其の伍
5
二人を隔てる、高い垣根。
それは目に見えない、二人の心の距離だった。
どんなにシンジが近づこうとしても、きっとアヤメは受け入れない。
それと同じように、シンジも今のアヤメをどうしても受け入れることができなかった。
シンジは神刀を右手に構え、じっとアヤメを睨みつけていた。
コノハは信じられないといったふうに口元に手をやる。
「なんで、どうして? 確かに、あなたの鬼は祓ったはずなのに……!」
その言葉に、アヤメは薄く笑った。
「ふふ、残念。あたしの心に鬼なんてはじめから宿っていなかったのよ。だって、アタシ自身が神の戒律を犯す鬼なんだからさ」
アヤメの手には、まだ人の形になりきっていない胎児の頭が握られていた。
臍の緒は乱暴に引きちぎられ、だらりと風に揺れる。
「――違う! お前は鬼などではない! 鬼に心を喰われるな!」
「違わないさ。だからほら、こんなことだってできちゃう」
アヤメは鎌を握りなおし、胎児の頭をその形が変わるほど強く握る。
「や、やめて――!」
コノハの叫び声に、アヤメは不敵な笑みを浮かべながら、胎児の体を腹から横二つに斬り裂いた。
手慣れた手つきで、けれど鋸のように、何度も何度もその刃を前後させながら。
ぼとり、と下半身が地面に落ちる。
残った上半身から、だらだらと赤い血が滴り落ちる。
見ているだけで、吐き気が催すほどの残虐な光景に、シンジは眉間に皺を寄せ、
「いやああぁぁ――あぁ!」
コノハは泣き叫び崩れ落ちる。
しかし、その声はただアヤメを悦ばせるだけにすぎなかった。
「あっははははははは! さぁ、どうよ。これでもアタシがまだ人だって言える? アタシは人じゃない、鬼なのよ! 生まれた時から、アタシは鬼以外の何者でもなかった! さぁ、殺しなさいよ! それがあんたの役目なんでしょ!? シンジ!」
コノハは斬り裂かれた胎児の下半身を前に、泣き叫んでいた。
シンジは嘲笑うアヤメを前に、神刀を構えていた。
どうして、こんなことを。
しかし、それは解りきったことだった。
アヤメの心に巣食った鬼は、祓い切れていなかったのである。
いや、そもそも鬼を祓いきることが出来るのかどうか。
「どうしたのさ、シンジ。あたしを殺さないの?」
「……お前は、心に鬼を宿しているだけだ! お前は、鬼じゃない!」
「――何言ってんの? 鬼はね、あたし自身なの。心に鬼が宿ったのでも、巣食ったのでもない。生まれたときからあたしは鬼だった。いえ、産んだ子を捨てるような、鬼の親に産み落とされた、鬼の子なのよ」
「違う! お前は、そんなやつじゃない!」
「違わないんだよ、シンジ。だからあたしはこうやって何人もの妊婦を殺してきた。育てる気もないのに産もうとする奴らを、この鎌で、ズタズタに切り裂いてやった…… この妊婦もそうさ」
言ってアヤメは足元に転がる妊婦の遺体を蹴る。
「この女、知ってる? 肉欲に溺れて、色んな男と子供を作っては、産み落として縊り殺してた。おまけに、自分を抱いた男も殺してさ。こいつも、あたしと同じ鬼なんだ。生まれたときから鬼なんだよ」
「――違うと言っている! 生まれたときからの鬼なんていない!」
「いるんだよ、あんたが知らないだけでさ。だからあんたみたいなカミガカリがいるんでしょうが。あたしら鬼を始末するためにさ」
「必ずしも殺す必要はない! 人は、鬼を捨てられるんだ!」
「鬼は捨てられないんだよ、シンジ。だって、鬼は自分自身なんだから。もしも鬼を捨てられるのだとすれば――」
アヤメはにっと笑い、泣き崩れ震えるコノハに向かって駆け出した。
「な、何を!」
シンジも動いたが、数歩遅かった。
アヤメはコノハの体を羽交い絞めにすると、握っていた鎌の切っ先を、その腹部に押し当て今すぐにでも切り裂ける態勢で叫んだ。
「さぁ、あたしを殺しな! 鬼は、殺さなければ消えはしないんだ!」
「やめろ、アヤメ! コノハを離せ!」
「だったらあたしを殺しなよシンジ、じゃなきゃコノハも殺しちゃうよ?」
アヤメは言って、構えた鎌にぐっと力を込める。
「なぜだ! なぜこんなことをする!」
「それはあんた自身が一番知ってるはずじゃない?」
「確かにお前は母親に捨てられた! だが、だからと言ってその想いを他者に向けてはならないんだ! それくらい解ってるだろう、アヤメ!」
シンジのその言葉に、アヤメは呆れるような表情で嘲り笑う。
「……ふっ、ふふふ。違うよ、シンジ。そうじゃない」
「……? 何だと?」
眉をひそめるシンジに、アヤメは大きな溜息を一つ吐き、
「……まぁ、いいや。どのみちコノハは殺す。あんたがあたしを殺さないって言うんならね!」
叫ぶが早いか、アヤメは握りしめた鎌を大きく振り上げた。
その切っ先が、コノハの腹部に振り下ろされる瞬間。
「いやぁああああぁぁああ!」
コノハは叫び、
「やめろおぉぉ――――――おぉ!」
シンジは神刀をアヤメに向かって構え、駆け出していた。
それを見て、アヤメは不敵に笑う。
振り下ろした鎌はアヤメの手を離れ、地面に向かって飛び、突き刺さる。
「なっ!」
続いてアヤメはコノハを地面に投げ付け、襲いくるシンジの前に自ら飛び出した。
――ずぶりっ
シンジの神刀が、アヤメの胸を突き破る。
シンジは目を見張り、思わず口をついたのは少女の名だった。
「あ、アヤメ……!」
「そ、れで、いいんだ……シン……ジ!」
アヤメは言って、シンジの体を抱きしめるように、胸に突き刺さった刀をより深く突き刺し刀の鍔を赤く染めた。
アヤメの胸からはだらだらと赤黒い血が流れ吹き出し、シンジの体を穢していく。
どろどろとした、濃い鬼の血が、コノハではなく、シンジの体に染み込んでいくのが解る。
そしてアヤメはシンジの耳元で、渾身の力で囁いた。
「コノハを――大切に…………して……」
「う、うああ、あああ、ああああぁあああ!」
シンジは叫び、神刀から手を離し後ずさる。
支えを失ったアヤメの体は地面に膝をつき、前屈みに倒れる。
アヤメの瞳には、もう、生者の光は宿っていなかった。
ただ人形のように、ぐったりと、ぼんやりと、地面をみつめているだけだった。
起き上ったコノハは目を見張り、
「アヤメさん! アヤメさん!」
アヤメに縋りつくように、叫び続けた。
けれど事切れたアヤメはもう二度と、返事をすることはなかった。
ただシンジとコノハの、絶望の叫び声だけがこだましていた――