其の肆
4
「――元気そうだな、アヤメ」
シンジは無表情で、けれど感情のこもった声でそう言った。
「……まぁ、それなりにね」
アヤメは上半身を起こし、笑顔で答える。
その左目には、眼帯が付けられていた。
アヤメの左目を刳り抜いてから、ひと月程が経っていた。
その間、カツラはできる限りアヤメの傍を離れなかった。
アヤメが立ち直れるよう、彼は最善を尽くした。
決して同じ過ちを繰り返させないために、必死になって。
その成果かどうかは判らないが、アヤメの様子は以前の明るさを取り戻したようだった。
「コノハはどうした? 一緒じゃないの?」
アヤメの質問に、シンジは診察室の方に顔を向ける。
「今、カツラ先生の診察を受けている」
「なに? 体調悪いの?」
いや、とシンジは首を横に振りつつ、
「二、三日前から食が細い。気になったので、診てもらっている」
「ふぅん、そりゃ心配だ」
言ってアヤメも診察室の方に顔を向けた。
壁一枚挟んだ向こうの診察室。
あちらの声が聞こえない代わりに、こちらの声もあちらには聞こえない。
アヤメはしばらくその壁を見詰めた後、ふいに口を開いた。
「……あの妊婦さん、どうなった?」
その質問に、シンジは思わず眉をひそめる。
「――聞いてどうする」
「……別に」
アヤメは顔をシンジの方に戻し、顔を伏せる。
「なんとなく、気になって」
シンジは一つ溜め息をついて、ゆっくりと答えた。
「……あのあと、妊婦の死体はすぐに町人に見つかった。警察が調べた結果、身寄りのない娼婦だということがわかった。犯人は依然不明。そんなところだ」
それ以上、シンジは何も言わなかった。
二人の間に、しばらくの沈黙が続く。
やがてゆっくりと顔を上げたアヤメは、シンジの瞳を見つめながら口を開いた。
「――なんで、あたしを警察に突き出さなかったの?」
シンジはまた一つ溜め息をつき、答えた。
「……あれをやったのは、お前の心に宿った鬼だ。その鬼は、お前の左目を刳り抜いたことによって消えた。お前にはまだ、更生の余地がある」
「でも、罪は罪でしょ?」
アヤメの表情は硬かった。
自分を警察に突き出さなかったことを責めているかのようだった。
それに対して、シンジは答える。
「……もし警察に突き出せば、お前はほぼ間違いなく死罪だ。殺罪に情状酌量はない。だが俺は、お前に更生して、また一から人生を歩んでほしかった。だから突き出さなかった。これは俺の勝手な願いさ」
しかし、とシンジはアヤメに背を向けながら、
「お前自身が自首したいというのなら、俺は止めない。それはお前が決めろ」
「――」
アヤメは答えなかった。
ただ静かな吐息だけが、シンジの耳に聞こえてくる。
「……そろそろコノハの診察も終わっているころだろう。俺は行く」
言って扉に向かって歩みだすシンジに、アヤメは口を開いた。
「待って、シンジ」
シンジは振り返ることなく、足を止める。
少しの間があって、アヤメは言った。
「――ごめん、ありがと」
「……」
シンジは答えることなく、アヤメの部屋をあとにした。
シンジが待合室に戻ると、そこにはコノハの姿があった。
手には、何やら薬の袋が握られている。
他に患者の姿が見えないのは、どうやら昼の休診時間に入ったからのようだ。
コノハの隣には、カツラの姿もあった。
「どうだった?」
シンジの問いに、コノハは微笑みながら答える。
「……ちょっと疲れているだけみたいです。お薬をいただいたので、たぶん、大丈夫かと」
シンジはカツラの方に目を向け、それから溜め息交じりに言った。
「だから、無理はするなと言っているのに」
「ですが、お役目ですから――」
お役目。
シンジはその言葉が好きではなかった。
コノハは大丈夫と言っているが、明らかに顔色が悪い。
できれば神の声が聞こえても無視してしまいたいところだが、もしそんな事をすれば神の怒りに触れ、コノハ共々神の力で縊り殺されてしまうだろう。
それだけは、どうしても避けたかった。
けれどそれと同じくらいに、シンジはコノハが苦しむところを見たくはなかった。
「アヤメさんの様子はどうでしたか?」
「随分良くなっているようだった。あの分なら、鬼が再び現れることはないと思う」
「……良かった」
言ってコノハは胸を撫で下ろす。
カツラも笑顔で口を開いた。
「大丈夫、もう心配することはないだろう」
シンジはこくりと頷く。
鬼に捉われた者でも、その鬼を祓えばまた人としてやっていくことができる。
そう信じて。
「それじゃぁ、俺たちはこれで」
言ってシンジは頭を下げる。
「あぁ、また来なさい」
歩き出したシンジのあとを追うコノハ。
その姿はどこか疲れきっているように見えて、カツラは思わず声をかけた。
「――コノハ」
「……はい?」
立ち止り、振り向くコノハにカツラは精いっぱいの笑顔を作る。
「あまり、気を落とさないようにな」
「……はい」
その痛々しい微笑みを見るだけで、カツラは胸が締め付けられるような思いになるのだった。
夕刻、二人は並んで町の小道を歩いていた。
暮れなずむ空には、ぼんやりと丸い月が浮かび上がっている。
遠く水平線に沈みゆく太陽を眺めながら、
「……綺麗ですね」
コノハが呟くように言って、シンジは「うん」と頷いた。
けれどシンジの心中は、妙にざわついて仕方がなかった。
理由は解らない。
今宵もカミガカリの役目で多くの人を斬ることになる、それが堪らなくシンジの心を締め付けているだけなのか、それとも――
徐々に太陽はその姿を海に没し、代わりに月が煌々と輝き出した。
まん丸い、綺麗な月だった。
そういえば、アヤメが妊婦を殺めたのも、こんな綺麗な満月の夜だったか。
シンジはふと歩みを止め、空を仰いだ。
鬼がその動きを活発化させるのは満月、あるいは新月の夜だ。
もしかしたら、今日は一睡もできずに朝を迎えることになるかもしれない。
その分、コノハには辛い思いをさせることになる。
シンジは深いため息を吐き、胸に手をやる。
心を落ち着かせ、ぎゅっと拳を握りしめた、その時だった。
「……シンジさん」
コノハの声に、はっと背後を振り向く。
コノハは細くため息を吐くように、
「……声が」
その言葉に、シンジは深いため息を吐き、
「……行こう」
そう、小さく答えたのだった。