だったと思う。
わたしは兎人族。失われたノームの森の集落、兎人族の里の生き残り。
『私たち兎人族は、月に愛されているのよ』
お母さんがわたしを寝かせ付けるときに、よく言ってくれた言葉。
思い返すと、はっきり覚えていた。
お母さんとお父さんは綺麗な月の光に照らされて、夜更けの森の中でもよく見えた。
苦悶の表情を浮かべる暇もなかった血塗れの顔、無残にも切り裂かれ飛び出してしまった赤みがかった桃色の臓物。
ーー月の光に照らされて、とても綺麗に見えてしまった。
わたしは月に嫌われている。
月はわたしから家族を奪い、居場所も奪った。
だからわたしは月が嫌いだ。
でも、一度くらい見てみたい。
あぁ
もう、眠いやーー
この世界での成人は15歳です。