第3話 氷の女王の虚無
聖女セレナが来院してから一週間。
辺境の街にある小さな診療所は、かつてないほどに華やかな、そしてどこか奇妙な活気に包まれていた。
「ドクター、見てください。セレナ様が……セレナ様が、自分でお茶を淹れてくださったんです!」
助手となったアイシャが、弾むような声を上げた。
かつての「呪われた女騎士」としての刺々しさは消え失せ、今の彼女は健康的なゴールデン・ブラウンの肌を輝かせ、豊かなカーリーヘアを揺らして、一人の女性としての喜びに満ち溢れている。
アイシャの存在は、今やこの街の男たちの憧れの的だ。そんな彼女が、一人の男――九条怜治にだけ見せる、献身的で少しだけ甘えたような表情。それは、どんな高価な宝石よりも怜治の診療所を彩っていた。
「……ぁ……、……ありが、とう……」
アイシャの隣で、セレナが震える手でお茶を差し出した。
まだ蚊の鳴くような、掠れた小さな声。だが、一週間前まで完全な沈黙の中にいた彼女にとっては、それは奇跡に等しい進歩だった。
愛らしいベビーフェイスに、少しずつ血色が戻っている。彼女は怜治の顔を盗み見ると、恥ずかしそうに、だが確かな信頼を込めて大きな瞳を潤ませた。
「いい進歩だ、セレナ。声を出そうとする必要はない。その『気持ち』が伝わることが、今の君には一番大切なんだ」
怜治は、30歳の落ち着いた大人の包容力を漂わせながら、セレナの頭を優しく撫でた。
彼の仕草は、無意識でありながら、見る者の心を激しく揺さぶる。セレナは、熱を帯びた頬を隠すように俯いた。
その穏やかな時間は、唐突に鳴り響いた重厚な馬車の蹄の音によって破られた。
「……何かしら、この騒がしさは」
アイシャが鋭い目つきで窓の外を伺う。
診療所の前に停まったのは、黒漆塗りのボディに純金の装飾が施された、帝国でも一握りの貴族しか所有できない最高級の馬車だった。
馬車のドアが開くと、そこに立つだけで周囲の空気が凍りつくような、圧倒的な存在感を放つ女性が姿を現した。
ジェシカ・フォン・ベルンシュタイン。25歳。
帝国最大の商会を若干20代で引き継いだ、社交界の「氷の女王」。
圧倒的に洗練された美貌が、そこにあった。
完璧にスタイリングされたライトブラウンのロングヘア。切れ長の、すべてを冷笑するかのような冷徹な瞳。最新流行のタイトなドレスに、雪のように白いファーを羽織った彼女の姿は、辺境の街にはあまりにも不釣り合いで、暴力的なまでに美しかった。
「ここが、噂の『心の診療所』?……ふふ、あばら家ね」
鈴の音のように美しい、だが芯まで冷え切った声が診察室に響く。
ジェシカは、跪く従者たちを従え、優雅な足取りで入室してきた。彼女が歩くたびに、高級な香水の香りと、抗いがたい「強者のオーラ」が室内の空気を支配していく。
「ドクター。……この方、尋常な方ではありません」
アイシャが即座に怜治の前に立ち、セレナを背後に守る。
アイシャの凛とした美しさと、ジェシカの都会的で冷ややかな美しさが対峙し、火花が散る。
「下がりなさい、野良犬。私はこの男に用があるの」
ジェシカは、アイシャを視線だけで一蹴すると、怜治のデスクの前で足を止めた。
彼女はゆったりとした動作で椅子に腰掛け、細く長い足を組み直す。ドレスのスリットから覗く、滑らかな肌と完璧な曲線の脚。それは、どんな男性をも一瞬で虜にする、計算し尽くされた美しさだった。
「九条怜治。……聖女を救った奇跡のドクター。あなたは自分のことを、何だと思っているの? 言葉一つで人を操る、新手の詐欺師かしら」
「精神科医だよ。……君も、診察を希望かな? ベルンシュタイン商会の女王様」
怜治は、彼女の威圧感に一切動じることなく、静かなブルーグレーの瞳で彼女を見つめ返した。
ジェシカの眉が、僅かにピクリと動く。
帝国中の男たちが自分を前にして跪くか、あるいは欲望にまみれた視線を送る中、この男だけは、自分を「一人の患者候補」としてしか見ていない。
「診察? 笑わせないで。私はただ、この街の経済を乱す不確定要素を排除しに来ただけよ。……あなたの『まじない』に、どれほどの価値があるのか、私の目で確かめにね」
ジェシカは、怜治を挑発するように、わずかに身を乗り出した。
洗練された大人の女性の色気が、怜治を包み込む。
だが、怜治はそっと、左目を細めた。
「【共感の魔眼】」
彼の瞳が、蒼く発光する。
ジェシカの「心の風景」が、怜治の視界に展開された。
それは、色彩を失ったモノクロームの世界。
豪華な調度品に囲まれた部屋で、ジェシカ自身が、透明なガラスの壁に閉じ込められている。彼女が何に触れても、何を口にしても、感覚が彼女の心に届かない。
彼女の魂は、まるで鏡越しに自分の人生を眺めているかのような、深い虚無の中に浮遊していた。
(……なるほど。「離人感・現実感消失障害」か。完璧な女王を演じ続け、自分の感情を切り離しすぎた代償だ)
怜治は、手元のカルテにペンを置いた。
「ジェシカ。……君は最近、何を食べても味がしないだろう?」
その瞬間、ジェシカの時間が止まった。
冷徹な「氷の女王」の仮面の下で、琥珀色の瞳が大きく見開かれる。
「……何を、言っているの?」
「朝起きて鏡を見る時、そこに映っているのが自分だという実感が持てないはずだ。自分の身体が、どこか遠い場所にあるような……まるで、他人の人生を舞台袖から見ているような、そんな感覚だ」
「な……、どうして、それを……っ!」
ジェシカの指先が、僅かに震えた。
誰にも言ったことのない。自分ですら「気のせい」だと言い聞かせてきた、孤独な虚無。
それを、初対面の男が、たった数秒の対峙で、最も痛い場所を正確に指し示した。
「君は、商売という戦場で生き抜くために、自分の心を殺して『氷の像』になった。だが、像は食事をしないし、温もりも感じない。……君の心は、自分を殺しすぎたせいで、現実からログアウトしてしまっているんだ」
「ログ……アウト……?」
聞きなれない言葉。だが、そのニュアンスは彼女の胸に痛いほど響いた。
ジェシカは、自分を支えていた「女王」としてのプライドが、足元から崩れ去っていくのを感じた。
「……黙りなさい。あなたのような身元の知れない男に、何がわかるというの! 私は、帝国の経済を動かしているのよ! 私が揺らげば、何万もの人間が路頭に迷うの!」
「だからこそ、君は助けを求めている。……そうだね?」
怜治は立ち上がり、彼女に一歩近づいた。
逃げ場のない、圧倒的な包容力。
ジェシカは、咄嗟に立ち上がり、怜治の胸を手で突っぱねようとした。
だが、彼女の手が怜治のタートルネックの胸元に触れた瞬間、彼女の瞳から、それまで一度も見せたことのない「弱さ」が溢れ出した。
「……あ、……ぁ……」
怜治の身体から伝わる、確かな体温。
30歳の男としての、力強く、落ち着いた心拍。
モノクロームだった彼女の世界に、強烈な「熱」が流れ込んでくる。
「……熱い。……どうして、こんなに……」
ジェシカの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、何年も流されることのなかった、氷が溶け出した雫。
「ドクター……。この女も、私やセレナ様と同じなのですか?」
背後で見ていたアイシャが、複雑な、そして少しだけライバル心を隠しきれない声で尋ねた。
セレナもまた、怜治の服の裾をギュッと握りしめ、自分よりずっと大人で美しい「氷の女王」を、警戒するように、だが同情するように見つめている。
「ああ。彼女もまた、重すぎる責任という呪いにかけられた、一人の女性だ」
怜治は、ジェシカの震える肩を、そっと抱きしめた。
ジェシカは、最初は抗おうと身をよじったが、やがて彼の腕の中に顔を埋め、子供のように声を殺して泣き始めた。
気高くも孤独な美しさ。
その氷の鎧が、怜治という「理解者」の温もりによって、今、静かに、だが劇的に崩壊していく。
「……もういい。今日だけは、女王でいる必要はない。……私に、君の本当の味を思い出させてあげよう」
怜治のその言葉に、ジェシカは、自分の人生で初めて、誰かに自分の身を委ねたいという、抗いがたい欲求を覚えた。




