怪我が早く治るとかいうオプションはない
顔を腫らして全身ボロボロのままどうにかこうにか帰ったら、すげー可愛がってきた弟には泣かれ、制服をクリーニングに出すのにいくら掛かると思ってんだとお袋には怪我の上からビンタされ、俺のひどい有り様を見た親父は卒倒した。
世の中ってやつはどうにもこうにも理不尽だ。
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「にーちゃん、しんじゃうのー?」
「いや、流石にこれでは死なねーわ。俺のせっかくのイケてるフェイスがひでーことにはなってるけど」
「にーちゃん、しんじゃうよー…」
「頼むからスルーしてくれるな我が弟よ」
襖で仕切られた六畳間、つまるところ俺の城で怪我の手当てをしていれば、ようやく俺の顔に慣れてきたらしい(ひっでー表現だよな)弟がちょろちょろと俺のそばへとまとわり付いてきた。畳にべたっと片頬をくっ付けた猫のポーズ改!的な良くわからない体勢で俺を見上げる弟…礼次郎は今日も今日とて可愛い。間違いなく。まだ幼いふくふくとした頬をもにょもにょと動かししゃべる姿はそろそろ国宝に認定されても良いと俺は思ってたりする。
俺が若干涙目で消毒液と戦ってるのを観察するのにもいい加減飽きたのか、礼次郎はやがて俺のシャツの裾を引っ張るようにして体を起こすと、あぐらをかいていた俺の膝に頭をのせつつ不思議そうに瞬きをした。
「…にーちゃん、なんでけがしたのー?」
「あー、ほらあれだ、譲れない戦いだったんだよ」
「にーちゃん、たたかった?」
「おうよ戦っ、た…のか? あれは…」
一方的に俺がボコボコにされてただけのような。俺一発でも入れられたっけ?多分入ってねーぞ。
「…あー、精神的には、戦ってたな。すげー頑張ってた」
「にーちゃん、弱いの」
「…ほらにーちゃん、他のこと色々やってたから喧嘩は慣れてねーんだよ」
「いろいろ?」
「そう、いろいろ、…いてっ」
なんとかかんとか手当てを終えて、救急箱を脇にどける。ちらりと目をやったスマホの画面は黒いばっかりで、さっき連絡した親友からはまだなんの返信も来てないらしい。既読もついてない。まだ逃げてんのかな、つーか逃げきれたのか。無事だろうか。大丈夫だとは、思うけど。
「にーちゃん」
不意に、礼次郎がグッと背伸びをするとじっとスマホを見つめていた俺の顔をいきなり挟むようにして掴ん、痛い痛い痛い痛い!
「ちょ、れいじろ、ッ!」
「あのねにーちゃん」
慌てて力を緩めさせようとした俺を遮って、やけに真剣そうな顔で礼次郎が俺を覗き込む。大きく見開かれた真ん丸の黒い瞳に俺が写っているのが見えた。絶望的なほどボロボロの。
心配させたのかな。そりゃそーか。四年も一緒にいる兄貴が、ボロボロになって、怪我して帰ってきたんだもんな。そりゃ、心配するか。ごめん、大丈夫だ、そう言おうと俺がもう一度口を開いた、その時だった。
「にーちゃん、よわいのにまえにでるのは、ぐさくなんだよ」
「ああ悪、…ん?」
「にーちゃん、つよくないのに、とっこう、よくない」
「お、おー…」
「うまくたちまわるの、だいじなんだよ」
「う、うん」
「それができないこはね、やられちゃうんだよ。よーちえんでも、そうだよ」
れーじろは、まけたことない。そう胸を張る弟に、正直ちょっと絶句した。つーかお前幼稚園で何してんだ。そういや、やたらハードな忍者ごっこが流行ってるんだってお袋が言ってたような、言ってなかったような。…やたらハード、ってどんなだ。
俺と違って癖のないさらさらの黒髪を揺らして、礼次郎は俺にびしり、と指を突きつけた。
「にーちゃん、へぼいんだから、がんばらないと!」
「…おう、そーだな、俺主人公じゃねーんだしな。今日それが確定したしな。……ところで礼次郎、人を指差しちゃいけません」
「ごめんなさい」
ちゃんとダメなことをしたら謝れる俺の弟マジ天使。
若干あらぬ方向に曲がっているように見えなくもない手で弟の頭を撫でていると、不意に視界の端で何かがちらつくのが見えた。スマホのはしっこで光っているのは緑のランプ、…返信だ。
俺が手を離すと同時にパタパタと、恐らく居間へと消えていった弟の背を見送った後に、俺はスマホを拾い上げるとゆっくりと画面を立ち上げた。
何から逃げていたのか、何をやらかしたのか、あの女の子は誰だ紹介しろ、そんな事を送りつけた俺に対する返信はたったの一行だった。
“俺、今お前んちの前なんだけど”
「お前はメリーさんかなんかかよ馬鹿野郎」
スウェットに長袖のTシャツと言う、如何にも部屋着ですと言わんばかりの自分の格好を見下ろしてみる。…ととりあえず、壁にかかっていたジャケットを持っていくことにした。