02
カインは社交界デビューを迎える前から婚約者が居るので、デビューしてからずっと同齢のイザベラをエスコートしてきた。寧ろイザベラ以外をエスコートしたら大問題だ。
イザベラが風邪を引いたり足を挫いたりして出られなくなった時は、姉のカサンドラにパートナーを頼んでいた。
カサンドラにもブライアン=ラムゼイという婚約者は居るのだが、彼は数年前から遠方の騎士養成士官学校に在籍していて、立派な騎士となるべく励んでいる。
双子の姉の婚約者という立場故に、カインはブライアンと親しい。手紙のやり取りは姉ほど頻繁ではないものの、男同士でしか分かち合えない事もあるから、姉とは別にカインも個人でブライアン宛てにカサンドラの様子や王都のニュースなど、月に一度は書いて送っていた。
カサンドラがエリックに心を寄せつつある事も、迷った末に書き綴った。隠していてもブライアンが士官学校を卒業して王都に戻ればいずれ明らかになる。そして彼の卒業まで、後二ヶ月もない。
ブライアンが遠方の士官学校に入学したのは十三の春だから、かれこれ四年半以上、顔を見ていない。騎士の為の士官学校は厳しく入学試験も難易度の高さで有名なので、一度寮に入ってしまえば、身内の危篤でもない限り、長期休暇であっても故郷に帰るのは許されないのだそうだ。
だからカインの記憶の中のブライアンは如何にも清廉な騎士の子息らしい、無骨な少年のままで止まっている。
彼は歳より大人っぽく色気のあるカサンドラを前にすると、いつも顔を真っ赤にしてしどろもどろになってしまうような、前世のカインに似た純情な面があった。
カサンドラはそんなブライアンの純情さを笑っていたが、それは初々しい婚約者の態度を微笑ましく思う、好意的なものだった。……それなのに。
奥手で、一途で、真面目なブライアン。婚約者の心離れをどのように捉えただろう。あれから手紙は来なくて、カインとしても友人で将来の姉婿だと思っていた彼の傷心を思うと、胸が痛いけれど。
「――これは、何の騒ぎだ」
決して大きくはないのに腹の底を鷲掴みにされるような声が沁み渡り、ハッと居住まいを正す。
元々何かと人目に触れる立場なので、常日頃から姿勢には気を付けているものの、やはりかの人の声というものは特別な響きがあった。何せ国で一番偉い人の声であるからして。
為政者の声というのは、いつ聞いても背筋が伸びる思いがする。声だけで物々しい威厳を醸し出す、かの人は義父になるかもしれなかった男。――国王陛下、その人。
大扉から二人の姿が現れる。問答無用で跪きたくなるくらい神々しい威厳に満ちた国王の隣に、たおやかな王妃。さざ波のような繊細なデザインのドレスは人妻らしく露出が少ないのに、姉以上に艶めかしく、本当にこのしっとりとした美しい人が妙齢の子供を五人も生んだのかと目を疑ってしまうほど。
いつ見ても静かな貫禄を湛えながら国民への慈愛を惜しまない夫婦は、カインの目指す夫婦像である。
「お父様!! お願いが御座います、私とカイン=アルベストの婚約を、今すぐ白紙になさって下さいませ!」
「…イザベラ。そなたは何を口走っているのか、ちゃんと理解しているのか」
「勿論です、お父様! つきましては、このエリック=スウィングラー男爵令息を、私の新たな婚約者候補として認めてほしいのです。スウィングラー家は爵位こそ男爵と低いですが、エリックは文武に長け、元は庶民として生活していましたから国民の気持ちも私達よりずっとよく判るに違いありませんわ! 民の生活を守るべき我が王家に、エリックほど相応しい方も居ません」
(何つー無茶言いやがるのこの姫。こんなのを嫁にする為に頑張ってたのって、何か空しい…)
色々と突っ込みどころがあり過ぎてカインは無表情を保つものの内心は呆れを通り越して国王の反応が怖かった。寧ろ、他にも女を侍らせている男を婚約者候補に望む時点でどうかしている。「本当にそれで良いのか?」と一度は婚約をしていた間柄として、イザベラに物申したい。
他のライバルから反感を持たれて足を引っ張られるのが目に見えているし、それよりも先に国王がそんな馬鹿な提案を頷いて受け入れるとは思えない。
イザベラの盲目具合にはショックだが、カインは他の国王夫妻や王子や王女を心から尊敬しているのだ。末っ子故か多少我が儘でサボり気味ではあったものの、イザベラだって以前はここまで短慮ではなかったはず。
それを言うなら姉のカサンドラもそうだし、博識と名高いシャーロットや潔癖なセシルも、噂に違わぬ聡明さと気高さを持った令嬢だった。
それなのにエリックと関わってからの彼女達は、一気に頭が悪い馬鹿な女のようになってしまって。エリックは何かとんでもない魔法でも使って彼女達を無能にしてしまったのだろうか。だとしたらエリック怖い。
「……エリック=スウィングラー?」
「は、はい! 僕がエリック=スウィングラーと申しますっ。国王陛下にお目通りが叶って、光栄です!」
もっとも空気読むべきエリックの溌剌としながら緊張感が伝わる自己紹介に、カインでなくても冷や汗が流れた。
国王陛下という国で一番偉い人を前に、これでちゃんと礼儀作法の教育を受けたのかと目を疑うような拙い挨拶。跪かなくても良いが、略式でも頭はキッチリ腰を折って下げるべきだし、そもそも、公式の場で「僕」はアリなのか。……「俺」ではない分、大らかな相手なら許容範囲かもしれない。
「…イザベラ。末っ子だからと、少々甘やかし過ぎたようだな。カイン、そなたには実に済まない結果となってしまったようだ」
「いいえ。イザベラ様を繋ぎ止められなかったのは、私の魅力が足りなかったのです」
「謙遜するな。――カイン、そなたが息子になる日を、余はこれでも待ち遠しく思っていたのだぞ」
「お戯れを…」
恐れ多くも嬉しい。
幼心から尊敬し、いつかこの偉大な方の息子になるのだと気負って、精一杯努力してきた。その片鱗を少しだけでも認めてくれていたのだと、信じても良いだろうか。
「恐れ多くも、陛下の義理の息子になるのだと、陛下の恥にならぬようにと、私はずっと邁進してきました。陛下からそう仰って頂けるとは、光栄の極みです」
本当に、言葉にならない。感無量ってこういう事だ。
「お父様、それで、エリックの件ですが…」
「イザベラ。余は今、カイン=アルベストと話をしている。いつ会話に口を挟んで良いと言った」
「……ッ、」
娘相手にもこの冷徹な声。「末っ子だから甘やかし過ぎた」なんて言っていたが、絶対そんな事ないと思う。
声と一瞥だけでイザベラを黙らせた国王陛下に、カインは一か八かで申し出てみようかという気になった。
『カイン、そなたが息子になる日を、余はこれでも待ち遠しく思っていたのだぞ』
もしかしたら、煌びやかな夜会に公衆の面前で婚約を破棄された男があまりにも不憫で、親として娘の言動に詫びを込めたリップサービスなだけかもしれない。
もしそうだったら、鵜呑みすれば馬鹿を見る。――けれど。
あの言葉、心からのものと信じたい。
カインは努力してきた。由緒あるアルベスト家の公爵令息として、そして一国の姫という貴い身分に釣り合う自分になろうと。――そう、一国の姫に見合うように。
「カイン。どうやらそなた程の男と娶せるには、我が不肖の娘、イザベラでは勿体なかったようだ。婚約は白紙にした方が、互いにとっても良い事だろう。そなたの次なる縁については、希望があれば余の名において多少は融通も出来よう。…よもやこれほど大きくなった娘の尻拭いをする羽目になるとは、思いもしなかったが」
「お父様? それはどういう意味でしょうか。カインはこの将来有望なエリックに対し、数々の非道を行ったのですよ!」
「イザベラ。二度も言わせるな。それとも修道女になりたくなったのか。そうでないのなら、黙っているが良い」
「……ぉ、おとうさま…」
黙ってろと言われたはずなのに、何故言い付けを守れないのか謎だ。普段だったらちゃんと守れるくらいには、イザベラだって聞き分けの良い娘であったはずなのに。
元がゲームの世界だから、もしやバグったのかとひっそり恐ろしい可能性が浮かんでしまった。
「次なる縁を結ぶ際、陛下のご威光を翳しては、どんなに想う相手が居る令嬢であっても断れません。私がもし、人妻に横恋慕してをその人を得たいと望んでしまったら、どうなさいますか。夫と別れさせて私の妻になれと、陛下の御名で命令を?」
「カイン!? 貴方、私という者がありながら、他に心想う女性が居たのですか!? それは立派な浮気じゃ御座いませんこと!?」
どの口が浮気を糾弾するのか。先に浮気をした挙句、一方的に濡れ衣を着せて婚約破棄に持ち込んだのはイザベラの方なのに。
カインは華やかで艶麗な見た目からどうにも遊んでいるように見られがちだ。ふしだらな誤解を抱かれる事もよくあるからこそ、なおの事身の潔白をいつでも示せるよう、人妻や令嬢からの火遊びの誘いは全て袖にして、遊ぶならプロしか居ない娼館のみと決めているくらい徹底している。
そうでなくとも常日頃から出来る限り清廉であるようにと己を律してきたくらいなのに、イザベラときたら。自分の事は棚上げでカインを詰るその神経、何で出来ているのか判らない。
「ほぅ、人妻とな」
「例えばの話です。……そう、例えばの」
若干面白がるような顔で国王がカインを眇めたので、カインは苦笑しながらさり気なく否定する。
六歳から、イザベラの婚約者として過ごしてきた。イザベラと将来結婚するのだと思っていて、その未来が覆されるなんて予想もしなかったから。
叶うはずがない夢を見た希望を、舌先に乗せても許されるだろうか。
「陛下の御名にてお許し頂きたい事は、一つだけ。叶うならば、陛下の掌中の珠の一つ、オリヴィア様に私の恋を告げる許可を」
カインの切なる一言に、燦然とした夜会の広い会場は一瞬の沈黙の後、騒然となる。
貫禄を身に纏い、いつも泰然としている厳つい国王やたおやかに寄り添って神秘的な微笑みを浮かべている王妃すら、よほど意外だったのか唖然としていて。
(許されるならば、)
イザベラとの婚約の破棄は、王の言葉によって為された。カインの望みはもはや不実ではない。……不敬罪ではあるかもしれないが。
第二王女のオリヴィア。
慎ましく聡明で心優しい王女と昔から王宮でも評判の彼女だが、美形揃いの王家の中で平凡どころか、幼い頃王太子の食事と間違えられて忍ばれた毒で殺されそうになり、顔に酷い後遺症が残って醜く爛れてしまった悲劇の姫。
一度は政略結婚で隣国の王太子に嫁いだが、子も為さぬままに婚家である隣国の後宮を追い出された出戻り姫。
二年ばかり人妻であったが、今は独身。毒による顔の醜さを気にして普段から人前に姿を見せないから、今宵の夜会も欠席している。
(今の俺なら身軽だ。婚約者も居ないから、好きな人だって口説ける。それも、堂々と)
カインは婚約者の姉であり、自分より五つ年上のオリヴィアを、ずっと密かに恋い慕ってきたのだ。
作中の「お前にイザベラは勿体ない」的な表現の部分で「逆では?」とのご指摘がありましたので、何とか意味が逆になるような表現を目指して修正しました。