03
「――で、カインは本当にオリヴィア姉上を口説くつもりなのかい?」
「えぇ。…そ、そりゃ、相手はイザベラ様と同じく王族の一員だし、かつては隣国の王家に嫁いだ経歴も持つお方ですから、俺如きが口説くなんて身の程知らずな行為だとは重々承知していますが、」
「否、僕はてっきりカインが義弟になるものだと思っていたから、まさかここにきてカインが義兄になる可能性が出てくるとは予想外だったというか……。あぁ、否、誤解しないでほしいんだけど、何もカインが義兄になるのは僕もやぶさかじゃないし、オリヴィア姉上を心から愛してくれる男性であれば僕らは相手が農夫だって構わないと思ってるくらいだから、そこは別に良いっていうか…」
「い、良いんですか!? 農夫でも!?」
「ここだけの話、オリヴィア姉上を本当に愛して幸せにしてくれる男性なら、この際身分など二の次だというのが僕らの総意だ。姉上には何の落ち度もないのに、僅か三歳で顔にあんな後遺症が残ってしまったせいで、昔から辛い思いをなされているから…。初めての結婚でも酷い扱いを受けて戻ってきたくらいだから、僕らとしてもオリヴィア姉上の事に関しては慎重にならざるを得ないんだよ」
「俺も、オリヴィア様のご結婚が決まったと知った日には枕を濡らしましたが、嫁いで二年後に手酷い扱いを受けて婚家から戻されたと知った時は、相手が隣国の王族と言えども殺意が芽生えましたからね。アレックス殿下のお気持ちを裏切る事はこのカイン、決して致しません」
「そう。…なら良いんだ。カインがそんな奴ではないと僕も信じているけれど、冷やかしとかイザベラに恥をかかされた意趣返しにオリヴィア姉上を利用するつもりだったら、いくらカインでも僕らは容赦しないから。それだけ言いたかったんだ」
「アレックス殿下…」
金髪碧眼の見目麗しい、まさに「王子様」といった外見を持つアレックスは正真正銘王子様で、歳はカインよりも一つ上の第二王子である。
天使の輪が浮かぶプラチナブロンドと澄み切った碧い瞳は王妃譲り。この学園で一番人気のアレックス。
カインは彼の妹であるイザベラの元婚約者だったのもあり、歳の近いアレックスとは幼い頃から親しく友人付き合いを許されている。
見るからに典雅で上品な王子様であるアレックスと色っぽく華やかな美男子であるカインが並ぶと、空気の色さえ変わるほどの美々しさなので、女子生徒から向けられる熱い視線が凄まじい事になっている。
「安心して下さい、アレックス殿下。俺はイザベラ様と婚約していましたから、ずっと彼女と結婚するものだと思っていました。だからオリヴィア様への恋慕は決して誰にも明かさず墓の下まで持っていくつもりだったのですが、今回、あのような事態になりまして……不謹慎でしょうが、俺は叶わぬ夢だと思っていたオリヴィア様への恋を諦めなくても良い可能性がある今の状況に、感謝しているのですよ」
偽りなきカインの本心だった。
オリヴィアの事を長い間、それこそずっと密かに想い染めてきたけれど、自分の結婚相手は六歳で既にイザベラと決定していたから、誰にも明かさず一生を終えるつもりでいた。
勿論、イザベラの事を嫌いになった訳ではない。
今回の件で呆れはしたし多少幻滅もしたけれど、カインはカインなりに彼女の事を妹のように可愛がっていた。今は恋の熱に浮かされて、少しエリックにのぼせ上がっているだけだ。我に帰ればキチンと反省出来る姫だと思っている。
それは元婚約者として、それこそ長年見続けてきたカインだからこそ、イザベラへの希望を簡単に捨て切れない。
誰にでも一度や二度、人生で大きな失敗や回り道をする事はある。もはやイザベラともう一度婚約を結ぶ事はないだろうし結ぶつもりもないけれど、いつか和解が出来れば良い。
「カインは大変だな…。僕はイザベラの事だけで頭が痛いのに、君はカサンドラ嬢までエリックに誑かされているんだろう?」
「それなんですよね……」
王子の前だが、ついため息を吐いてしまう。
カサンドラはカインとは口を利く気がないらしい。廊下や部屋の前で顔を合わせると、カインによく似た高飛車な顔でツンとそっぽを向き、無言で去ってしまう。
カサンドラは姉だが双子故の気安さと言えば良いのか、貴族の姉弟と言うには距離が近しい。同時に生まれたせいか「姉上」とは呼ばず愛称で呼ぶのが当たり前だし、彼女もカインに対して常に姉ぶる訳でもなく、時々妹のように甘えてくる事もあった。
見た目は妖艶でも中身は歳相応の姉弟だし、かなり仲良しな方だったと思うので、今回のカサンドラの変わりようには少々ビックリしている。
……その態度、いつまで保つか見物だな、なんて意地の悪い事なんか思っていない、露ほどにも。
「シャーロット嬢にはまだ婚約者が居ない事は知ってますが、セシル嬢には…婚約者とか居ましたっけ」
「あぁ、正式に婚約を交わした訳ではないらしいが、家ぐるみで付き合いのある幼馴染の伯爵令息が居たはずだ。同じ爵位で家格にも大きな差がなくどちらも武門の名家だ、釣り合いは取れていると見て良い。婚約するなら彼が妥当なのではないかな、と僕は前々から睨んでいたのだが……」
「あぁ、思い出しました。二つ下のデニス=アンダーソンですね。ブライアンと同じ士官学校に居るので、その隙をエリック殿に狙われたという事ですか…」
「何だ、詳しいな」
「ブライアンが可愛がってる後輩なので。…案外、世間は狭いなぁ…」
「先輩と後輩が揃って婚約者を同じ男に奪われたという訳か。エリック=スウィングラーの人選はどうなってるんだ」
単なるゲームのシステムです、とは言えず、カインはアレックスに苦笑した。
「……取り敢えず、カイン。言っておきたい事があるのだが、良いか」
「はい」
「オリヴィア姉上は結婚どころか、もしかしたら僕ら身内以外の男性全てを恐れているかもしれない。何せ初めての結婚で、多少覚悟はしていても向こうでの扱われ方はとても一国の姫を妻に貰った王太子の態度ではなかったそうだからな。結婚そのものに酷いトラウマを抱えているかもしれない。……特に、お前のように美しい男が相手なら、尚更怖がってしまうかもしれない」
「……」
「それでも、あの優しく気高い姉上を。最後まで裏切らないと、約束してくれるだろうか」
「……」
黙ってアレックスの言葉を聞いていたカインは、明確な言葉を何一つ言わず、ただ静かに微笑んだ。
そして、付き合いの長い第二王子にはカインのその微笑だけで、もはや答えとしては充分だった。
カインが夜会で国王夫妻に、彼らの娘であるオリヴィアに恋を告げる許可を求めたという噂は、たった数日で王都中の貴族が知るところになった。
オリヴィアは悲劇の姫である。僅か三歳で、一つ歳の違う兄の王太子と同じ榛色の髪を持っていたが故に間違われ、毒を盛られてその身に醜い後遺症が残ってしまった。
三歳の愛らしい幼女が受けるにはあまりにも悲惨な出来事だが、皮肉な事に、彼女と間違われたからこそ、王太子は毒を盛られずに済んだ。
王家には現在五人の子が居るが、父王譲りの榛色の髪を持つのは王太子であるフェリックスと第二王女のオリヴィア。第一王女のミランダ、第二王子のアレックス、第三王女のイザベラは母譲りの繊細な金髪だ。
フェリックスは事の要因となった人物もであるので、一命を取り留めたものの毒素が顔に巡って痕が残ってしまった妹に対して罪悪感もあるのだろう。どの兄弟よりも親身に接してどの兄弟よりも甘いと評判だ。……それはつまり、裏を返せば。
「超シスコンって意味ですよねー」
「…まぁ、否定はしない。有名だから、フェリックス殿下のそれは」
「王女自身にも結婚に関しては逃げ腰になるだろ、って予想出来ちゃうエピソードもある事ですし、色々と障害が多い恋じゃないっすかー? カイン様、本当にオリヴィア姫を口説くおつもりで?」
「煩いぞ。俺だって恋を自覚した瞬間に諦めてたけど、せっかくこんなチャンスが転がってきたんだから、結果はどうあれ、やらずに後悔するよりやって後悔したいと思うだろ」
学園から屋敷に帰れば、従僕のテッドが早速つついてきた。
ただ単にゴシップ好きでつつきたいのではなく、多分、両親のどちらかの差し金だろう。婚約破棄されて、次に望む縁談の相手に何もオリヴィア姫を選ばなくても良いだろう、と。
オリヴィア本人は清楚で穏やかで聡明な、まさに淑女の鑑のような姫君であらせられるが、カインの恋が茨道である事は少し考えなくても誰にだって理解出来る。オリヴィア本人に落ち度がなくても、彼女を得ようとする事だけでも充分に難しい相手である。
そんな難攻不落と望む前から結果が判っているようなオリヴィアに僅かな期待だけで時間を割くよりも、まだ婚約者の居ない妙齢の令嬢達の中からアルベスト公爵家と釣り合いが取れる物件を見繕ってとっとと口説き落とした方が時間の無駄にならないと言いたいのだ、両親は。
確かにその方が合理的だし、理に適っている。カインの理性は両親に同意する。
カインとて易々振られるつもりはないし、思わぬ事態で転がり込んできたチャンスだからオリヴィアに心底嫌がられる手前までは粘りたいと思っているが、振り向いてくれる可能性が低いオリヴィアに無為に時間を使い続け、結果婚期を逃してしまっては元も子もない。
婚期といってもカインは令嬢ではなく令息だから、まだ猶予はある。男性より女性の方が婚期は短い。
だが、今のカインは婚約を解消したばかりで一番のモテ期を迎えているのだ。婚活するならばこの絶好の機を狙わない馬鹿は居ない。
「テッド」
「はい? あ、これ、今日カイン様宛に来た手紙です。フリーになった途端ご令嬢からのお誘いやら何やら、凄いっすねー」
バサバサー、とマホガニーの机の上にたくさんの封書をぶちまけるテッド。
いつもどこか飄々としている、枯れ草色の髪に一重瞼の眼を持つせいでどこか狐っぽい顔立ちをしたこの従僕は時々、仕事にやる気がなさ過ぎてこんな杜撰な態度を取る。普通ならとっくにクビになっているだろうが、困った事にこの男、普段はのらくらしているよう見えてとても有能な従僕なのだった。要するに手放し難い。
何よりカインは、こんな風にやる気のかけらも見せず堂々とサボりたがるテッドの自由な言動がどうした事か嫌いではないのだった。
恐らく、自分が普段から多忙かついろんなしがらみで雁字搦めになっているから、投げやりに仕事をしちゃうような奔放さを持つテッドを羨ましく思っているからだろう。
それにテッドはウダウダ言いながら結局はキッチリ仕事をこなしている。現に、さっきも手紙の束を無造作にぶちまけたように見えても、たくさんの手紙は綺麗に揃えてみれば家格やアルベスト家との繋がりの強さを選定して全てより分けられた後なのである。
ダラダラしているように見えてこういう抜け目のない仕事ぶりが、テッドらしくて憎めない。
それだけ有能なくせして未だ従僕どまりなのは、ひとえに彼のやる気のなさが原因だ。何せ「執事? 今以上に忙しく責任ある立場じゃないっすかー。ヤですよ面倒くさい」と一刀両断してのける男。執事になりたくないが故に、従僕として現状維持に徹している。楽する為の努力を惜しまない、欲望に忠実なテッドなのだった。
「テッドは、この歳になって婚約破棄されたのを良い事に、今さら墓の穴から初恋を掘り起こしている俺の事、馬鹿みたいって思うか?」
「そりゃーまぁ、正直言えば思わなくもないっすけどー」
一番上の封筒は花の透かしが入った淡いピンクで、如何にも女性らしい。封蝋を見れば大体どこの家からか判る。
水牛の角で作られたペーパーナイフを滑らせて中を開けると、封筒と揃いの便箋には女性らしい流麗な文字が並んでいる。内心で、「この文字の美しさは合格点だな」と教師のように採点する自分が居た。カインの伴侶になりたいとアピールしているなら、代筆の可能性も高い。例え文字だけでも、とにかく好印象さえ植え付けてしまえば良いのだから。
要約するとガーデンパーティーへの誘いだった。そろそろ冬が終わる今の時期、どこの屋敷も早咲きの花で庭は少しずつ春めいてきている。
まだ婚約者の居ないたくさんの令嬢や、そんな令嬢を持つ親達からの手紙をカインは一つ一つ確かめる。
王女から婚約を破棄された男というレッテルを貼られても、あまり瑕にはなっていないらしい。この手紙の多さからそれは窺えたが、それは逆を言えば。
「……俺のオリヴィア様への恋慕は、それだけ本気に捉えられていないという事か…」
判ってはいた。
カインも一端の貴族令息だ。腹芸の一つや二つ、素知らぬ顔してやれないようではこの先生き残れない。
イザベラの婚約者であったカインは、オリヴィアへの想いをひた隠しにしていた。それはもう、徹底的に隠していた。
誰にも気付かれていない自信はあったし、事実、夜会での告白は誰もが瞠目していたのを覚えている。つまり、誰もカインの恋に気付いてはいなかったのだ。あの夜までは。
誰にも悟らせず墓の下まで持っていくつもりだった初恋である。そんな素振りを今まで全く見せてこなかったのだから、あの場に居た者達でさえも大半は「信じられない」という気持ちしかないのだろう。だからこんな風に、カイン目当ての手紙が大量に届く。
それと、カインの気持ちが本気だと判った上で、それでも自分に勝ち目があると思っているか。
オリヴィアへ抱く恋慕をあの場限りの冗句だと思われているのは心外だが、これが世間一般の自分の恋に対する見解なのだろうと察してしまえば、それも致し方ない。
ある意味、自分の恋心はあの夜まで完璧に隠し通せていたのだと誇っても良いかもしれない。
「……俺はさー、カイン様」
「何だ」
まだ居たのかお前。――とは口に出さずとも目で言うカインに、テッドはへらっと笑ってから、
「カイン様が馬鹿みたいな初恋に向かって頑張るのは馬鹿みてぇって思うけど、カイン様が馬鹿みたいな初恋に向かって頑張るのを応援してぇって思うのも、事実なんすよねー」
「馬鹿みたい、って何だ」
ちょっとムカッとしたので反論してみたが、
「だって馬鹿みたいじゃねぇっすかー。カイン様って初恋がそんな素晴らしい、尊いもんだと思ってんすかー? 恋なんて誰にでもあるような、そんな特別なもんじゃないっすよー? オリヴィア姫なんてどう考えても見込み薄そうなんだし、とっととその中から適当に好みかつアルベスト家にとっても良縁になりそうな家の娘に手ェ出しちゃえば良いのに、って思うのは、当然じゃないっすかー」
「…身も蓋もないな」
すぐに一蹴されてしまった。テッドのとことんロマンを解さぬ徹底的なドライさが時折胸に痛い。