過去のあやまちなんて、水に流せて当然ね。
「そうか、いよいよか」
「はい」
「おめでとう、幸せの絶頂だな」
直属の上司に当たる男性にそう言われてハイディーは少し間を置いて笑みを浮かべて答える。
もちろん傍から見れば、そう見えるような状況であることは、たしかである。
女性の結婚というのは、幸せの絶頂であり祝福してしかるべきだ。
……私は”結婚”というものは幸せの絶頂には程遠いような気もするのだけれど、そんなことを彼に言っても仕方ないものね。
仕事上の関係の相手にそんな相談をするつもりもなく、その場を離れる。彼に渡していたのは、ハイディーが結婚して姓が変わる件についての事前の申請書類だ。
こうして王宮魔法団に務めているからにはこういった手続きはきちんと済ませておく必要がある。
けれども必要なこととはいえ自分で外堀を埋めているような作業に、なんだか妙な違和感を覚えつつも同僚たちのいる自分のデスクの方へと戻っていく。
すると報告書を書いていた、隣の同僚がぱっとこちらを見上げてハイディーに言う。
「おう、戻ってきたな。報告書のこの部分なんだが、確認したいことがあって……」
「ええ、ああ、そこは━━━━」
同じ任務について成し遂げた仕事なので、ハイディはすぐに彼の疑問に答えることができた。
彼は魔法学園時代からの友人であるアルベルトだ、と言ってもこの職場の同期は大体、魔法学園時代からの面識がある人ばかりで、彼らとともにハイディーも必死になって魔法の技術を深めていった。
やる気のある同世代に張り合いを感じて、訓練することや強くなることに楽しみを見出していたが、今となってはそれもただの青春の懐かしい思い出になりつつある。
「ありがとう。じゃあ、あとは俺がやっとくから。今日は早上がりだろ」
「気を遣わせて悪いわね。アルベルト、ほかの皆にも悪いわ」
「いや、そんな━━━━」
「そんなわけないだろう! なんせめでたい事だからなハイディー!」
彼に後ろめたい気持ちを伝えると、話を聞いていた同僚の一人が大きな声で元気に言う。相変わらずの明るい言葉に、ハイディーは苦笑しつつも友人のユリウスに視線を移す。
「はい、そうね。ありがとう、ユリウス」
「学園入学前からの婚約者とついに、結ばれるときが来たんだ、心待ちにしていたはずだ! よかったな!」
「……そうね、よかったと思うわ。忙しくてあまり交流はできていなかったけれどこれが女性の幸せの絶頂なのだもの」
「そうだな……なにか気落ちするようなことでも?」
「いいえ」
彼の言葉にハイディーは先程、上司から言われた言葉をわざと口にしてみた。
しかしユリウスからしてもなにか違和感を覚える様な言葉になってしまったらしく少し心配そうに彼はテンションを下げてしょんぼりとして聞いてきた。
その様子に頭を振って否定する。
するとポジティブな彼はすぐに気持ちを切り替えて「今度結婚祝いのパーティーをしような!」と提案する。
その鈍感さに今のハイディーは少し助けられたような気持ちになってコクリと頷く、しかしそうして鈍感ではいてくれない友人もいる。
「……そうだ、あのとき使用した魔法具、まだ確認が終わってないかったな、帰る前に付き合ってくれ」
アルベルトからそう声をかけられて、ハイディーはそれにもコクリと頷いた。
廊下に出ると、魔法具の保管庫に向かいながらも人気がないことをきちんと確認してから、アルベルトはハイディーを横目で見て切り出した。
「……不安があるんだろ」
断定するような言葉にハイディーは少し違うと思う。
けれども彼はとても真剣そうだったので口を挟まずに隣を歩きながら視線を返す。
「君は学園でも優秀な方だったが、いつも詰めが甘い。入学前にきちんと見定めた婚約者なのは承知だが、君はあまりその後の情報収集はしてなかっただろ」
「男性も女性も関係なく身分も気にせず、訓練できることが楽しくて、たしかに社交界に参加したりはしなかったわ」
「な。だから……なんというか、ケチをつけるつもりじゃないが、あまりいい噂を聞かない。君もそれを危惧しているんじゃないか。だから不安なのだろって」
アルベルトの言ったことはハイディーにとって初めて知った事実だった。
そしてその言葉は、彼に対する信頼によってすぐに事実だとなんの葛藤もなく受け入れることができる。
ただ、彼から見て不安があるように見えた理由はほかにあって、婚約者ブルーノの悪い噂などはハイディーが気落ちしている理由ではなかった。
その気落ちしている理由が大体、ここ最近頭の中をしめていて、思い悩んでしまうから少々困っている。
しかし、そんな悩みよりもアルベルトの言った、ブルーノの悪い噂はきちんと対処するべき事項であってより差し迫った事態だろう。
本来であればアルベルトの言葉を真剣に聞いて、対策を練る必要があるのだがハイディーはその方向にうまく頭を切り替えられなくて、難しい顔をしていた。
「だから、いざとなったら。俺の名前を出せ。これでも身分だけは高い。それでどんな迷惑がかかってもいいから、不幸にはならないでくれ、ハイディー」
「どんな迷惑って……そんなことしないわ。それにずいぶん唐突ね、不幸にならないでくれなんて」
足を進めながらもアルベルトは吐露するように言う。その様子に疑問を持ちながらも友人らしく続けてハイディーは少し揶揄った。
「……それに、あなた、権力を振りかざすようなこと嫌いじゃないの、そんなことを言うなんて信念に反するのじゃない?」
少し前に出て振り返って笑うと「うるさい」と彼は短く言って顔をそむけた。
そっけない態度だがこれは怒っているのではなく、恥ずかしがっているのだ。
それに揶揄われても自分の言葉を否定したりしない様子に、ハイディーはそれだけ真剣に彼が今の言葉を言ったのだと知って反芻してきちんと頭の片隅に止めた。
アルベルトは最後にまたハイディの隣を歩いて言う。
「……もう、結婚するんだろ。だから大丈夫か君がちゃんと見ろ。俺のことも使っていい、ちゃんといいやつか確認しろ、いいな」
「わかったわ」
彼の言葉に短く答えて、たしかに自分の悩み以前にきちんとした相手か確認する重要性についても頷いた。
しかし、結婚するまでの間に、そうも都合よくなにかがわかったりするだろうかとも思ったのだった。
「こんな夜だし、ぶっちゃけた話をしていいか? 実は俺は罪深い男なんだ……」
昼のアルベルトとの会話があったうえでのブルーノの言葉にハイディーは少し目を見開いて驚く。
しかし開いたグラスを差し出されて、慣れないけれどもブルーノのグラスにワインを注いだ。
彼は薄闇の中でランタンの明かりに照らされて、とてもアンニュイな顔をしている。そして少々酔っているらしかった。
ハイディーはお酒を飲むと訓練に影響するので極力飲まないが、女性はこうして結婚する男性の晩酌に付き合うことが幸福であるということだ。
それが夫婦の仲を深めるとも聞いた。
父や母を見習い、魔法使いでも騎士でもない普通の貴族としての生き方、それはこんな日々なのかとハイディーは今日初めて思った。
……結婚式の打ち合わせは時間もかかるし、もうそこまで予定が決まっているのだから、こうして相手のお屋敷に泊まって夜を過ごすのも一般的なことよね。
なにもおかしなことはない、ただしやはり過ごし方に、不満がないかと言われたら難しい。
……贅沢なことだわ。
そう思う。
「おい、聞いてんのか? もうすぐ俺たち、結婚するだろ。ただ、心残りがあるんだ」
「ええ、どんなことかしら」
責めるような視線を送られて、ハイディーは思考を巡らせるのをやめて彼に問いかけた。
「いや、ただな。言うべきか言わざるべきか……正直悩んでいるんだ」
グラスを置いて腿に肘をついて手を組む。
それから思案しつつ真剣に言った彼に、寄り添うようにしなければと思う。
「言った方が楽になることもあるかもしれないわ」
「そう言ってくれるか? いや、しかし君にとっても衝撃的なことだ」
「大丈夫よ。話したいと思ったのならば、今がその時かもしれないでしょう」
「そんなに聞きたいのか? 俺としてもお前と共有してこのしこりをなくしたいと思う。……でもな……」
しかし何度聞いても、でもというブルーノに、ハイディ-はとても冷めた気持ちになった。
「お前がどうしても聞きたいというからには仕方なく、話してやろうかな。お前が聞きたいというからには」
そして続けて言われたセリフに、ハイディーは妙に納得してしまって同時に嫌悪感が湧いた。
……責任転嫁されたわね。でも、そのくらいでアルベルトの言っていた大丈夫じゃない相手とはならないのよね。きっと。
普通はそのはずだ、しかしなんだろうこの胸の、じくじくとした痛みは。
「それに、俺たちはもう結婚するんだ。ここまで来て隠しごとはなしだよな。それに終わったことだ、スッキリして二人で愛をはぐくんでいこう」
「……」
丁寧に紡がれる愛の言葉にハイディーは答えることができずに、ぐっと拳を握った。
しかし彼はそんな、ハイディーの様子に気がつくこともなくまるで悲劇のヒーローのように苦しみ抜いたような表情をしていった。
「……すでに過去の出来事だけれど、俺はお前が王都にいないのを良いことに派手に遊んでいた時期があるんだ」
「遊び?」
「ああ、そうだ。ほんの少し浮気ともとれるような、まだ深く知らなかったお前に不安を覚えて今いる相手とその日の享楽を共にした……とくにベティーナという令嬢は俺のことを好いて、二人でひそかな関係を持っていたんだ」
……つまりは、普通に浮気をしていたと?
「そんな日々があったこともまた事実だ。ただ、もう過ぎ去った過去のこと、二人の新しい未来にはいらない過ちだ、そうだろ?」
同意を求められてハイディーの胸の痛みは強くなる。
「過去の過ちは水に流そうハイディ、お前は清い体で俺のことをただ迎えてくれる。俺の過去の過ちもすべてこの日のためにあったんだ。よかった、言うことができてこれでスッキリ、結婚式とてもいいものにしよう、な?」
そう言って彼はまたワインを煽ってハイディーにグラスを差し出した。
その様子を見て、やっとハイディーは自分の中にある不満について明確に意識した。
そしてそれが自分にとってまったく無視できない事柄である事実を理解した。
……ああ、そうね。そういうことだわ。私は多分、普通の寛容な女の子じゃない。
一般的な幸せを手に入れている周りを見て、自分も同じようにと自然に考えていたけれど、これに酷く苦痛を感じる。
……私は、誰かを支えるよりも私を高めて生きていきたい。人を立てる生き方はできないのね。
対等じゃないなんて受け入れられない、たとえそれが短所であったとしてもどうしても不満に感じる。
ハイディーとブルーノはとても対等で当たり前に向き合ってしかるべきだ。それがハイディーの思う当たり前の人同士の関係。
だからこそ卑怯で姑息なことをして、こんな女性の方に後戻りすることがリスクがある場所でこんなことを言うなんて許せない。
それに彼の中にある感情は、浮気を結婚前には告白して許してもらっていたという免罪符が欲しいという自己中心的なものだろう。だから許すしかない状況で罪を告白した。
本当の意味ではハイディーのことを思いやってなどいないからそういうことができるのだ。
それを甘んじて飲み込んで、これからについて考えるそれが当たり前に誰もができる幸せへの行動であると思うが、ハイディーは吞み込めない。
そこで頭の中にちらりと昼のアルベルトの言葉が浮かんだ。そしてそれが、切り返しに大きな影響を与えたのは事実だろう。
「そう、なら私も、あなたに後ろめたいことをいうわね。言えないと思っていたことだから嬉しいわ」
「……あ、ああ。さらけ出せるのはいいことだ」
「ええ、そうね。あなたが遊んでいた間。私も魔法学園で素敵なラブロマンスを経験したわ。あなたと同じね。あなたが同じ学園に居ればよかったのだけれど生憎、そうはならなかったのだもの」
「は?」
ハイディーはワインを注ぐのをやめて、彼に対するふさわしい切り返しを思いついたままに口にした。
だっておかしいだろう。
聞きたいと言ったから言ってやって、言ったからにはスッキリして対等だなんて。
自分の罪悪感だけを払拭してあたかも尊重しているような体を見せながらも確実に見下したその態度をハイディーは受け入れられない。
「まさしく過去の過ちね。私もあなたもこれでおあいこ、許してくれるでしょう? 許せるのよね? でなければ可笑しいわよ」
「な……なにが、は? お前浮気してたのか?」
「していた、これでおあいこ、お互いスッキリ。これで対等、なにが違うの?」
ハイディーは睨みつけながら彼に言った。
しかしブルーノは次第に言葉を正しく理解した様子で、頬をひくひくっと引きつらせて「はぁ!?」と勝手に怒り出す。
「対等? は、なに言ってるんだ、お前浮気……それは違うだろ」
「なにが違うのかしら。私とあなたは同じ罪、過去のことなら水に流してこれから新しく愛をはぐくんでいこうと言ったのはあなたよね」
「だ、か、ら! 俺とお前じゃ違うだろっ、あ? は? 最低だな、こんな時期に……」
ハイディーの言葉に苛立ちをあらわにして髪をぐしゃぐしゃと書き乱す様子に、自分だけがイラついていて自分だけが怒っていいのだと思っているという傲慢さを感じてカチンとくる。
そして、自分は許してもらえるつもりでいたのに、ハイディーのことは許すもなにもないと怒りだすその自分を棚上げした筋の通らない自分本位な主張。
そんなものに普通の女の子たちがさらされていると思うと不憫でならない。いくら寛容であるべきだとしても早々許されるものではないだろう。
それともこういう男は稀有だろうか、ならばここでほかの女の子が悲しむ
可能性をつぶしておくべきだ。
なんせ結婚などするつもりもないハイディーは男性に好かれる必要もない。つまりは、寛容であるべきと押し付けられなくていい立場を気にしなくていい女性なのだから。
「その言葉全部、あなたにも言えることよね」
「いや、俺は、別に違うだろ。ただお前のための思ってこれからのために……」
「なら私もあなたの心の安寧を願ってこれからのために言ったのよ」
「だ、か、らっ! お前と俺とじゃ違うだろっ!!」
彼の言葉をそっくりそのまま返すと、ブルーノはまるで自分の立場と力を示すように乱暴にテーブルの上を薙ぎ払ってワイングラスが飛んでいく。
そうして怯えさせるような言動をとれば言うことを聞くと思ったら大間違いだ。
「浮気されていたなんて、騙されたんだ! こんなの、ああ胸糞悪い」
手ぶりをつけて指さし、ハイディーを怒鳴りつける彼にハイディーは真っ向から彼の指を思い切り掴み引き寄せる。
「っ、うわっ」
「……」
勢いに任せて二人の間で額が衝突する。頭の奥に響くような痛みはハイディーの思考を明確にさせてくれた。
「……それは私のセリフだわ。あなたは男女の性差を理由に自分は許されて、私は許されないと思っているようだけれど、悪いことは誰がやっても悪いこと。あんなふうに取り繕って二人のためだと言って許させるのは恥ずべき行為よ、見苦しい」
「い゛っ、う……」
「怒鳴りつければ私が委縮するとでも思ったのかしら? あなたよりも下の存在だからあなたが犯した罪も平気で告白されて許すしかないと思ったかしら?」
「っつ、罪だなんて俺は……」
「あなた、それほど怒り散らすことをあなたは私にやったのよ? 私だって怒って当たり前、だってあなたと対等だもの。自分が許せないことをよく私に許させようとしたわね、酷く姑息で、自分勝手な行動だわ」
「お、お前だってやってたんだろ! じゃあお前だってっ」
「嘘に決まってるでしょう、あなたがあんまり自分勝手だから同じ目に合わせただけよ。どうだった? あなたの反応は間違っていない、でもあなただけに許された言動ではない、私だってそう思った。腹をたてて、苛立って、思わず手……じゃなくて魔法使いらしく魔法が出てしまうところだった」
間近で目を合わせて彼に問いかける。
絶対に目を逸らさず、こういう人が一人でも減ればもう少し、ハイディーは普通の女性らしく生きるという難易度が下がるのではないかと思う。
ハイディーはもう、そうはならないとあきらめたが、もし同じように普通を望む人がいたら、きっとより不快な思いをせずに済むと思うのだ。
だから容赦などするつもりもなく脅しをかけた。
「あんまり、人を馬鹿にするものではないわ。男性を立ててつつましく幸せな結婚を望む女性だって、心に憎悪を燃やしたはずだわ。こうして行動に出さないだけで、あなたの陰湿な行動にいつか報いてやろうと牙を研ぐのよ」
「っ、……そ、そんなに怒らなくたって……」
「怒られて来なかったから、あなたはそんなに傲慢なのでしょう? 許されてきたからそんなふうになってしまったのでしょう? 言ってあげたのだからむしろ感謝してほしいぐらいだわ」
気弱になった彼にさらに追い打ちをかけると彼は歯を食いしばって、納得いかなそうにハイディーのことを見つめた。
しかし何も言わない、その様子にああよかったと思う。少しは彼に響いただろう。
「わかったら、あなたの罪をきちんと償って? 浮気なんて最悪よ、それに自分が許せない事を他人に許してもらえると思うその考え方もさらに悪い。筋を通しなさいよ、でなければ私今からでも不定の証拠を集めてあなたのことを告発するから」
言い終わって手をはなす、すると彼はソファーに脱力したように沈み込んでそれから忌々し気に言った。
「狭量なやつだっ!」
「あら、自己紹介かしら」
「っ、クソ!」
最後の嫌味にこちらも最大限の皮肉で返すと彼は、憤慨したような態度で立ち上がりそのまま応接室を出ていく。
その後ろ姿に、ハイディーはふんと鼻を鳴らして、それから自分はこんな人間だったのかと思う。
不満に思うことがおおくて怒りっぽくて皮肉屋で、とてもじゃないが普通の女の子ではない。
だからこそ、もう仕方がないと吹っ切れたのだった。
「ということで、結婚式の話もなくなりましたし、婚約も解消しました。あと私、仕事が好きですから、家庭に入る喜びはわかりません。これからもよろしくお願いいたします」
「お、おう。……これからも、そうだな。頑張ってくれるなら助かるな」
「ええ、そう言っていただけて嬉しいです」
ハイディーは、控えめながらもとても機嫌よく上司にそう告げて書類の廃棄をお願いした。
ブルーノとの一件があって以来、ハイディーは毎日をスッキリとした気持ちで送ることができている。
彼はその後、ハイディーの言葉が響いたのかそれとも別の要因かきちんと慰謝料を払って自身の有責で婚約解消を申し込んできた。
もしかすると調べられたらすぐに証拠が出るほどに彼の浮気というのは大勢に広まっていて、それでアルベルトはハイディーに対してあんなことを言ったのかもしれないし、ブルーノは隠し切れないと踏んで、誠意を見せる方向に切り替えたのかもしれない。
けれどもなんにせよ、結婚する前に罪を告白されて、許せないと言ってきちんと慰謝料をもらって別れた。これはとても普通のことであり、特に気にしてはいない。
それにそうであったからこそハイディーは、自分はこうなのだとあきらめもつく出来事になった。
自身のデスクに戻るとユリウスがすぐに寄ってきて彼は「とんでもない奴だったんだってな!」と眉間にしわを寄せて口にする。
「それなのに、あんな無神経なことを言ってごめんな! ハイディー! ハイディーが不安なのを全然理解できてなかったんだ! 悪い」
素直に謝罪をしてくる彼に、ハイディーは達観した笑みを浮かべて「いいのよ、全然」と口にする。しかし謝罪を理由に気さくな笑みを浮かべてユリウスに言った。
「でも気にしているのなら、あの店のエール一杯でどうかしら、久しぶりに下町に遊びに行きたい気分なのよ」
「おー、いいぞ! ハイディーの婚約解消祝いだな! とんでもないやつと縁を切れてよかったぜ!」
「そうね、お祝いね。パーッといきましょう」
ユリウスの言葉にハイディーは笑みを浮かべて返す。婚約解消なんて本来喜ばれることでもパーティーをすることでもないが、今の自分にとってはそれがふさわしいような気がした。
きっとハイディーはこのまま一生独身で自分のできることをやりたいようにやっていく。人を立てる生き方は性に合わないのだ。
それでいいと思う。
けれども現実は良い悪い、できるできないだけではなくハイディー自身がどういうふうに結論付けても、人からの思いや感情は変えられるわけではない。
「……俺も参加していいか?」
いつもよりも幾分静かな声で、アルベルトは話に加わってきた。
「もちろん、楽しみね」
「ただ、その前に俺は君に話がある、二人きりで」
そういう彼の瞳には、どこか友人らしくない熱がこもっていて、せっかく吹っ切れたというのに難しいと思う。
けれども友人からの切なる願いを無下にはしたくない。難しい気持ちになりつつも一つ頷いた。
「誰よりも好きなんだ、俺は、君が。愛している、俺との結婚を考えて欲しい」
ハイディーたちは王宮魔法団の本部の外廊下、日の差し込む美しい中庭のそばで雑談をするまでもなく、アルベルトはハイディへと視線を向けて言った。
午後の柔らかな光が差し込んでいて、彼はやはりとても真剣な瞳をしていた。
「……」
「嫌な思いをしたのも重々承知だ。もう、そういうことに感心がないのも言動を見ればわかる」
「……そうね」
「でも、頼む。俺は君がいい、ずっと張り合ってきた君が……」
情けなく言う彼に、ハイディーはとても困った気持ちになった。
彼の言う通りに、もういいと思っているし、あきらめたし吹っ切れた。
けれども、問題はアルベルトが思っているハイディーが吹っ切れた理由というのは、ブルーノという一個人がああいうふうだったから嫌な思いをしていたと考えているところだ。
ハイディー自身はもう、結婚して家庭に入るという普通の生活自体をあきらめてしまっているので、彼に望みはないし、やるだけ無駄であると思う。
「…………」
「好きだ」
「そう言われても、もう興味ないのよ」
「わかってる。でも」
歯切れの悪い返事をする彼に、ハイディーは仕方なく自分の気がついたことを口にすることにした。
きっと彼が望んでいることで、ハイディーが手放したことだから彼の言葉には答えられないとそれでまっとうに示せると思った。
「……私、怒りっぽいわよ。寛容でもない」
「お、おう? ……喧嘩になったら先に謝ればいいか?」
「そういう、話じゃなくて……? だからその、皮肉も言うし、対等じゃないことはすぐに怒るわ」
「そんなの普通だろ」
「だから、そういうのじゃなくてアルベルト」
「ああ」
「私、あなたを立てて生きられない。普通のお嫁さんになる気はないのよ」
察しの悪い彼に、ハイディーは確信をついてこれで彼も引くだろうと考えた。
そして一歩下がる、静かな外廊下に小さなヒールの足音が一つ響いた。
「……え、そんな……君にそんなことされたら俺、鳥肌立つが」
「……?」
開いた一歩を彼は詰めて、ハイディーは眉間にしわを寄せて彼を見上げた。
「というか、普通ってなんだ? ハイディーはハイディーだろ、俺はただ、ずっと競ってきた君を他の誰かに奪われて、張り合いがない日々を送るぐらいなら、俺は……俺が、君の隣にずっといたい」
手を取られて、瞳の中をのぞき込まれる。ハイディーはその瞳に嘘がないことに気がついて知らない形の情に、呆然とする。
「君がないと寂しいんだ。そう、ずっと思っていた。でも婚約者がいて君がそれを望んでるなら幸せになってくれるならと思っていた……けど手を伸ばしていいなら誰よりも俺が最初に、必ずこうすると決めていた」
「っ、」
「ハイディー、頼む、俺と一緒にいてくれ」
願われて、ハイディーは考えることで精いっぱいだった。
知らない形の愛情に、それから彼の複雑だっただろう思い。それになにより、それならばハイディーの特性と結婚は結びつくことになる。
拒否する理由はないけれど、混乱してしばらく見つめた。
乞うような視線に、ごくりと息を呑む。
……でも、ああいうこともあったのだし……。
ブルーノのことを思い出して、ハイディーは冷たい気持ちになった。
しかしその彼の行動にとらわれて、自分の嫌な気持ちにとらわれてそれを参考に新しい道を拒否するのはきっとアルベルトときちんと向き合っているとは言えない。
ブルーノの水に流してという言葉を思いだす。彼から言われる筋合いはないが、自分で思う筋合いはあるだろう。
重たい気持ちは水に流して、気持ち新たに向っていかなければならない時もある。
それが重要だと思う選択肢の時ならなおさら。
「……私でいいのね?」
そして確認するように問いかけた。すると彼は、とても素朴にそして少年みたいに笑って言った。
「ハイディーがいいんだ」
その笑みにハイディーは、きっと彼ならばハイディーをないがしろにしないだろうという強い予感を得た。
しかしそれがどういう形で実っていって、どういう形の関係になるのか定かではない、でも恐ろしく思わないのはその笑みのおかげだろうか。
ハイディーは普通ではないからこそ少し難しい。
けれども、あきらめるだけではなく、あるかもしれないハイディーなりに折り合いのつく幸せな未来の第一歩になっていたらいいなと思うのだった。
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