ワンパン
アリスがゆび指した壁の向こうは確か・・・・・・。
「もしかして、父さんの部屋?」
片頬を膨らませながらアリスが肯定する。
そのしぐさが妙に子供っぽくて、もう大学生になったはずなのに子供のころを思い出して、懐かしい気持ちになった。
「なんで父さんの部屋に俺の卒アルがあるんだよ」
「別に卒アルだけじゃない。私たちの思い出の物は全部パパたちの部屋にある」
「全部?」
「そう。小・中・高のアルバムとか遠足や修学旅行、運動会とかの行事物の写真、家族旅行の写真とか普段の日常の写真、私たちが書いた絵や作文、全部パパの部屋に移動させたの」
少し間をおいて「お兄ちゃんがこの家を出てく前からだよ」とアリスは付け足した。
アリスの表情が自然と暗くなっていた。
きっと母さんのことを思い出しているんだろう。
「寂しいか?」
そんな妹を見ていられず、俺は優しい声でアリスに言った。
「なにが?」
「思い出してたんだろ、母さんのこと」
「今さら、お兄ちゃん面しないで」
アリスの語気が少し強まる。
「お兄ちゃん面って、俺はお前のお兄ちゃんだろ」
「あの時は何もしてくれなかった‼」
バンッ‼ とダイニングテーブルを両手で叩く。
その音に怯み、俺は言葉に詰まってしまった。
「ママが急にいなくなって、私ずっと不安で寂しかった。お兄ちゃんに助けてって何度も言ったのに。何もしてくれなかったのはそっちじゃん‼」
大きな目に涙をためながらアリスが叫んだ。
涙は今にも零れてしまいそうで、そんな不安定さが俺の心も乱暴に揺さぶっていく。
あの時の俺は引きこもりで、ゲームとかアニメばっかで、現実を見て見ぬふりしてた馬鹿でクソな兄貴だ。
母さんが突然いなくなっても、俺は部屋を出ようとはしなかったんだから。
思い出して、心底自分に腹が立ってきた。
そして、俺は歯を食いしばり、その場で自分の顔面をおもいっきりグーパンした。
ドゴッと鈍い音が静かなリビングに響く。
これで許してもらおうとか、そんな甘いことは言わない。ただ自分がそうしたかった。自己満でもいい、アリスの代わりに俺が俺を殴りたかったんだ。
「ちょっと、なにしてるの!」
あたふたとするアリスの目にはもう涙は無くなっている。
俺の奇行によほどビックリしたのだろう。
「ごふぇんなぁ」
頬が腫れてうまく発音ができない。
「しゃべらないで、それに全然言えてないし。とりあえずこれ使って」
そう言ってアリスは、水で濡らしたタオルを台所から持ってきて俺に差し出した。
「あふぃふぁふぉう」
「だから喋んないで。急に自分殴るなんて意味わかんないし、キモいし、なんか感覚ズレてるし、自己満以外のナニモノでもないし、正直自分に酔ってるんじゃないかって思っちゃうよ」
「ふぁってふぉれ、言い過ぎ・・・・・・」
「わかったから、喋んなくていいって! ちゃんとタオルでおさえてて!」
「ふぁい」
頬を抑えている手に力を入れる。冷たいタオルをあてたことで、皮膚が麻痺して痛みが和らいできたような気がする。
アリスはというと、俺の奇行に対する処置は素早かったものの、別に心配しているような素振りはない。むしろ手渡されたタオルよりもはるかに冷たそうな眼差しでこっちを見てやがる。
俺の奇行はただの愚行に終わってしまったのだろうか……。
別に許してもらわなくてもいいとか、かっこいいことさっき言っちゃったけどさ、ちょっとは許してくれると思うじゃん?
なのに聞いた?
あの言われっぷり。やばない?
むしろ、お兄ちゃん私のために‼ ってちょっと泣いちゃったりするんじゃないの?
なんでそんな目で見てるんですか?
アリスさん。
「なに?」
じっと睨みつけていることに気付いて、アリスが抑揚を欠いた声で言った。
喋んなって言ったくせに「なに?」とか言うな! 喋らせる気満々じゃねぇか!
脳内で毒づきながら、アリスの言葉には答えず視線をリビングの方へと逸らした。
「言わなくたって、考えてることぐらいわかるんだけど。それと、そんなことしたって今さら許してあげるとかそんな虫のいい話ないからね。卒アル見つけたらさっさと帰って」
自分の考えが甘かったこと、その場の勢いで奇行に走ってしまったことを恥じながら、僕はアリスの言葉に軽く頷き、重い腰を上げた。
父さんの部屋に向かう直前、リビングを出た瞬間にアリスが小さな声で言った。
「でも、カレーだけは食べていってもいいよ」
「えっ!」
満面の笑みでぶんっと振り返ったが、アリスは既に台所で作業を始めていた。
急にデレてくるとは妹ながら恐るべし。しかし、ここで無駄話を続けるほど俺も野暮ではない。ここは大人しく否、大人らしく立ち去るとしよう。
アリスのカレーを楽しみに、俺は卒アルを求め父さんの部屋へと向かった。