弐
一度蔵丘を去った十烏は、半月後、今回の仕事を任せる調査員を引き連れて戻って来た。とは言っても、相手はそれが本職ではなく普段は呪い師をやっている妖怪だ。名は社木念地。他の委託者とは違って十烏の店に登録しておらず、時折騙し打ちに近い形で仕事を押し付けている相手である。予定や能力を勘案した結果、十烏は彼こそが適任であると判断して連れて来たのだ。
人間よりは発達していても、並みの妖怪の足では蔵丘と三和は移動に骨が折れる程の距離がある。よって、途中に乗り物を利用しつつ宿泊も挟むこととなる。そうして最後の馬車を降り、水城神社まで徒歩で行く道中、十烏は漸く社木に依頼の詳細を語った。
「と、いう訳なんですよ」
概要だけは事前に話していたが、社木は拘りが強く仕事を選別する傾向がある為、断られることを恐れて十烏は全てを語らなかったのだ。更に言うなら、ほんの少し嘘も混ぜていた。当然、真実を知った社木は憤慨する。
「あのねえ、そういう話は連れ来る前に言ってくれなあい。って言うかさ、騙し打ちじゃないの、これ。温泉何処っ! この辺、何もないよねえっ!」
看板一つない景色を見て、社木は大袈裟に騒ぐ。普段のだらしない恰好とは違い、ほぼ田畑しかない長閑な風景には不釣り合いな整った洋装である為、言動の奇怪さが際立っていた。周囲に誰もいなくて良かった、と安堵すると共に十烏は満面の笑みを浮かべる。付き合いが長く寛容な社木なら、文句を言いつつもこれ位は許してくれるという安心感を抱いていたのだ。
「今頃気付いたんですか? 蔵丘に温泉なんてある訳ないでしょう」
「地元民しか知らない秘湯みたいなのがあるのかもって思ったんだよう、あんまりにも自信満々に言うからさあ。ひっど! 詐欺師だよ、ひっど! そんなんだから、神域から追放されるんだ!」
「それはお互い様でしょう。でも、温泉の無料招待券は本当に御用意したんですよ。自腹じゃなくて商店街でやってた籤引きで当たった奴ですけど。ほら、ね」
「見せて」
社木は十烏が袖から出した紙切れを即座に奪い取り、足を止めて凝視する。十烏も彼に合わせて立ち止まる。ややあって、社木は再び大声を上げた。
「ちょっとお、これ蔵丘のじゃないじゃあん! すっごい、遠くのじゃあん!」
「だから、蔵丘に温泉はないんですって」
「ひっどお……。まあ、でも何もないよりはましかあ。はいはい、了解しました。仕事はちゃんとしますう。でも、次は神が絡まない仕事を回してよ。十烏さん、そういうのばっかりこっちに押し付けて来るからさあ」
「分かってますって」
「本当に分かってるのかなあ……」
社木は頬を膨らませ涙目で十烏を睨んだ。しかしながら、被害者の苦情を加害者は物ともしない。十烏は小さな笑声だけで社木に答えて歩行を再開し、社木も渋々ながら彼に付いて行った。
やがて、既に彼等の視界にあった林が眼前まで近付いた。広さは正によくある神社の境内程度だ。周囲は家屋が数軒あるものの、殆どが田畑であるので少しばかり目立って見える。
「ほら、着きましたよ。ここが件の水城神社です」
漸く目的地まで辿り着き、安堵の笑みを浮かべて十烏は振り返ったが、社木の顔を見て固まる。相手の表情は思いの外険しかった。
「社木先生?」
「あのさあ……」
社木は深々と溜息を吐きながら頭を押さえた。
「まあ、良いや。取り敢えず吾輩はここで待ってるから、問題の絵馬を持って来て頂戴な」
「中に入らないんですか?」
「うん。気付かれるかも、だから」
その言葉を聞いて十烏は思わず息を呑んだ。しかし、間を置かず彼は口を開く。
「分かりました。行ってきます。一人の時に何事か起こったら、迷わず私を呼んで下さいね。飛んで戻ります」
十烏の顔からは既に笑みが消えている。逆に、社木は彼の様子を確認して僅かに口元を綻ばせた。
「君も気を付けてねえ」
社木は大袈裟に手を振り、林の奥へと入っていく十烏を見送った。
◇◇◇
拝殿近くには前回来た時と同様、泡方が立っていた。彼女は毎日神社に来ている訳ではないそうなのだが、今日は前もって訪問を予告する手紙を送っていたので、先に来て待っていてくれたのだろう。しかし待ち草臥れたのか、彼女は景色をぼんやりと眺めていた。
「泡方さん、お早う御座います」
十烏が声を張り上げて挨拶をすると、泡方はびくりと大きく身体を震わせた。然る後に、彼女は十烏の方へと振り向く。
「十烏さん! 何度もご足労頂いて申し訳御座いません」
「いえいえ、大丈夫ですよ。早速なんですが、例の絵馬をお借りしても宜しいですか? 調査を担当して下さる先生が見たいと仰って。後できちんとお返ししますので」
すると、泡方は怪訝な顔になる。
「構いませんが……あの、先生は?」
「まずは神社の周辺を調査されるそうです。済みませんね、ちょっと変わった方なので。でも、腕利きなんですよ。だから、心配しないで下さいね」
「承知しました。でも、ご挨拶はした方が宜しいですよね。其方へお伺いしたいのですが、お邪魔かしら?」
十烏は暫し小さく唸って考え、やがてこう返した。
「どうなんでしょう。ああ、でも私から伝えておきますよ。泡方さんは出来れば此方か、社務所にいて下さい。後でご報告致しますから」
「畏まりました。宜しくお願いします」
相変わらず不安気な様子を見せながら、泡方は深々と頭を下げた。
◇◇◇
問題の絵馬を受け取って水城神社の外まで戻って来た十烏は、待ち合わせ場所から社木の姿が消えているのに気付いて慌てる。社木は気紛れではあるものの、引き受けた仕事を何の断りもなく放棄して帰ったことは一度もない。故に、真っ先に事故や事件に巻き込まれた可能性が頭に浮かんだのだ。
十烏は時折社木の名を叫びながら周囲を探す。程なくして相手は見付かった。社木は鎮守の森の外縁からは離れていなかったが、元の場所とは境内を挟んだ真向いに位置する場所に立っていた。そして、鬱蒼と茂る木々の合間をじっと見詰めていた。
「ちょっと先生、探しましたよ。待っていてくれるんじゃなかったんですか?」
「うん、御免。飽きちゃって」
十烏の苦情に対し、社木は悪びれることなくそう返す。けれども、彼の顔に揶揄や喜楽の色は一切ない。十烏の方へと振り向き、その手に握られている絵馬を認めた社木は、素っ気ない態度で「それが例の?」と尋ねた。
「はい、犯人……と言って良いのかは分からないですけど、人魚の関係者が書いたと思わしき絵馬になります」
珍しく真面目な社木を見て、十烏も思わず身を引き締める。だが逆に、社木は苦笑して彼に注意を促した。
「そういった物をあんまり素手で触っちゃ駄目だよう。十烏さん程の妖怪なら、大した問題は起きないかもだけど」
「ああ、そうでした、そうでした。今、手拭いを出しますね」
懐を探る為に十烏の意識が絵馬から離れた瞬間、社木は彼の手からそれを奪い取った。高らかに絵馬を掲げる手には、既に白い手袋が装着されている。否、十烏が気に掛けていなかっただけで社木は初めから手袋を身に着けていたのだ。その手袋に違和感を持たせない為に、彼は今回着慣れない洋装を選んだのかもしれない。
「絵馬は貰うよ。くんくん、確かに妖気と念の残滓は感じますねえ。でも、これ『負』の念かなあ。否、負っぽくもあるけれども」
「え? ああ、成程。生への執着は負の念とは別物なのか」
失敗した、と十烏は頭を掻く。社木は憎悪や嫉妬等の「負の念」への対応を得意としている。「執着心」もまた負の側面に違いないと思い込んで、十烏は今回社木を招いた訳であるが、どうやら間違いだったらしい。
「まあ、場合にも依るんだけどね。絵馬絡みの件に関しては、まだそこまで深刻ではないのかも? 取り敢えず、一緒に神社の周辺を歩いてみましょ。十烏さんの意見も聞きたいしねえ」
十烏は首を傾げて「私の?」と呟いた。現時点では社木の考えを見抜けない。だが、何れ判明するだろう、と軽く考えて彼は返事をする。
「私でお役に立てるかは分かりませんが、必要と仰るなら御一緒させて頂きます」
それに対し社木は首肯で以って答え、絵馬を十烏に返した。その後に、彼等は揃って歩き出した。
周辺の様子を窺いながら進んだので、彼等の歩みはゆっくりとしたものであった。それでも四半刻までもは至らず、十烏達は神社の外周を一周半回って最初の位置に戻って来た。
古びた鳥居が視界に入った頃、十烏は疲労を滲ませつつもこう漏らした。
「思ったより狭いんですね。気付きませんでした」
「此処の神様の力が強くて、本来よりも大きく見えてしまっていたのかもしれないね」
「強いですか」
「妖怪出身にしてはね。流石に天津神程ではないけれども」
「ふむ……」
十烏は少し視線を落とす。社木の見解は彼とは異なっていた。この差異は一体何を表しているのか。
鳥居の前に戻って来た所で、社木は何故か露骨な作り笑顔となり、騒がしく手を叩いた。
「さて、一周だ。はい、大体分かりました!」
「何が分かったんですか?」
道化めかした言動には目を向けず、十烏は真摯に尋ねる。途端に社木は笑顔を歪ませた。嘲る様な、或いは責める様な表情であった。
「その絵馬を書いた妖怪ねえ、境内から出てないよ」
「え?」
「それ以前にこの神社には来てません。外では感じないんだよ、そいつの気配を」
「は?」
一瞬、十烏は目と口を開けて固まる。けれども、直ぐに彼は反論した。
「神社に入っていないのに、どうやって神社の中にある絵馬に文字を書いたんです? まさか郵送? 管理人の口振りだと、既に境内に納められていた物を偶然発見した様に取れましたが」
疑問を呈するも、十烏の態度には焦心が表れている。直感的に社木が真実を告げていると理解していたのだ。そんな彼の反応に社木は嘲弄を匂わせつつも面と向かって本心は言わず、質問に対する返事だけを行った。
「言い方が悪かったねえ。正確には『最近神社に出入りした者ではない』ってことだよ。境内に入ったのは、多分ずっと昔なんだと思うよお」
「否、でもこの絵馬はどう見ても最近作られた物ですよ。書かれた文字だって、はっきりしていますし」
「うんうん。だからねえ、外に出てないだろうねえ。大昔に中に入ってから一度も、一歩たりとも」
「え……?」
沈黙が落ちた。その空き時間を埋める様に冷たい風が吹き、木のさざめきが響く。
やがて、十烏は引き攣った声を吐いた。
「い、否、しかし――」
「因みに、『負の念を抱いていない状態で中に入り、内部でそれを発生させて以降、外に出ていない』とか『出入りした時には負の念を放出していなかったけれども、内部で一時的に放出させていた』といったこともないからね。この絵馬には負の念だけじゃなく妖気も染み付いてるから。そっち――否、地元民らしき別の妖気は感じるんだけども、全く同じものは外には残ってなかったんだよねえ。十烏さあん、気付かなかったあ?」
「言われてみれば……そう、かも……?」
社木の口調は挑発的なものであったが、十烏は意に介さない。社木の悪癖に慣れているのもあるが、相手を咎める余裕がない所為でもあった。
「うけけけけっ、敵の術中に嵌っちゃったかな? 十烏さん程の妖怪がこうなるなんて、随分と面倒なのに関わっちゃったねえ。君、もうこの件から手を引いた方が良いんじゃない?」
本人以上に社木は十烏をよく見ていた。恐らく社木が彼を探索に誘ったのも、境内のみならず彼の様子を観察する為でもあったのだろう。
「そう思われますか?」
十烏が聞き返すと、社木は幼子の様にはっきりと頷いた。
「うん。だって十烏さん、神社の外の妖気だけじゃなく、内部の状況も良く分かってないでしょ」
「境内の方の妖気は感じ取れていますよ。ただ、それは管理人のものかと」
「管理人さんは妖怪?」
「ええ、種族までは聞いてませんが」
「神気は?」
「其方は余り。皆無ではありませんけどね。でも、神職が常駐していないということなので、此方の神様は力が弱いか、既に去ってしまっているのかもしれませんね」
「ふうん、成程ねえ」
そこで社木の口は止まった。たった今発覚した問題にも言及せず、したり顔で腕を組み首を傾げる。十烏の方も黙り込む。そうして暫く静かな時間が続いた後に、社木が先んじて喋り出した。
「取り敢えずう、吾輩からは早期撤退を提案しておきますっ! 吾輩も、もう帰るよお。何かあ、疲れちゃった」
大きく背伸びをした後、社木は神社からも十烏からも背を向けて歩き出した。彼の奇行に慣れている十烏もこれには慌てる。
「ちょっと待って下さいよ、社木さん。中は調べてくれないんですか?」
「ええーっ、無理い。だって、この中――」
振り返った時の眼光、歪んだ口から発せられる声は低く冷たく、それでいて何処か嬉しげにも感じられて――。
「神すらも呪殺出来そうな程に、負の念が強いんだもの」
如何にも妖怪らしい社木の迫力に圧されて、十烏は思わず息を呑んだ。そんな彼を見てどう思ったのか、社木は直ぐに普段の不自然な位に軽い態度に戻る。
「鎮魂の為に造られた神社なんだっけ? その人魚、相当強い未練を残して死んだろうねえ」
笑声を漏らしながら、社木は再び歩き出した。