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第5話 帝都の真珠と、仮面の微笑

 朝の光が、診療所のテラスを柔らかく包み込んでいた。


 九条怜治は、昨夜テラスの長椅子で眠りについたヴェスペラに、静かに毛布をかけ直した。




 ヴェスペラ・ナイトフォール。29歳。


 しなやかで強靭な肉体。月光の下で豹のように鋭かった彼女も、今は深い眠りの中で、年相応の安らかな表情を見せている。磨き上げられた黒檀のような肌が、朝日に照らされて健康的な輝きを放っていた。




「……おはよう、ドクター」




 ヴェスペラが琥珀色の瞳を僅かに開け、掠れた声で言った。彼女は身体を起こすと、レザーウェア越しにもわかる完璧な曲線美を見せつけながら、大きな欠伸をした。




「……数年ぶりだよ。悪夢を見ずに、太陽の光で目を覚ましたのは」




「それは重畳だ。あんたの脳が、ようやく『休息』の許可を出した証拠だな」




 怜治は、30歳の落ち着いた大人の男としての微笑みを浮かべ、彼女に温かいコーヒーを差し出した。ストイックだが確かな温かみを感じさせるその仕草に、ヴェスペラは僅かに頬を染め、コーヒーを受け取った。




 そんな二人の「大人の時間」を破るように、診療所の前に一台の馬車が停まった。




 それは、数日前に来たジェシカの豪華絢爛な馬車とは対照的だった。


 派手な装飾はないが、一目で最高級だとわかる深いネイビーの塗装。車輪には魔法的な消音処置が施され、馬車に刻まれた紋章――ローゼンタール公爵家の「盾と真珠」――は、帝国の歴史そのものを物語っていた。




「……また、厄介な客のようね。しかも、今度は本物の『大物』だわ」




 ヴェスペラが即座にプロの顔に戻り、腰の短剣に手をかける。


 診療所の入り口からは、アイシャとセレナも顔を出した。アイシャは警戒心を露わにし、セレナはおどおどしながらも、その馬車が放つ圧倒的な威厳に息を呑んでいる。




 やがて、馬車の扉が静かに開いた。


 従者が差し出した手を取り、一人の女性が大地に降り立つ。




 その瞬間、診療所の空気が「洗練」という名の魔法によって塗り替えられた。




 エレナ・フォン・ローゼンタール。33歳。


 帝国の「真珠」と称えられ、その美しさで数々の外交問題を解決してきたと言われる、公爵未亡人。




 その容姿は、まさに息を呑むほどだった。


 陶器のように白く、一点の曇りもない肌。艶やかなダークブラウンの髪は上品なハーフアップにまとめられ、知的なセミロングが彼女の華奢な首筋を縁取っている。


 小柄ながらも、立ち居振る舞いの端々に滲み出る気品。落ち着いたパステルブルーのシルクドレスは、彼女の成熟した女性としての柔らかな身体のラインを、慎ましくも官能的に強調していた。




「……こちらが、噂の『心の診療所』ですのね。想像していたよりも、ずっと静かで素敵な場所だわ」




 彼女が微笑んだ瞬間、周囲に花が咲いたかのような錯覚に陥る。


 鈴の音のように澄んだ、だが33歳の女性らしい包容力を感じさせる声。


 エレナはアイシャたちの視線に、一切の傲慢さを感じさせない完璧な微笑みを返し、怜治の前へと歩み寄った。




「初めまして、九条先生。エレナ・フォン・ローゼンタールと申します」




 彼女は優雅に会釈し、怜治を真っ直ぐに見つめた。


 湿り気を帯びた、深い霧のような瞳。その美しさは、男性なら誰もが「この人のためなら死ねる」と思わせるような、魔力に近い魅力を放っている。




「公爵家の方が、このような辺境に何の御用でしょう」




「先生の噂を耳にしたのです。魔法でも解けない『呪い』を、言葉だけで解いてしまわれるという……。私の運営する慈善事業団でも、先生の力をお借りできないかと、直々にスカウトに参りましたの」




 エレナは、まるで少女のように可憐に小首を傾げて微笑んだ。


 アイシャやジェシカのような激しさもなく、セレナのような弱さもない。完璧に完成された、大人の女性の「慈愛」の姿。




 だが、怜治の左目は、その微笑みの裏側にあるものを捉えていた。




「【共感の魔眼】」




 視界が切り替わる。


 怜治が見たエレナの心の風景。


 そこには、どこまでも美しく整えられた、静寂の墓標が並ぶ庭園があった。


 空からは絶え間なく灰色の雪が降り注ぎ、エレナ自身は、その墓標の一つを抱きしめながら、音の出ない悲鳴を上げ続けている。


 彼女の魂は、深い絶望の中にありながら、その上に「完璧な微笑み」という名の鉄仮面を被せ、自らを欺き続けていた。




(……「微笑みの抑うつ」。最悪の精神状態だ。周囲に心配をかけまいと無理に明るく振る舞い、その結果として自死のエネルギーを内側に溜め込んでしまう。……彼女は今、この瞬間も、消えてしまいたいという衝動と戦っている)




 怜治はコーヒーカップをテーブルに置き、彼女の瞳をじっと見つめた。




「エレナ様。慈善事業の話をする前に、まずはあなたの診察をさせていただけますか?」




 エレナの微笑みが、一瞬だけピクリと硬直した。だが、すぐに元の完璧な形に戻る。




「あら、先生。私はどこも悪くありませんわ。見ての通り、毎日をとても幸せに、充実して過ごしておりますもの」




「幸せな人間は、そんなに悲しい瞳で笑わない」




 怜治のその一言に、診療所の空気が凍りついた。


 アイシャも、ヴェスペラも、そして聖女セレナさえも、怜治が何を言ったのか理解できず、息を呑んだ。


 公爵未亡人、帝国の真珠に向かって、その幸福を否定するなど、不敬極まりない行為だ。




 だが、怜治は一歩踏み出し、エレナとの距離を詰めた。


 静かだが逃げ場のない圧迫感。


 エレナの鼻腔を、怜治の持つ清潔な石鹸の香りと、微かなコーヒーの香りがくすぐる。




「あなたのその完璧な微笑みは、悲鳴の代わりだ。……違いますか? エレナ」




「……先生、冗談が過ぎますわ。私は……」




「旦那様と、お子さんを亡くされた時。あなたは、一度でも心から泣くことができましたか? 周囲を励まし、気丈に振る舞い、公爵家を守ることだけに全霊を捧げてきた。……その結果、自分の涙がどこに行ったのかも、忘れてしまったんだろう」




 怜治の手が、そっとエレナの頬に伸びた。


 エレナは避けることができなかった。


 指先が彼女の陶器のような肌に触れた瞬間、彼女の瞳の奥で、何かが音を立てて崩れ去った。




「……あ、……ぁ……」




 完璧だった微笑みが、崩れる。


 湿り気を帯びた瞳から、大粒の涙が溢れ出し、彼女の美しい顔を濡らした。




「……どうして。どうして、あなたが……私の、この真っ暗な中を……知っているの……?」




 エレナは、怜治の胸に縋り付くようにして、膝から崩れ落ちた。


 彼女を支えた怜治の腕は、公爵騎士たちのどのような守護よりも、今の彼女には力強く、そして温かかった。




「……33歳。十分、頑張ってきたな。……もう、独りで耐える必要はない。私の前では、ただの『エレナ』に戻ればいい。泣きたい時は、泣いていいんだ。それが、人としての特権だ」




 怜治の胸の中で、帝国の真珠が声を上げて泣き始めた。


 それは、十数年もの間、彼女の中に降り積もっていた灰色の雪が、怜治という熱源によって溶かされた瞬間だった。




 アイシャ、セレナ、ジェシカ、ヴェスペラ。


 それまで「自分こそがドクターに一番近い」と思っていたヒロインたちは、目の前の光景に、言葉を失っていた。


 圧倒的な美しさと哀愁を持つエレナ。


 彼女が怜治の胸で泣いている姿は、自分たちよりもずっと深く、そして濃密な「大人の絆」を予感させるものだった。




「……ふふ、ドクター。やっぱりあんたは、ずるい男だよ」




 ヴェスペラが苦笑しながら、短剣を鞘に収めた。


 アイシャは嫉妬を隠しきれない様子で、セレナは年上の女性が見せた涙に、ただ圧倒されていた。




 やがて、ひとしきり泣き終えたエレナが、怜治の腕の中で顔を上げた。


 濡れた睫毛。少し赤くなった鼻筋。


 その姿は、先程までの完璧な女神のような美しさよりも、ずっと淫らで、そして愛おしく、男性なら誰もがその首筋に顔を埋めたくなるような、成熟した女性の魅力に溢れていた。




「……先生。九条先生。……いいえ、怜治様」




 エレナは、怜治の手を自分の頬に押し当て、熱い吐息と共に言った。




「私を……救ってください。私の残りの人生、すべてをあなたに捧げます。……その代わりに、私の心から、この冷たい雪を取り除いてくださる?」




「ああ。私の患者になった以上、見捨てたりはしない」




 怜治の力強い言葉に、エレナは再び、今度は本当の意味での微笑みを浮かべた。




 公爵家という巨大な後ろ盾。


 そして、帝都に潜む「微笑みの抑うつ」という病理。


 怜治の診療所は、エレナという最強の味方を得て、ついに辺境から帝国の中心部――帝都へと、その舞台を移すことになる。




「アイシャ、準備を。……帝都へ行くぞ。向こうには、まだ多くの『救われるべき魂』が待っている」




「はい、ドクター! どこまでも、お供いたします!」




 アイシャの元気な返事。


 そして、馬車の中で怜治の隣を確保しようと、早くも女たちの静かな戦いが始まっていた。

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