月夜の杯へようこそ【後編】
セラは、グラスの中をじっと見つめていた。
琥珀色の液体は、ランプの明かりに照らされて、かすかにゆれている。
その香りだけで、不思議と気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
「……あの、店主さん。ロルフさんで合ってますよね」
「おう」
「ちょっとだけ、話していいですか」
「酒が入ってりゃ、誰だってしゃべりたくなる。構わねぇよ」
ロルフのその一言に、セラはふっと肩の力を抜いた。
「……パーティを抜けたんです。つい昨日のことなんですけど」
ぽつりぽつりと語り始める。
「私、あんまり器用じゃなくて。戦いも苦手で……失敗も多くて。
それでも足引っ張らないように必死だったけど、結局仲間に言われたんです。
“もっと周りを見ろ”とか、“何度同じミスするんだ”って」
拳をぎゅっと握る。
「頭にきて、“じゃあ一人でやる!”って飛び出したんです。
けど本当は……怒ったんじゃなくて、怖かっただけで」
「何が?」
「嫌われるのが、です。
“仲間じゃない”って思われるのが……自分が、必要とされてないって思うのが」
喉の奥から、何かがつかえるようにせり上がってきた。
「でも、言葉にするのが怖くて、結局強がって……
ほんとは、誰かに言ってほしかっただけなのに。“お前がいてくれてよかった”って」
そこまで言うと、セラは俯き、静かに肩を震わせた。
しばらくして、カウンターの向こうから、とくん、と音がした。
もう一杯分の“月の雫”が、そっと注がれた音だった。
「言ってもらえる日が来るさ。……そのときまで、自分だけは自分を信じとけ」
ロルフは、いつもの無愛想な声でそう言った。
「弱ぇところも、逃げ出したくなるところも含めて、あんたはちゃんと“あんた”だ。
強くなんかなくたっていい。……けど、立ち止まりたくなったときこそ、一杯飲んで前を見ろ。
飲めるうちは、やり直せる」
「……そんな魔法みたいなこと、あるわけ……」
そう言いかけて、セラは“月の雫”を口に運ぶ。
喉を通ると同時に、なぜか心の奥の張り詰めた糸がふっと緩んだ。
温かく、優しく、でもしっかりと背中を押してくれるような、そんな味だった。
「……魔法、か。なんかちょっとだけ、わかった気がします」
翌朝、雨はすっかり上がっていた。
「ありがとうございました。……ほんとに、お世話になりました」
「礼はいらねぇ。金も……まあ、半額でいいや。昨日の分、涙で割り引いとく」
「……ふふ、変なサービス」
「また旅の途中で、立ち寄りたくなったら来い。
“月夜の杯”は、どこへ行っても帰ってこられる場所だ」
「……はい。また、来ます」
セラは小さく頭を下げると、晴れた通りへと歩き出した。
その背中は、昨日よりほんの少しだけ、軽やかに見えた。
「ミア、今日も朝から忙しいぞ」
「えっ? もう次の仕込みですか?」
「いや。俺の朝酒がまだなんだ」
「……ロルフさん、それ“仕込み”って言いません!」
「男にはな、朝から飲まなきゃいけねぇ日があるんだよ」
「……もう、週に五日はそれですよー!」
軽口が交わされる酒場に、今日もまた一日が始まる。
カウンター奥の棚に並ぶ古びたノートのページが、ふわりと風でめくれた。
そこには、やさしい文字でこう綴られている。
──言葉より先に、まず一杯。酔いが心をほどいてくれる。
ロルフはそれを見て、照れたように鼻を鳴らしながら、
そっと自分の杯に“月の雫”を注いだ。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
「月夜の杯」は、ちょっとだけ疲れた誰かが、ふらっと立ち寄って、あったかい飯と酒で少し前を向けるような──
そんな物語を目指して、のんびり綴っています。
この先も気が向いた時にふらっと読みに来てくれたら嬉しいです。
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また、月夜の杯でお会いしましょう。かんぱい!