其の壱
1
「その後、左腕の調子はどうかな」
机に向かいながら、医者はシンジに問うた。
「問題ありません」
シンジは無表情に答える。
「以前のように痛む訳でなし、特に不自由はありません」
小さな港町の一画。レンガ造りのビルが立ち並ぶ中、その診療所はあった。多くの商人が行き交う、けれど小さなその町の、唯一の医療施設である。
「それは何より」
医者は言ってシンジの方に体を向け、顔を綻ばせた。
顔中に皺のあるこの医者は、名をカツラという。
シンジが生まれたその瞬間から世話になっている老人であり、彼がカミガカリであることを知る数少ない人間の一人である。
「だが、あまり無理はしないことだ。コノハの為にもな」
「――はい」
シンジは答えて、小さくため息を吐いた。
左腕を斬り落としたとき、コノハは狂ったように泣き叫んだ。
すまないことをしたと思う。
しかし、あの時はそうするより他に、己の心に巣食った鬼を沈める方法はなかったのだ。
鬼の心を持つ者は、必ず体のどこかに激痛が走るという。シンジもそうだった。己の心に鬼が宿ったとき、痛みを感じたのが左腕だったのだ。そこを体から斬り離し、鬼血を抜くことによって、シンジはその鬼を祓うことができた。そうして初めて、シンジは実は殺さずとも鬼は祓えるのだということを理解したのだった。
それまでシンジは、神を恐れず罪を犯した者は、必ず殺さなければ、その御霊が救われることはないのだと思っていた。その鬼血を身体に浴び、神に献上しなければならないのだと母親からそう教え込まれていた。
だが、それは誤りだった。
実際には殺さずとも、鬼血を抜けば鬼の心は消え去るのだと言う事を身を以て知ったのだ。
左腕を失くした今なら、それがよく解る。
要は痛みを感じる部分を斬り、鬼の宿る血のみを浄化すれば良いだけのことだったのである。
「しかし、あの時は本当に驚いたよ」
とカツラは言いながら笑った。
「あれだけの出血でまだ生きていたことが、ワシには不思議でならなかった。君の生きようという強い思いが奇跡を起こしたのだろうな」
「そう――ですね」
シンジは答えて、小さく頭を下げて礼をする。
「ですが、カツラ先生のお陰でこうして生きているのだと、俺は思っています」
「ふむ、そう思うのなら、礼はコノハに言うべきなのではないかな? 君が自ら左腕を斬り落したとき、必死に君を支えてここまで連れ帰ったのはあの娘じゃないか。これ以上、彼女に心配させないことだ」
「――はい」
答えるシンジを見て、カツラは満足そうにうんうん頷いた。
そこへ、診察室の戸を叩く音が部屋中に響き渡った。
あまりに大きなその音に、シンジは思わず戸に顔を向ける。
「なんだ、どうした?」
カツラが訊ねると間もなく戸が開き、一人の少女が顔を覗かせた。
「先生、始まったよ!」
肌の黒い、短髪のその少女は焦ったように叫んだ。
シンジは何が始まったのだろうかとその少女に目を向けた。
それに気づいた少女は、あれ、という表情で口を開く。
「なんだシンジ、来てたんだ。コノハは元気にしてる?」
「……あぁ」
シンジはいつものように、無表情に答えただけだった。
シンジはこの少女と小さな頃から面識があった。
一緒に遊んだことは一度もなかったが、彼女の人見知りしない性格から、この診療所に来るたびに二言三言、会話をする間柄だったのだ。
「腕の調子はどう? まだ痛む?」
「いや、別に」
そっか、と小さく呟いた少女は次の瞬間、はっとした表情になり、
「あ、それどころじゃない! 先生、早くしないと産まれちゃう!」
「あぁ、わかった。すぐ行く」
カツラは言って、シンジに顔を向けた。
「すまないが、今日の診察はここまでだ。どうやらハナさんのお産が始まったらしい」
「えぇ、解りました。ありがとうございました、先生」
言ってシンジは頭を下げる。
「なに、私は医者だからな。何かあれば、いつでも来なさい」
「先生、早く!」
急かす少女に、カツラは「はいはい」と答えた。
「解った解った。そう焦らせるな、アヤメ。じゃぁな、シンジ」
「はい」
診察室を出ていく二人を見送ってから、シンジも遅れて診察室をあとにするのだった。
「――終わりましたか?」
待合室に戻ると、そこには静かに佇むコノハの姿があった。
「あぁ」
シンジは小さく答えて、そのまま出口へと向かう。
そのあとを、コノハは静かについて歩いた。
診療所を出て、二人は沢山の人々が行き交う道を避けるように、裏道へ進んだ。
人がすれ違えるぎりぎりの幅。海へと流れる小川の脇では、女性たちが野菜や洗濯物を洗いながら談笑している。
別の地方からやってくる商人たちは人通りの多い表の通りを行くが、シンジたちのような地元の者は普段、こうした裏道を行く。いわゆる生活道である。
シンジが適当に挨拶する一方、コノハは声をかけられるたびにいちいち頭を下げて挨拶をしていた。無愛想なシンジの分も合わせているらしい。それ程大きくはない、けれど多くの商人で賑わう港町だったが、地元の人々の殆どが顔見知りといってよかった。
けれどその中に、シンジとコノハがカミガカリの役目を担っているということを知る者は数少ない。
カミガカリという、神から与えられる役目があるということだけは世に知られていたが、それがシンジとコノハであるという事実までは周知されてはいなかった。
カミガカリは人目を忍んで罪を犯す鬼を斬り、その血を浄化するのが役目である。鬼とは言えそれは人であり、やっていることそのものは人殺しと変わりない。故にカミガカリは人々から恐れられ、時として忌み嫌われる存在でもあった。
だからこそ、カミガカリの役目を与えられた者はそれをひた隠しにし、ただひっそりと生きていくのが常となっていたのである。
カミガカリの役目を与えられている人間が世にどれほどいるのか、シンジもコノハも全く知らない。ただ、自分たちの他にもカミガカリが存在するということだけは、自分たちの親から聞かされていた。
「……シンジさん」
ふいにコノハが立ち止まり、シンジは小さく「どうした」と答えてコノハに振り向く。
コノハは小さくため息を吐くように、
「……お仕事です」
コノハの心に、神が語りかけてきたのだ。
『神を恐れぬ、不信神者を始末せよ』
それはつまり、人を傷つけるということ。
場合によっては、殺めるということ。
「……わかった」
シンジも小さくため息を吐き、それから右手を伸ばしてコノハの頭を胸に抱く。
シンジは言葉を発しなかった。だが、それでもシンジが言わんとすることを理解したコノハは微笑み、「いいえ……」と小さく呟くのだった。