第2話 朝の光と、沈黙の聖女
朝の光が、小さな石造りの診療所に差し込んでいた。
九条怜治は、異世界の粗末な木製デスクで昨夜のカルテを整理していた。30歳という年齢にふさわしい、落ち着いた仕草。彼の横顔には、朝の陽光さえもストイックな陰影を刻んでいる。
ふと、背後の扉が控えめにノックされた。
「ドクター。朝食の用意ができました」
振り返った怜治の瞳に、一人の女性が映った。
昨夜、地下牢から救い出したアイシャ・ヴァルマだ。
彼女は、怜治が用意した清潔な白いリネンシャツに、体にフィットした革のトラウザーを身に纏っている。しなやかで健康的なシルエット。
何より見事だったのは、丁寧に手入れされたその髪だ。昨夜の爆発的な乱れはどこへやら、豊かなダークブラウンのカーリーヘアが、彼女のゴールデン・ブラウンの肌を美しく引き立てている。
「……よく眠れたようだな、アイシャ」
「はい。あんなに深く眠れたのは……戦場から戻って以来、初めてのことです」
彼女の琥珀色の瞳には、もう怯えはない。代わりに、目の前の男に対する深い信頼と、どこか熱を帯びた思慕の情が宿っていた。
アイシャは、街の男たちがすれ違いざまに必ず振り返るほどの絶世の美女だ。騎士団時代の凛々しさは残しつつも、今の彼女からは、救われた女性特有の柔らかい艶っぽさが溢れていた。
「食事の前に、少し話そう。君の今の気分はどうだ? 1から10までの数値で表すと」
「……3、くらいでしょうか。昨夜の絶望を10とするなら、今は驚くほど穏やかです」
怜治は頷き、ペンを走らせる。
心理学における「スケーリング・クエスチョン」。可視化しにくい感情を数値化させることで、患者自身に自己コントロール感を取り戻させる手法だ。
「いい傾向だ。アイシャ、君の脳は今、少しずつ『安全』を学習している。昨夜、君は自分の足で外に出た。それが一番の薬だ」
「……ドクター」
アイシャは歩み寄り、怜治のデスクの前に立った。
彼女から、微かに花の蜜のような、甘く野性的な香りが漂う。彼女は無意識に、自分の豊かな胸元に手を当て、少し上目遣いで彼を見つめた。
「皆が私を『呪われた』と切り捨てた中、あなただけが、私の心を見てくれました。……私は、あなたに一生をかけて報いたい。あなたの助手として、この診療所に置いてもらえませんか?」
「私の助手は、楽な仕事じゃないぞ。世間からは『魔法も使えないまがい物の医者』だと後ろ指を指されるかもしれない」
「構いません。あなたの言葉が、どの高位治癒魔法よりも私を救った。その真実を知っているのは、世界で私一人だけでいい」
彼女の言葉は、騎士の誓いよりも重く、そして甘美だった。
怜治は小さく笑った。その僅かな微笑みが、アイシャの心拍数を跳ね上げさせる。
「わかった。では、今日から君は私の助手兼、護衛だ」
「はい! 謹んで、お引き受けします」
アイシャの顔に、少女のような純粋な笑みが浮かぶ。そのギャップもまた、彼女の抗いがたい魅力だった。
その頃、帝都の中央聖堂。
眩いばかりの光が降り注ぐ祭壇の前で、一人の少女が膝をついていた。
セレナ・オーレリア。22歳。
帝国の象徴であり、「救済の聖女」として崇められる、この国で最も高貴な女性の一人だ。
彼女の容姿は、圧倒的な「愛らしさ」に満ちていた。
ふっくらとした頬のライン、潤んだような大きなダークブラウンの瞳、そして艶やかなロングヘア。ベビーフェイスなその顔立ちは、見る者の庇護欲を激しく掻き立てる。
だが、今の彼女は、重厚な聖女装束に押しつぶされそうなほど、華奢な肩を震わせていた。
「聖女様。お時間です。……さあ、民衆に祝福を。あなたの『声』で、彼らを導いてください」
背後から、大司教の冷ややかな声が響く。
セレナは、震える手で胸元の聖印を握りしめた。
広場には、何万人もの民衆が集まっている。彼らは聖女の万能な治癒の歌、その奇跡を待ち望んでいるのだ。
(……声が、出ない)
セレナは必死に喉を動かそうとしたが、見えない鎖に縛られたように、言葉が外に出てこない。
彼女が抱えているのは、異世界の人間が考えるような「魔力不足」や「喉の病」ではなかった。
それは、365日休みなく、国の命運を背負わされ続けてきた22歳の少女が陥った、「社交不安障害」と、それに伴う「失声症」だ。
「……っ、……あ……」
口から漏れたのは、掠れた吐息だけだった。
その瞬間、彼女の体内にある膨大な聖魔力が濁り、周囲の空間が歪み始める。
聖女の魔力汚染。それは、騎士の暴走よりも遥かに恐ろしい「国家規模の災害」を意味する。
「おのれ……。まだ治らぬのか! 国中の治癒術師を動員し、高価な秘薬を湯水のごとく使わせているというのに!」
大司教が苛立たしげに杖を突く。
セレナは、大粒の涙をこぼした。
誰も、私の声がなぜ出ないのか、聞いてはくれない。
誰も、私がどれほど怖いのか、その瞳を見てはくれない。
皆が求めているのは「聖女セレナ」という便利な奇跡の道具であって、ただの「セレナ」という22歳の女性ではないのだ。
(……助けて。誰か、助けて。喉が痛い。心が、壊れてしまう……)
セレナの意識が、暗い絶望の底へと沈んでいく。
その時、彼女の脳裏に、最近帝都で密かに囁かれている奇妙な噂がよぎった。
――辺境の街に、魔法を使わずに「呪い」を解く医者がいる。
――彼は人の瞳を見ただけで、その魂の形を言い当てるという。
それは、藁をも掴む思いのセレナにとって、唯一の光に見えた。
それから3日後。
怜治の診療所に、場違いなほど豪華な馬車が到着した。
護衛の騎士たちが周囲を固め、通行人たちが遠巻きに何事かと見守る中、馬車の扉が開く。
「ドクター。……これは、ただ事ではありませんね」
玄関先に立ったアイシャが、腰の短剣に手をかけながら警戒の色を強める。
彼女のしなやかな肢体は、戦士としての本能を取り戻していた。
「構わない。通してくれ。……客を選んでいては、精神科医は務まらない」
怜治は冷静に言い放ち、診察室の椅子に深く腰掛けた。
やがて、分厚いベールで顔を隠した一人の女性が、騎士たちに支えられるようにして入室してきた。
その女性がベールを脱いだ瞬間、室内の空気が一変した。
アイシャとは対照的な、柔らかく可憐な美しさ。
甘く、それでいてどこか退廃的な色香を漂わせるベビーフェイス。
だが、その大きな瞳は赤く腫れ、絶望的な孤独に満ちていた。
彼女は口を開こうとして、激しく咽び、その場に崩れ落ちた。
騎士が慌てて支えようとするが、怜治が鋭い声でそれを制した。
「触れるな。彼女は今、パニックの渦中にいる」
怜治は立ち上がり、ゆっくりと彼女に歩み寄った。
彼は彼女の前にしゃがみ込み、視線を同じ高さに合わせる。
セレナは、怯えた仔鹿のように身体を縮めた。
「……【共感の魔眼】」
怜治の瞳が蒼く光る。
彼の視界に、セレナの内面が映し出された。
それは、巨大な黄金の檻。
その中に、一人の少女が閉じ込められ、外から何万もの人々の「目」に監視されている。彼女の喉には、重い金の枷が嵌められていた。
(……なるほど。これは重症だ。周囲の期待という名の「暴力」に、心が防衛反応を起こしている。……彼女は、自分の言葉を殺すことで、自分自身を守ろうとしているんだ)
怜治はそっと、セレナの視界に入る位置に手を置いた。
握りしめるのではなく、ただそこに「逃げ場」があることを示すように。
「セレナ様。……いや、今はただの『セレナ』と呼ばせてもらおうか」
その呼びかけに、セレナの肩がビクッと跳ねた。
名前を、呼ばれた。
肩書きではなく、自分という存在を、直接認識された。
「苦しかったな。よく、ここまで耐えてきた。……もう、頑張らなくていい」
怜治のその言葉は、セレナの心の一番深い場所に、まっすぐに突き刺さった。
これまで誰からも言われなかった言葉。
「頑張れ」「奇跡を起こせ」ではなく、「頑張らなくていい」という、究極の受容。
「……っ……、……ぁ……!」
セレナの目から、溢れんばかりの涙がこぼれ落ちた。
彼女は、怜治の黒いコートの袖を、力一杯掴んだ。
震える指先。彼女から漏れる微かな、しかし確かな「声」にならない悲鳴。
アイシャは、その光景を複雑な心境で見守っていた。
自分を救ってくれた時のドクターと同じ、静かな、だが圧倒的な優しさ。
目の前の少女が、かつての自分と同じように「救済」の入り口に立ったことを、彼女は直感していた。
「ドクター。この方は……」
「私の二人目の患者だ。……アイシャ、準備をしてくれ。これから彼女の『呪い』を解く。魔法ではなく、対話によってな」
怜治はセレナを優しく抱き起こし、診察用の椅子へと導いた。
セレナは、自分の体温よりもずっと温かい怜治の手の感触に、初めての安らぎを感じていた。
この男なら。
この、クールな瞳を持つ医師なら、自分をこの黄金の檻から連れ出してくれるかもしれない。




