ギアーズ イン ザ スチーム
少女は機械油の滲み込んだ布を肩にかけて、今日も自らの持ち場へと急ぐ。いくら洗っても黒ずみの取れぬそれを気にもかけず、また純白にしたところでその日の内に黒に染まる事など分かり切っているとでも言いたげに、ただ無言で蒸気に煙る街を足早に進むのだ。
蒸気の街は眠らない。何も語らずに白煙を吐き出し、物言わぬ歯車を回し続ける。金属然とした赤銅色の街並みは、煙霞に呑まれるようにその輪郭を暈している。
くすんだ色合いの中に、少女は純白を見た。
敷き詰められた灰色の石畳の道。脇に聳える鈍色の蒸気機関の群れ。まるで、そこに混ざり合う事を拒否するように、真白な服を着た少年がぺたりと地面に座り込んでいた。
幽霊か何かだろう。そう、少女は考えた。
この街で生きている人間なら、機械油にまみれて当然なのだ。蒸鉄の街を動かすのは数も知れぬ程の歯車と、蒸気を運ぶ鉄の管だが、それを回し動かすのは人なのだから。事実、少女も日々を仕事に生きており、煤けた頬や衣服、そして仕事の邪魔だからと短く雑に切られた髪が少女の日常を物語っていた。
それなのに、少年は白いのだ。衣服だけではない。その肌も病的に白く、髪の色も色褪せたような白だった。
少女は一瞥をくれてから、そのまま歩を緩めずに通り過ぎようとした。死人に関わっている時間などないとばかりに道を急ごうとしたが、純白の少年が不意に声を発した。蒸気を運ぶむき出しの管を指さして。
「ねえ、このパイプは何かな」
細く発せられた少年の問いに、少女は答えない。そもそも、答えられない。ただ、熱された蒸気が通っているそれが、触ると危ないものだということだけは経験則で知っていた。
そして無視を決め込んで数歩進んだ少女の背後から短い悲鳴が上がった。少女が思わず振り向けば、少年は右手を押さえていたのだ。
――死人ではないにしろ、ただの馬鹿だな。
少女は思った。それだけなら、ただの物知らずとして捨て置いただろう。少女が生きる世界に、少年の愚行はなんら利益をもたらさないのだから。
しかし少女は自分の見たものがにわかには信じられなかった。
それゆえに歩みを止めた。
少年は笑っていた。痛みを堪えて、それでもなお、口角を上げて。心の底から嬉しそうに笑みを浮かべていたのだ。
「なんで笑ってんだよ、お前」
先を急いでいたはずなのに、少女は思わず少年に問いかけた。近寄ってみれば、少年からは街特有の機械油の臭いがしない。代わりに少し鼻にくるような尖った臭いがした。
少年は少女が近寄ってくることを認めて、さらに顔を綻ばせた。それが一層、少女の興味を引く。
「とっても、熱くって」
「当たり前だろ。それは熱いんだ」
少年は困ったような顔を見せた。赤くなった右手に息を吹きかけ、ゆるゆると立ち上がる彼の仕草を見て、少女はもう一度、目の前の白い相手の身なりを上から下まで見た。
働いている者ではない。穢れを知らぬとでもいった白い肌と、すらりとして傷もなにもない指が少女にそう思わせた。自分はといえば煤けた顔に黒ずんだ衣服、そして機械仕事で生傷を作り続けている指先である。
少女はふん、と一つ鼻を鳴らした。
「ま、いいや。じゃあな、物知らず」
力なく笑みを浮かべながら、少年は言った。
「君は、街の外に出たいと思わないの?」
その問いかけに、今度は少女が困惑した。質問の意味が分からなかったからだ。少女は生まれてからずっと、この蒸気の街で生きてきた。起きて、働いて、食べて、寝る。それが少女の全てだった。それ以外があるなど、少女は考えたこともなかったのだ。
「外ってなんだよ。知らねえよ、そんなもん」
少年からの問いかけを考えないようにして、少女は今度こそ向きを変えて少年を視界から追い出した。
足早に仕事へ向かう少女は、肩に掛けた灰にくすんだ布を知らずの内に握りしめていた。それは、余計な時間を費やしたが故の、仕事に遅れることへの焦りであったかも知れないし、自らの知らぬ世界があることへの畏怖のようなものであったかも知れない。
○ ○ ○
少女はいつでも一人である。壁一面に歯車がぎちぎちと回る薄暗い大部屋。そこが、少女の働く場所だった。毎日、すべての歯車を確認し、擦り減っているものや欠けたものを取り換えるのが少女の仕事。
今日は部屋に入って左の壁の歯車が動いている。なので、止まっている右の壁の歯車を見るのだ。一日おきに左右を入れ替えて駆動する歯車の群れは、少女の知る限り、休むことなくずっと動き続けている。
誰かが螺子を締め、別の誰かが油を射し、そして他の誰かが燃料をくべて、炉で熱された蒸気で以て、ようやく歯車は回りだす。次へ、また次へとその動力を伝える歯車は、やがて街のすべてを動かすのだ。
街を動かすのは歯車であり、つまりそれを動かす人間が、街を生かしている者に他ならない。
だから、歯車は休んではいけない。
次へと動力を伝えるためには、止まってはいられない。
少女の仕事は不具合のある歯車を取り換えることだ。それだけを考え、それだけを続けて生きてきたし、それ以外に何かあるなどと考えたこともなかった。
後ろの壁から歯車が鳴る中で、たっぷりと時間をかけて、少女は歯車の群れを確認した。この日に交換する必要があると感じたのは、一つ。歯が少し擦り減った歯車を壁から外す。工具を使い、油で鈍く色付くそれを少女は不意に取り落とした。不完全だと少女が感じた歯車は地面を数歩分転がり、がらんと地面に横たわった。
○ ○ ○
不完全な歯車を取り換え、少女は帰路に着く。
寝床に帰れば、ぶしゅうという蒸気の音と共に壁の中を走る管を通して金属の箱が届く。それを手に取り、中にある、その日の分の栄養を取るための錠剤を飲み下す。
またしばらくすれば、仕切られた別の一角で蒸気によって熱された湯が降り落ちる。少女は衣服と自らの体、そして油が滲みこんだ布を洗った。
湯が止まれば、熱風が吹く。衣服と体、そして布を乾かせば、後はいつも通り寝るだけだ。
これだけが、少女の全てだった。
しかし、横になった少女の脳裏に純白の少年がちらつき、頭から被った大きな布をことさら強く巻き付けるようにして少女は体を丸めた。余計な事を体から、頭から締め出すように。小さく、小さく体を折りたたんだのだった。
○ ○ ○
次の日も、少年は同じ場所にいた。
ただ違うのは、白かった衣服の裾が黒ずみ、少年の頬も少し煤けていたことだ。
昨日にもまして弱々しく座り込む彼を見て、どうしてだか少女は苛ついた。
街を回すためには、与えられた仕事を遂行するものなのだ。それが、少女にとっての生だった。それ以外の生を、少女は知らなかった。知る必要がなかった。
「ここには、他に誰かいないの?」
少年が問う。声は、とても小さく、弱い。
生きている者は歯車であり、そうでないものは死人なのだ。
歯車は、他のものに動力を伝えられる。
一歯進めば、一歯分だけ。一回転すれば、一回転分だけ。
「他の人間を見たことはねえけど、私たちは歯車なんだ。
誰もが、誰かのために仕事するんだ。欠けちゃダメなんだよ」
少年は悲しそうな顔をして、それから視線を下げた。少し時間を空けて、呟くように少年が言う。
「それなら僕は、歯車じゃあないね。
誰のためにもなれない」
「そうかい」
少女は興味なさそうにそう言い捨てた。少女の日々に、少年は必要ないのだ。悪い歯車を見つけては交換し続ける煤けた少女にとって、純白の少年は異質なものでしかなかった。
「僕は、車輪がいいなあ」
何もない空間を見つめて、少年は言う。少女は頭をがしがしと掻いた。
「おい、物知らず。しゃりん、って何だよ」
「歯のない歯車のことさ」
顔を上げて、少女の問いに嬉しそうに少年は答える。力のないその笑みは、とても穏やかなものだった。
「はん、そんなもん何の役にも立ちやしねえ。
そんならお前は確かにしゃりんだな」
「そうだね。
でも、車輪は転がるんだ」
憧憬を映したその瞳は、変わらずどこか遠くを見ている。
軸に組み込まれないもの。同じ場所で回ることのないもの。それは、ただ自由に、どこまでも転がっていく。誰にも動力を伝えることなく、気ままに轍をつくって、どこまでも。それが、少年の憧れる車輪だった。
少女は車輪を知らなかった。それは、これまでの少女の生活に必要ないものだったし、これからも必要のないものだろう。だから、少年が喜色ばんで話す事も、彼女にとっては訳の分からないものだった。
「よく分からねえけど」
そう前置きして、少女は言葉を続ける。
「きっと、私は歯車で、お前はしゃりんなんだろ。
それでいいだろ。じゃあな、物知らず」
それだけ言い残して、少女はその場を立ち去った。後ろは、振り返らない。少年がひらひらと悲しそうな顔で手を振っている姿を、少女はまったく見なかった。
そしてそれ以来、少女は少年に会うことは無かった。
少女は変わらず歯車として街を回す。重たく響く歯車の音と、蒸気に煙る鉄の街の中で。
○ ○ ○
少年がどうなったかなど、少女にとってはどうでもいいことだった。
どうでもいいことだと、思っていた。
それでも、ふとした時に少女は、熱された蒸気の通る錆色の鉄管に視線を奪われるのだ。少年が触れて、苦悶の顔で笑みをうかべたそれは、少女にとってはもうただの管ではなくなっていた。
ある日、戯れに触れてみたそれは少女に鋭い痛みと熱を与えた。
反射的に手を引き、くすんだ布を握りしめる少女。その表情は困惑を表していた。
どうして、熱いと知っているはずの鉄管に触れてしまったのだろう。
蒸気の街は少女の困惑に答えを示さない。何も語らずに白煙を吐き出し、物言わぬ歯車を回し続ける。金属然とした赤銅色の街並みは、煙霞に呑まれるようにその輪郭を暈しているばかりだった。