其の弐
2
夕刻。シンジとコノハは二人並んで縁側に座り、じっと沈みゆく夕陽を眺めていた。
二人はこの時間帯の空が好きだった。
橙色から藤色へと変わり、やがて星々の煌めく世界へと変わりゆく空の美しさに、一時の幸福を感じる。
しかし、それは同時に、二人にとって辛い時間が始まるということに他ならなかった。
闇に乗じて神を恐れぬ行為に手を染める人々――鬼。夜はそういった者たちが数多く現れ、続け様に彼らを始末しなければならなかったからである。
陽が沈み、闇の帳が下りるのと同時に、人々の心にも暗黒が広がる。
二人は何とも言えない心境の中、佇むのだった。
「……もう、陽が見えなくなりますね」
呟くコノハに、シンジは黙って頷く。
そろそろ、神がコノハの心に語りかけてくるころだろう。
また、『不信神者を始末せよ』と。
コノハは小さく溜め息を吐いた。
――男はあのあとどうしたのだろうか。
手首を斬られて、真っ当な職に就くことができるのだろうか。
まともに生きていくことができるのだろうか。
それがコノハは心配だった。
いっそ殺したほうが彼のためだった――などということはないのだろうか。
「どうした、コノハ」
シンジに声をかけられて、コノハははっと我に返る。
「い、いえ、なんでもありません」
「――そうか」
シンジの返答は、それだけだった。
シンジは始終こんな調子だった。
あまり自分から喋ろうとはしない。関わろうとはしない。
だからと言って、無関心というわけでもなかった。
シンジにはシンジなりの考え方や接し方がある。ただ、それだけのことなのだ。
コノハは先ほどまで考えていたことを振り払い、そっとシンジに寄り添う。
やがて陽が完全にその姿を海に沈めた時、ふいに玄関を叩く音が家中に響き渡った。
続いて覚えのある声が聞こえてくる。
「シンジ! コノハ! 居る?」
それは、港町の診療所でカツラの助手をしている、あのアヤメの声だった。
こんな時間に、いったい何の用だろうか。
コノハは思い、シンジに顔を向ける。
シンジはコノハの目を見つめがら、小さく頷いただけだった。
それを受けて、コノハは玄関へと向かう。
「はい、ただいま」
言って戸を開けたそこには、薬袋を持つアヤメが息を切らせながら立っていた。
コノハは目を丸くし、アヤメの体を支える。
「だ、大丈夫ですか、アヤメさん」
「はは、ありがとね、コノハ。ちょっと無理して走りすぎちゃったよ」
苦しそうに、けれど笑顔でアヤメは答えた。
そこへ、遅れてシンジがやってくる。
「……何か用か?」
無愛想なその言葉に、アヤメは溜め息交じりに言った。
「用があるから来たんでしょ? ほら、痛み止めの薬。忘れてたから」
「――もう、必要ない」
ぞんざいな物言いに、アヤメは首を横に振る。
「ダメ。先生がまだしばらく飲んでおけって」
「……痛みはない」
「痛くないのは、薬で痛みを抑えてるからでしょ?」
「……」
それは確かにその通りであった。毎日飲む薬がなければ、今もまだ違和感に似た痛みがある。しかし、耐えられないほどの痛みでもない。何よりも――
「シンジさん、お薬が嫌いだから――」
コノハの言葉に、シンジの眉根がぴくりと動く。
それを見たアヤメは呆れたように口を開いた。
「はぁ? あんた幾つになったのよ。ガキじゃあるまいし」
「……」
余計なことを、という目をコノハに向けるシンジ。
しかしその表情は、いつもの仏頂面とはまるで違うように見えて、それがコノハにはどこか嬉しく感じられる。
「とにかく、ちゃんと薬は飲むこと」
言ってアヤメは薬袋をコノハに手渡す。
「コノハ、よろしくね?」
「はい、任せてください」
「……ふんっ」
コノハとアヤメのやり取りを見て、シンジは了承しかねるといった表情で、家の奥へと戻っていく。
そんな後ろ姿に、コノハとアヤメは思わずくすくす笑うのだった。
辺りが暗闇に閉ざされても、シンジとコノハはただ縁側に座してじっと月を眺めていた。
穏やかに見える夜の世界が、しかし二人は好きではなかった。
夜の闇は、心の鬼が目覚める刻。
人目を忍び、罪に手を染める人々が動き始める時間。
神がコノハに語りかけ、シンジは傷つけ、或いは殺し、そのお肉血を体に浴びる。
それが二人にとっての夜だった。
「――っ!」
ふいに立ち上がるコノハを見て、シンジは呟くように問いかける。
「……神の言葉か」
「――」
コノハは小さく頷いた。
シンジは神刀を脇に下げ、玄関へと向かう。
「……」
コノハは小さく溜め息を吐き、そのあとを追うのだった。