偏屈貴族と、氷の一杯【前編】
昼下がりの〈月夜の杯〉には、静かな空気が流れていた。
昼営業はしていないはずだが、たまに「開いてる?」とふらりと来る客がいる。
ロルフは気まぐれに扉を開けて、客の“顔つき”で入れるかどうか決めていた。
そんななか──今日はちょっと風変わりな客がやってきた。
「……やっているのか? 本当に?」
そう尋ねたのは、細身で神経質そうな中年男。
仕立てのいい上着に白手袋。眉間に深いしわを寄せ、目だけが鋭く研ぎ澄まされている。
ロルフはカウンター越しに男を一瞥すると、ため息混じりに言った。
「やってるが……店の空気を壊す奴は入れねぇ」
「……ふん。選ぶ立場なのか?」
「その分、安くもねぇし媚びも売らねぇ。酒とメシに文句がねぇなら座りな」
男はひとつ肩をすくめ、しぶしぶとカウンターの席に腰を下ろした。
「すみません、ちょっと偏屈そうな方ですよ?」
ミアがロルフの耳元で小声で言う。
ロルフはくすっと笑い、少しだけ声を潜めて返した。
「たまには、酸っぱい酒も悪くねぇ」
「……それ、客のことですか?」
やがて料理と酒が並んだ。
炙り銀狼肉のタルタル。柑橘と薬草のソースを添えたさっぱり系の一皿。
そして、冷やされた氷精酒──魔素で凍結させた冷気酒。白銀のグラスの内側に、ほのかに霜が浮かぶ。
「……ふむ。料理は悪くない。酒も……まずまず」
そう言いつつ、男は一気に飲み干した。
「おい」
ロルフの声が、低く落ちた。
「“まずまず”にしちゃ、いい飲みっぷりだな」
「……あいにく、味の良し悪しに口を利く癖がついていてな。私は“貴族”なんでね」
その言葉に、ミアが小さく眉をひそめた。だがロルフは笑っていた。
「貴族様だろうが農夫だろうが、うまいもんは“うまい”って言やいいのさ」
「……戯言を」
男はそう吐き捨てたが、そのグラスを、もう一杯差し出した。
数分後──男は、口を開いた。
「……私は“地位”を捨てた。いや、捨てるしかなかった」
ぽつぽつと、男は語り出す。
「宮廷で仕えていたが、無能と忌み嫌われ、部下からも冷笑され……それでも私は、間違ったことはしていないと信じていた」
ロルフは黙って、三杯目の氷精酒を注ぐ。
「だが結局、誰もついてこなかった。……正しさなんぞ、独りでは意味をなさない」
そう言って、男はグラスを持ち上げた。
「冷たい酒は、私に似ている。心を凍らせなければ、生き残れないのだ」
ロルフは言った。
「けど氷の酒は、解けたときが一番うまい。……って、うちの嫁がよく言ってたよ」
男が、ほんの一瞬だけ目を細めた。
それは、どこか遠い記憶を思い出すような、微かなゆらぎだった。