月夜の杯へようこそ【前編】
五つの街道が交差する中継の町──〈ステラ交差町〉。
ここは旅人の交差点とも呼ばれ、大陸の各地から様々な人々が集まる宿場であり、交易の要でもある。
魔道具商人、傭兵団、巡回神官、吟遊詩人……時には、異種族の者たちも行き交う。
ここにいれば、数日で世界のすべてに触れられる──そんな言葉すらあるほど、騒がしくも懐の深い街だった。
その日の夕刻、雨のカーテンの中を、ひとりの女冒険者が歩いていた。
「はぁ……ほんと、ついてない」
ずぶ濡れのマントを絞りながら、セラは深いため息をついた。
濡れた石畳、冷えた足先、腹はぺこぺこ。それより何より──心が重たかった。
(仲間に……あんな言い方、しなきゃよかったな……)
気まずい空気に耐えきれず、パーティを飛び出して一日。
宿はどこも満室、酒場も高すぎて手が出ない。心も財布も、今の彼女には寒すぎた。
そんなとき──ふわりと、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
焼き肉、スパイス、そして……なぜか心を落ち着かせるような、淡い酒の香り。
「……こんな裏通りに、店?」
路地の奥。看板も灯りもない木の扉。だが、扉の上には月をかたどった木彫りの意匠が掲げられていた。
「まぁ、ダメ元だよな」
そう呟いて、セラはその扉を押した。
扉の奥には、柔らかな光があった。
木の温もりが感じられる店内。
ランプの明かりに照らされたカウンターと、壁際の小さなテーブル。古びた酒瓶が並び、どこか懐かしい雰囲気を醸し出している。
「いらっしゃいませっ!」
明るく元気な声が響いた。
栗色の髪をツインテールにした少女が、タオルと湯気の立つティーカップを抱えて立っていた。
「大雨でしたね~! どうぞ、タオルです!」
「あ、ありがと……」
少し驚きつつ、タオルを受け取る。彼女の笑顔が、妙に心に沁みた。
奥のカウンターでは、ひときわ大柄な男が黙々とグラスを磨いている。
黒髪に濃い髭、鍛え抜かれた体つき、ぶっきらぼうな無骨さと、どこか懐の深さを感じさせる佇まい。
──この男が、店主なのだろう。
「空いてる席、勝手に使っていいぜ。腹、減ってんだろ?」
「えっ……ああ、はい、結構」
「ミア、今日の肉とスープ。それと“あれ”もだ」
「“あれ”って……もしかして、月の雫?」
「雨の日には、あれがいい」
「了解っ!」
出てきた料理は、想像のはるか上だった。
炙りフェンリルの香草焼き。
柔らかい赤身に、スモークとハーブの香りがたっぷりしみている。
添えられたキノコと豆のスープからは、ほんのりと魔力のぬくもりすら感じられた。
そして──“月の雫”。
琥珀色に透き通る酒が、陶器の杯に静かに注がれていた。
「……なにこれ、見たことない」
「うちでしか出してねぇ酒だ。俺の嫁さんが考えたレシピでな」
「奥さんの……?」
「ああ。旅の途中でいろんな酒を飲んでな。“いつか、自分たちの店を持とう”って決めたんだよ」
ロルフは照れ臭そうに鼻をかきながら笑った。
「けど、先にあっちへ行っちまった。だから俺は今、ここにいるってわけだ」
セラは杯をそっと口に運んだ。
柔らかな香りが鼻に抜け、まろやかでほのかに甘く、苦味の余韻が心地よい。
「……おいしい。なんだろ、すごく落ち着く」
「そう言ってもらえると、あいつも浮かばれる」
ロルフは小さく笑うと、グラスを磨き続けた。
「ところで、あんた。旅人か?」
「ええ……まあ、冒険者やってます」
「……顔に“悩みあり”って書いてあった」
「……やっぱ、バレます?」
セラは少しだけ、目を伏せた。
店の静かな空気が、かえって心の奥を揺さぶる。
「……あの、もし……よければ、もう少しここにいてもいいですか」
「構わねぇさ。“月夜の杯”は、そういう連中のためにある店だからな」