第1話 その呪いは、魔法では解けない
その世界では、絶望は「呪い」と呼ばれていた。
深い傷を負い、死の淵に立つ者さえも、高位の神官が唱える治癒魔法があれば、数秒で元の健康な身体を取り戻すことができる。肉体の欠損さえ、この世界の理の前ではさしたる問題ではない。
だが、その治癒の光が届かない場所がある。
どれほど強力な魔導師でも、王宮に仕える高名な賢者でも、決して触れることのできない領域。
――それは、人の心だ。
鉄格子の嵌まった薄暗い石造りの地下室。
そこに漂う空気は湿り気を帯び、微かな獣の匂いと、焼け付くような魔力の残滓が混じり合っていた。
「……また、始まったか」
30歳になる男、九条怜治は、地下階段の踊り場で足を止めた。
前世では、白い巨塔の中で日々何十人もの患者の嘆きに耳を傾けていた精神科医。今は、この辺境の砦で「呪い」を管理する雑用係兼、自称・街の医師だ。
怜治は、ストイックでどこか憂いを帯びた顔立ちをしている。短く整えられたライトブラウンの髪に、彫りの深い端正な容貌。だが、その瞳には30年の人生を歩んできた者特有の、静かな諦念と深い慈愛が同居していた。
「放せ……! 来るな、来るなと言っているだろうッ!」
地底から響くような叫び声と共に、爆発的な魔力の波動が襲ってきた。石壁がミシミシと鳴り、松明の炎が激しく揺れる。
階段を駆け下りてきた兵士たちが、怯えた顔で怜治を振り返った。
「先生! もうダメです、アイシャ様がまた暴走を……! このままでは地下室ごと吹き飛びます!」
「落ち着け。君たちの仕事はここまでだ。あとは私が引き受ける」
怜治の声は低く、そして驚くほど冷静だった。
彼はタートルネックの上から羽織った黒いロングコートの襟を正し、一歩、また一歩と「呪われた女」が閉じ込められた最深部の部屋へと歩を進める。
鉄格子の向こう側。
そこには、一人の女性がうずくまっていた。
彼女の名はアイシャ・ヴァルマ。25歳。
かつては聖王騎士団の筆頭魔導士として、その名を大陸中に轟かせた英雄だ。
神秘的なゴールデン・ブラウンの肌。乱れた衣装の間から覗く四肢は、戦士としてのしなやかさと、女性としての柔らかな曲線を見事に調和させている。
何より目を引くのは、その豊かな天然のカーリーヘアだ。かつては知性の象徴として賞賛されたその髪も、今は魔力の乱れによって逆立ち、彼女の周囲に稲妻のような火花を散らせていた。
彼女は、美しい。
たとえ絶望に染まり、焦点の合わない琥珀色の瞳を血走らせていたとしても、その圧倒的な存在感と美貌を隠すことはできなかった。男性なら誰もが、一目見た瞬間に「救いたい」と本能的に感じてしまうような、気高くも脆い美しさがそこにはあった。
「来るな……! 私の身体には悪魔が……! 近寄れば、お前も焼き尽くされるぞ!」
アイシャが叫ぶ。彼女の周囲で魔力が渦を巻き、不可視の刃となって怜治の頬を掠めた。
だが、怜治は足を止めない。
彼はそっと左目を細めた。
「【共感の魔眼】」
怜治のブルーグレーの瞳が、僅かに蒼く発光した。
視界が切り替わる。
彼の目には、アイシャの背後に広がる「心の景色」が見えていた。
それは、激しい吹雪が吹き荒れる極寒の荒野。彼女自身の身体は、無数の黒い鎖によって地面に縫い付けられている。
(心拍数は140を超えている。過呼吸気味だ。魔力の暴走は、内圧が高まりすぎたことによる安全弁の作動。……これは「呪い」じゃない。パニック発作、あるいはPTSDによる急性ストレス反応だ)
怜治は鉄格子の前に膝をつき、彼女と同じ目線になった。
殺気立った魔力の刃がコートを切り裂くが、彼は眉一つ動かさない。
「アイシャ。私の目を見て」
静かな、しかし有無を言わせぬ響きを持った声。
アイシャがハッとして顔を上げた。
そこには、これまで彼女を「化け物」と蔑み、あるいは「哀れな呪われし者」と見てきた者たちとは全く違う瞳があった。
「……何、を……。お前、死にたいのか……?」
「死なないよ。君は私を傷つけたいわけじゃない。ただ、怖がっているだけだ。……そうだね?」
「違う! 私は、戦場で見捨てた仲間たちの声が……あの炎が、今も私の身体を焼いているんだ! これは悪魔の罰だ!」
彼女の告白。サバイバーズ・ギルト。
怜治はゆっくりと、鉄格子の隙間から手を差し入れた。
アイシャはビクッと身体を震わせたが、怜治の動きは淀みなく、そして優しい。
「アイシャ。今から私の言う通りに呼吸をして。……3秒吸って。4秒止める。そして5秒かけて、ゆっくりと吐き出すんだ」
「そんな、ことで……呪いが解けるはずが……」
「いいから。私を信じて。……吸って」
怜治の導きに応じるように、アイシャはぎこちなく空気を吸い込んだ。
怜治は彼女の手首を優しく、だがしっかりと掴んだ。
驚くほど熱い。魔力が逆流し、彼女の細い手首の皮膚を内側から焦がそうとしている。
「吐き出して。ゆっくりだ。……大丈夫、君は今、ここにいる。暗い戦場でも、炎の中でもない。この冷たい石畳の上に、私と一緒にいる。君を責める者は誰もいない」
怜治の言葉は、まるで魔法の詠唱よりも深く、彼女の心に染み渡っていった。
彼は現代の心理療法に基づいた「グラウンディング」を行っていた。今この瞬間の感覚に意識を向けさせることで、フラッシュバックから引き戻す手法だ。
「……あ……っ」
アイシャの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
同時に、荒れ狂っていた魔力の嵐が、嘘のように凪いでいく。
逆立っていた彼女の美しいカーリーヘアが、しなやかにその肩へと降り注いだ。
1分。あるいは5分。
静寂が地下室を支配した。
聞こえるのは、彼女の小さくなった嗚咽と、怜治の穏やかな呼吸音だけ。
「……身体の熱が、引いていく」
アイシャが力なく呟いた。彼女の琥珀色の瞳に、ようやく「今」という光が宿る。
彼女は自分を支える怜治の手を、縋るように見つめた。
端正な顔立ちのこの男は、一切の治癒魔法を使わなかった。ただ言葉をかけ、隣にいただけだ。
「先生……。あなたは、聖女様なのですか?」
その問いに、怜治はフッと、微かな、だが非常に魅力的な微笑みを浮かべた。
「いいえ。私はただの精神科医だ。……アイシャ、君の呪いは、魔法では解けない。でも、私となら……その重荷を少しずつ下ろしていくことはできる」
アイシャの頬が、僅かに赤らんだ。
恐怖ではなく、一人の女性として、目の前の男に心を揺さぶられた証だった。
彼女はこの瞬間、本能的に理解した。
自分を本当の意味で救い出してくれるのは、騎士の剣でも賢者の杖でもなく、この男の「言葉」なのだと。
「……ドクター。私を、助けてください」
「ああ。それが私の仕事だ」
怜治は立ち上がり、背後の兵士たちに告げた。
「この部屋の鍵を開けなさい。彼女はもう、化け物じゃない。私の『患者』だ」
兵士たちは呆然としていたが、怜治の放つ圧倒的な「医師としての権威」に気圧され、震える手で鍵を開けた。
重い鉄の扉が開く。
怜治はアイシャに手を差し伸べた。
アイシャはその温かい手を取り、ゆっくりと立ち上がる。
ボロボロの衣装を纏っていても、彼女の立ち姿は美しく、そしてどこか神聖ですらあった。
これが、後に「心の救済者」と呼ばれる男と、彼を支える最強の右腕となる「魔導の聖女」の、最初の出会いだった。




