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灯る願いと夜の声

 宿場町に朝の光が差し込む頃、〈月夜の杯〉ではいつもと変わらぬ静かな一日が始まっていた。


 まだ空気に冷たさが残る時間、石畳を照らす日差しが、淡く看板の文字を浮かび上がらせる。「月夜の杯」の扉の向こうでは、ミアが一人、店の支度に励んでいた。


 薪を組んで火を起こし、湯を沸かしながら、厨房の小窓を開けて風を通す。昨日の仕込みを確認し、今日の献立の構想を膨らませる。


「朝はシチュー仕込みから……今日は風も冷たいし、香草を多めにしてあったまるやつにしよう」


 口元に笑みを浮かべながら、冷蔵棚から霜降り肉と野菜を取り出す。包丁の音がトントンと心地よく響き、香草の香りがゆっくりと厨房を満たしていく。


 ここ最近、ロルフは細かい指導をほとんどしなくなっていた。ミアが料理も仕込みも、酒の調合も一通り任せられるようになってきたからだ。


 ミア自身もそれを誇りに思っていた。任せられるという信頼が、少しずつ自信に変わってきていた。


 そんな中、店の奥ではロルフが無言で小さな袋に荷を詰めていた。


「ロルフさん、出かけるんですか?」


「ああ。隣町に……ちょっと、な」


 その声には少しばかり重さがあった。


「酒問屋の親父がな、“あの人に似てる女がいた”って言ってきてな。……昔の知り合いに、だ」


「……フローラさん、ですか」


 ミアの問いに、ロルフは言葉を返さず、ただ小さく頷いた。肩を落としたその背中は、普段の無骨な店主ではなく、どこか旅人のように見えた。


「店、頼む」


「はい! ちゃんと任せてください!」


 ミアは声を張りながら、胸の奥に小さな緊張を抱えていた。


 ロルフが扉を開いて出ていったあと、店には一人分の静けさが残された。


 彼女は大きく深呼吸すると、カウンターに立ち、カーテンを開け、窓を拭いた。厨房に戻って鍋の火を見直し、グラスの磨き残しがないか確かめる。


 ——ロルフさんがいない時にこそ、ちゃんとやってみせなきゃ。任せられるって、証明したい。


 やがて、開店時間。扉が開き、常連の旅商人が顔を覗かせた。


「よう、珍しいな。今日は店主は?」


「ちょっと用事で外出してて。でも大丈夫です、私が全部やりますから!」


 明るく笑いながら、ミアはエプロンの裾を持ち上げて一礼した。


 いつもと変わらない空間に、ひとりで立つ少女の姿は、どこか頼もしく見えた。

 

 午後の陽が傾く頃、隣町では祭りの余韻が商店通りに漂っていた。露店の幟が揺れ、香ばしい焼き菓子の香りが風に乗る。そんな中を、ロルフは人混みに紛れて歩いていた。


 酒問屋の主が話していた「似た人」は、果たして本当に——そんな期待と諦めの間で、心は落ち着かないままだった。


 ふと、町外れの雑貨店の前で立ち止まる。そこにいたのは、背丈も雰囲気も“それらしい”女性だった。


 だが、近づいて目が合った瞬間——違う、と分かった。


 女性は不思議そうに会釈をして通り過ぎていく。その背を見送りながら、ロルフはしばらく動けずにいた。


「……似てた、だけだな」


 自分で呟いたその声が、どこかに沈んでいく。


 胸の奥にぽっかりと空いた穴を抱えながら、ロルフはゆっくりと町を後にした。


     ※ ※ ※


 一方その頃、〈月夜の杯〉ではミアが店を切り盛りしていた。


 忙しい時間帯。厨房とカウンターを行き来しながら、料理を出し、酒を注ぎ、客の話を笑顔で聞き、注文を忘れずこなす。


 グラスの磨き残しはない。火加減は絶妙。客の顔色を見て、何を出すかを判断する勘も鋭くなってきた。


 黙々と、だが確かな手つきで次々と酒を注ぎ、料理を出すミアの姿には、どこか“酒場の女主人”としての風格が漂っていた。静かな眼差しの奥には、責任を引き受ける者だけが持つ覚悟が灯っていた。


 常連客が帰り際に言った。


「ミアちゃん、立派になったな。もう一人前の女将だよ」


 その言葉に、ミアは口元だけで小さく笑う。


「ありがとうございます。また、冷えた夜にでも」


 どこかロルフに似たような返し方だった。


     ※ ※ ※


 夜更け、ロルフが戻ってきた。疲れた顔をしていたが、店内の光景を見てふっと息をついた。


 掃除の行き届いた床。整然と並ぶグラス。厨房から漂う余熱と、静かな安心感。


 ミアがカウンター越しから顔を出した。


「おかえりなさい、ロルフさん」


「ああ、ただいま」


 ロルフは言葉少なに荷物を降ろすと、静かに椅子に腰かけた。


「会えませんでしたか?」


「……似てたが、別人だった」


 しばし沈黙。そしてぽつりと。


「……会いたい。けどな、今の俺には、ここがある。お前がいる」


 ロルフの言葉に、ミアはそっと笑った。


「じゃあ、また明日も頑張りましょう。二人で」


「……ああ」


 カウンターの上で、氷が静かに溶けていった。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます!


「月夜の杯」は、ちょっとだけ疲れた誰かが、ふらっと立ち寄って、あったかい飯と酒で少し前を向けるような──

そんな物語を目指して、のんびり綴っています。


この先も気が向いた時にふらっと読みに来てくれたら嬉しいです。

そして、もし「いいな」「ちょっと好きかも」と思ってもらえたなら、

良かったら高評価やお気に入り登録などで応援してもらえると、とても励みになります!


また、月夜の杯でお会いしましょう。かんぱい!

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