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侯爵様と女中(メイド)  作者: えんとつ そーじ
本編 (完結済)
9/49

5. 女中の誕生日 後編




 エステルは独り、廊下を歩く。

 若干酒精アルコールが残っている気もするが、夜の冷たい空気を吸えば幾らかなくなるだろう。

 ランプの明かりを頼りに暗闇を進む。揺れるそれは、自分の心と重なった。

 自覚しているからこそ、自分のしなければならないことを指折り数えた。

「まずは、セシル様に会わなくちゃ……」

 そのためにはまず、避けるのをやめなくてはならない。……気まずさはまだ少し――いや、大分あるが、いつまでも逃げているわけにもいかないのだ。

 次に。

「会えたら、お礼、いわなくちゃ」

 用意してくれたケーキとぶどう酒は、とてもおいしかった。誕生日を気にかけてくれたことも、こそばゆく感じながらも嬉しかった。

 今年の誕生日は、幸せを感じることが、できた。

 ――気づけば、頬が緩んでいた。片頬を叩き、気を引きしめる。

(そう、だからお礼よ、お礼)

 いつものエステルなら思い立ったら即実行している。しかし今回は……。

(今日は、もう夜も遅いし……。明日にしよう)

 うん、明日。頷いて独言ひとりごつ

(別に、逃げてるわけじゃないわ。本当に今は深夜だし……礼儀だと思うのよ、うん)

 結果、自問自答の言い訳に情けなさと寂しさだけが残った。立ち止まり、溜息をこぼす。

「なにやってるのかしら、私」

 片頬を手で覆い、もう一度溜息をついた時。



 ガンッと鈍い音が廊下に響く。

「~~痛っ!」

 頭の中で火花が散った感覚と共に、額に痛みが走った。それは二日酔いの痛みとは違う物理的なものだ。

(な、なんなの!?)

 八つ当たり気味に、額をおさえて顔を上げれば――そこに栗色の髪の従僕が扉を閉めたところだった。

 エステルの存在に気づいた彼は、彼女へと身体を向けて心配するように小首を傾げる。

「大丈夫かい?」

 突然現れた青年に目を留め、エステルは首肯しながら眉宇を顰める。

「……パトリック様? ああ、はい。大丈夫です」

 どうやら彼が開けた扉にぶつかってしまったらしい。

 パトリックは苦く笑った。

「考え事しながら歩くのは危ないよ。気をつけた方がいい」

「はい」

 額に手をあてたまま頭を下げるが、ふと疑念を抱く。

 現在の時刻は、深夜を過ぎている。消灯時間はとうに過ぎていた。エステルはエリンの部屋にいたが、侯爵から差し入れがあったということは黙認されているのだろう。

 また、使用人の部屋は階で男女に分かれており、今彼女たちがいるのは女使用人の階だ。

 では、彼はなぜここにいるのか? 従僕であるとはいえ、深夜に彼がここにいる理由がない。

 不信感をおぼえた。

 そして、彼が放つほのかに香水の香りに気づく。……女物だった。

「パトリック様は見回りですか?」

 訝しげに問う。

「そう思う?」

 逆にパトリックに問われ返された。

(思うわけないじゃない)と反駁したいのは山々だったが、言ったら言ったで嫌な予感がする。答えに窮し、エステルは眉を顰めたまま口をひき結んだ。

 すると、パトリックはにやりと笑う。それが獲物を見つけた蛇のように見えて、背筋に悪寒が走る。

 触らぬ神に祟りなし、という言葉が脳裏に過ぎった。ゆえに、引き攣りそうになる顔の筋肉に意識を集中させて、当たり障りのない笑みで返すことにした。

「はい。お勤めご苦労様です。……それでは、よい夢を」

 話題の切り替えが急すぎる気もするが、さっさとこの場を立ち去りたいという本音を優先させる。

(規則がどうのとか、そんな野暮なこと言ってられないわ。とにかく、この男から逃げなくちゃ)

 会釈して青年の横を通り抜けようとする。

「……っ!?」

 刹那、手首を掴まれ、壁に追い込まれた。エステルの手にあったランプが、床に落ちる音がした。

「なんの、つもりですか?」

 エステルは低く声を放つ。

 男の力で壁に押さえつけられた両手は、びくともしない。怯える姿も慌てる素振りも見せてはいけないと……隙を見せてはいけないとわかっていたが、心がいうことをきかず、焦燥感に心中で舌打ちした。――しくじったと、思った。

(誰か――助けを、呼ばなくちゃ)

 絡み合う視線。

 エステルは冷や汗を流しながらもそらすことをしなかった。

「思ったより気が強いんだね。今まで猫かぶってたのか」

「……別に、猫かぶってたわけじゃありません」

 エステルはただ必要最低限、口を割らずに過ごしていただけだ。ボロがでてからでは遅いのだから。

 値踏みするように目を細めると、パトリックはくつくつと笑う。

「気にする事ないよ。オレはじゃじゃ馬も好きだから」

(じゃじゃ馬ってなによっ)

 心の中で思わず突っ込んだ。エステルの地を知っている人は皆いうが、この男にまでバレるとは――なんてことだ。それでも平静を装って素気なく返答した。

「別に気にしていませんし、パトリック様の好みがどうでも私には関係ありませんので」

 はなしてください。

 語尾を強めて見据える。

 手首を拘束する力が増したのを感じたエステルは、意を決して助けを呼ぼうとする。だが、青年が片手でエステルの両手首を拘束し、もう片方で口を塞いだことによって失敗した。

「んんっ!」

 息苦しさと危機感に、全身が震えあがる。

 冷や汗が、こめかみを伝った。

 必死に身を捩る。悲鳴は上げられなくても、なんらかの声は廊下に反響するだろうと叫んだ。

「ふんん! ん――っっ」

 叫び始めると、パトリックは脅すようにエステルの耳元で囁く。

「黙ってよ。それに、声を聞いたやつが助けてくれるとも限らない。恥ずかしい思いをするのは、あんたかもしれない」

 パトリックは口角をあげた。

 エステルは悔しさに眉尻を吊り上げ、彼を睨めつける。

(こんな男に辱めを受けるくらいなら、死んだほうがマシだわ)

 心のままに、渾身の力を振り絞って抵抗した。

 しかし、力の差によって逃れることはかなわず、エステルはパトリックに抱えられるようにして引きずられながら歩く羽目になる。

 視界から、思考が近い未来を予想する。それは、決して望ましいものではない。

(まさか、どこかの部屋に連れ込むつもり……?)

 そうなれば、エステルの声は誰にも届かない。

 肌で身の危険を察し、心拍数が上がるのがわかる。身体が小刻みに震え始めるのを自覚したが、簡単に負けを認めるつもりなどなかった。

 侮蔑するようにパトリックを冷淡に睨めつける。その表情がお気に召さなかったのだろう。

「随分余裕だな」

 パトリックは舌打ちすると、否応なしに力ずくで空き部屋へと歩を進めた。

 煽ってしまったと気づいたが、もう、遅い。

 エステルは内心で(余裕なんて……生憎、”よ”の字もないわよ! おかげ様でね!)と罵詈雑言を吐いていたが、おくびにも出さなかった。それが英断かは微妙だが、どうせ犯されるのなら矜持だけでも守りたい。

(これは、本気でやばいわ)

 こうなれば、もう余裕などない。

(どうしよう……誰か……)

 視線をさまよわせ、人の気配を必死に探す。

(――お願い、誰か)

 そこまで考え、ふと他人に頼る自分に気づいた。瞳が、揺れた。

(誰かって……誰?)

 誰かを求めることができない自分。都合がいい時だけ他人を頼るなんて――。そんな権利、あるのだろうか?

 直後、目の前が真っ暗になった。同時に震えが大きくなる。

 助けが来ないかもしれないと思えば、全身の力は抜けそうだった。震える足で立っていられるのは、良くも悪くもパトリックに押さえられているからだ。

 パトリックは、やっと無駄な抵抗はやめる気になったかと言わんばかりに、傲岸に笑った。そうしてエステルの首筋に顔を埋める。

「怯えなくていい。こんな時間に廊下歩いてるなんざ……どうせ男のところにいたんだろ?」

 エステルは瞠目する。その言葉が胸を貫き、癇にさわった。

 ふいに脳裏によみがえる、残像と言葉。――既視感。


 パトリックのものではない声が、聞こえた気がした。

 思い出すのは、冷徹な瞳。

 ――すべて、誤解だったのに。

 ――どうして信じてくれなかったのだろう?

(彼らにとって、私は、信頼に足る存在じゃなかった)

 ――誤解、だったのに。

 ――そんな事実は、なかったのに。


(……違うのに。私は……)

 恐れと怒りと悲しみで、ない交ぜになった感情。

 押さえつける力が強まり、現実に引き戻された。そうして、いいようにされる自分にも腹が立った。

(こんな、男に)

 涙が滲み出る。震える足で立っているのもやっとだけれど。

 乙女らしさなんてかなぐり捨てて、腹でも急所でも狙えるところは狙って蹴り飛ばしてやりたい。

 エステルは最後の力を振り絞り、靴の踵でパトリックのすねを蹴りつけた。


「っつ!」

 拘束する力が緩んだのをみてエステルが身を捩ると、パトリックから掠れた怒声が発せられた。

「この女っ! 優しくしてやれば図に乗りやがって!!」

「――やっ」

 怒りを露にしたパトリックが拳をあげる。

 エステルは受けるだろう衝撃に備えて目を瞑り、顔を背ける。

 が、いつまで経っても拳は振り下ろされなかった。


 恐る恐る目を開く、と。

 パトリックの振り上げられた手を、一人の青年が掴みあげていた。

「彼女を放してもらおうか?」

 暗闇の中の、絶対零度の声音。

 突然現れた人物を見て目を丸くしたのは、エステルだけではない。

 顔をあげたパトリックが息を呑んだのがわかった。

 そしてゆっくりとエステルは解放される。

「――セシル、様……」

 安堵に震えた声で呟き、支えを失ったエステルは床にへたりこむ。

 窓から射し込む月明かりで、セシルの淡い金髪は輝いている。それが神々しく見え、さらに、目を細めて従僕を威嚇する様が近寄りがたい、秘めた鋭さがあった。

「エルー、大丈夫か?」

 返事をする間もなく、セシルはエステルの目の前まで歩み寄る。片膝をついて屈むセシルを、エステルは何も言えずにただ見上げた。

 どうしようもなく、胸が高鳴った。

 セシルは言葉を発することができずにいるエステルの頭を優しく撫でると、パトリックへと静かに問う。そこに怒りが込められているのか、エステルには判じかねた。

「これは、どういうことだ?」

 自分の立場が危ういことに気づいたパトリックは溜息をつき、片手で頭を抱える。

「……廊下を歩いていたら、彼女に迫られたんです」

「へぇ、こんな夜中に?」

「眠れず風にあたろうと思ったんです。深夜にも拘らず廊下を歩いていたら、足音がして……不審に思って来てみたら、彼女がいて……」

 従僕は意味深にエステルを横目でみやった。その睫毛を伏せる姿は、まるで自分が被害者とでも言いたげだ。

「急に、迫られたんです」

 その言葉に、エステルは言葉を失う。思わず拳に力を込めた。

(なに、言ってるの……この男)

 なにか言い返さなければと、思った。それなのに、口が開かない。ガクガクと震える奥歯を、下唇を噛みしめることで抑え込んでいたらしく、血の味がした。

(言い返さなくちゃ。セシル様に、誤解される前に)

 そう思うのに、言えないのは……。

(――もし信じてくれなかったら?)と、心の片隅で自問しているから。

 この状況なら、女が不利になることはそうないだろう。それでも、もし――。

 気がつかない間に、エステルはセシルの袖を握りしめていた。

 エステルは視線を上げ、セシルの横顔を見つめる。

(信じたい)

 ――このひとを。そのための勇気が、ほしい。

 セシルはひっぱられる袖に気づき、顔はパトリックに向けたまま優しくエステルの手に己のものを被せた。

「では、訊き方を変えよう。……エルーの動きを封じて、口を塞いでいた理由はなんだ?」

 今度は詰問調だった。

 パトリックは苦虫を噛み潰したような顔を一瞬したが、表情を改める。

「……彼女が相手をしてくれなければ、オレに襲われたと悲鳴をあげると言い出しまして」

「そうか」

 そこまで聞くと、セシルはエステルへと振り向いた。

 翠の瞳が秘めているものは、鋭さから優しさへと変化していたけれど、向けられる言葉は侯爵としてのものだった。

「エルー、あなたの言い分を訊こう」

 その言葉に、エステルは唾を呑み込む。

(言わなくちゃ……早く、言わなくちゃ)

 そうしなければ、パトリックの言い分を認めることになる。

 わかっている。そんなこと、百も承知だ。なのに――。

 自分の不甲斐なさに俯いた。

 セシルの袖を握る手が、震える。エステルは一回り大きなそれで覆われていることに、今さら気づいた。

 ゆっくりと顔をあげる。視線の先には、セシルの翠の瞳があった。彼の目は、冷たさをはらんではいない。――それが、どんなにエステルの救いになっただろう。

 喉の奥が震え、鈍く痛い。けれど。

 パトリックを睨みつけながら、硬い声音で主張する。

「私は、迫ってません」

 これが、真実。

(……セシル様、あなたは――)

 信じてくださいますか?

 心の中で問うた。

 信じてもらえないことに、とても怯えていた。もちろん今も怖い。信じてもらえなければ、心が壊れるかもしれない。だけど、彼ならばと、思った。

 それは、彼女にとって最後の機会。

 数拍の沈黙中、空気が張りつめていた。


「わかった」

 やわらかい声が降ってくる。セシルの声だ。

 エステルが呆然と彼を見つめると、セシルは小さく笑む。それを見受け、エステルは心から言葉にならないなにかが溢れた気がした。

 他方、パトリックは反駁する。

「セシル様! 長年仕えてきたオレよりも、新人の小娘を信じるんですか!? その女だって、夜中に廊下を歩いていたんだ! 誰かと通じているに決まってる!」

 叫ぶ従僕を一瞥し、セシルは嘆息した。肩を竦める。

「信じる相手は私自身が決めることだ。君にとやかく言われることじゃない。……追って君の処分は通告する。それまでは部屋で謹慎しているといい」

 セシルが冷たく言い放てば、パトリックは壁を一度殴りつけて足早に去って行った。



 従僕が暗闇に姿がまぎれるまで、セシルは視線だけで射殺せそうな鋭い目つきで睨めつけていた。

 一方、エステルはしゃがみこんだまま涙を滂沱と流している。

 やがてセシルはエステルを見下ろすと、苦しげに眉を顰め、頬にふれて涙を拭う。ついで、親指の腹で滑らせるように唇をなぞった。

「……あの、セシル、様?」

 思わぬ行動に、エステルは動揺を隠せない。頬が紅潮する。侯爵の真意がわからないからなおさらだ。

 窺うように見つめるれば、セシルは囁くように答えた。

「……ごめん、遅くなって」

 不思議と、助けるのが遅くなったことを詫びているとわかった。

 エステルは首を横に振りたかったが、彼の手が頬を覆っていてできない。だから、精一杯笑みをつくる。

「いいえ。助けていただいただけで充分です」

「でも、涙が流れている」

 セシルの言葉が真実だろうが、エステルは否定した。この涙は、恐怖や悔しさゆえに流したものではないのだ。

「流していません。本当に、ありがとうございます」

「エルー、辛いなら、そういえばいい。涙がとまるまで傍にいるから。……唇から血も出ている」

 それは、パトリックに言い返せない自分に憤ったからだ。過去に怯え、本当のことを口にできない弱さを、嫌悪したから。

 心配そうに指でそっと拭うセシルの手を自分の両手で包み込み、エステルは目を閉じた。セシルが目を見開いて頬を染めたが、その場は薄暗いために彼女が知る事はない。

「エルー?」

 戸惑うような声がした。それに構わず、エステルは目を瞑ったまま口に緩やかな弧を描く。

(セシル様は、きっと気づいていない。私がどんなに救われたのか)

 ゆえに、祈るように優しく言葉を紡ぐ。どうか、感謝の気持ちが届いてほしい。

「辛くはありません。遅くもありません。私は――心を守っていただけましたから」

 ゆっくり目を開くと、セシルの訝る顔が紫の瞳に映った。エステルは笑みを深める。

「……私は、他人ひとを信じることができた。それは、相手があなただったからです。自分の弱さをいとう者にとって、それがどんなに難しいか、わかりますか?」

 ――自分が、大嫌いだった。

 婚約が白紙になった時。エステルの言い分を信じない元婚約者を憎んだし、両親も恨んだ。そして……彼らに負の感情を抱くことに疲れた時――今度は自分を嫌忌けんきした。それまで自分が築いてきた関係。その脆さの理由は、帰結したに過ぎない。

 だから、ずっと自分を嫌ったままここまできてしまった。信じる事で信じてもらえるという考え自体、浅はかで愚かなことだと、思っていた。けれど。

 エステルは、セシルを信ようと、決めた。

「セシル様は、私を信じてくださいました。それは、どうしてですか?」

 セシルは吟味するようにエステルの一言一言を噛みしめる。答えに戸惑いをみせたが……結局すぐにすっきりとした表情を見せた。エステルが望む、素直な気持ちを伝える事にしたのだ。

「エルーだからだ。あなたは男を誘惑するような女じゃないと、知っているから」

 瞬間、エステルは顔を歪ませて笑む。

 涙が、また零れる。

 過去から解放された気がした。

 セシルを握る両手に力をこめ、真っ直ぐ見つめる。翠の瞳に自分が映っていることを確認して、ふふ、と笑ってしまった。

「だから、感謝こそあれ、責める気持ちなど毛頭ありません」

 ようやく口元を緩めるセシルに、(キレイな人)と思う。それは、姿形だけではなく、心までも。

「よかった」と言って安堵する彼は、優しく微笑した。エステルは胸が高鳴りに気づいたけれど……もう、気持ちを否定することはやめた。

 彼は、やっと見つけた信じられる人。この気持ちさえあれば、失ったものを求める勇気が湧く。

(私は、このひとが、好きだわ)

 自覚するだけで、高揚感に包まれた。幸せだと、久々に実感した。

 そうして目を伏せる。

 ――でも、忘れてはいけないことが一つだけ。

(セシル様には、好きな女がいるから)

 この気持ちは秘めようと、思った。胸を締めつける痛みがしたが、彼が幸せならば、それでいい。

(セシル様の恋に、私が邪魔になるのなら……)

 誰にも悟られないようにしよう。そっと胸に秘めて。ただ、姿を見れるだけでいいから。どうか、笑っていてほしいと、思う。

 さりげなくセシルの手を解放する。

 侯爵はなにか言いたげな顔をしたけれど、エステルは何事もなかったようにもう一度笑って見せた。



「セシル様、エルー?」

 不意に女の声が廊下に響き、二人は声の方向に視線をやる。

 そこには、エステルと親しい食品室女中がいた。どうしてこんなところに二人でいるのか疑問に思っているのだろう。彼女は首を傾けている。

 なんとか立ち上がったエステルは、苦笑して彼女のもとへ小走りに駆けた。そしてセシルへと振り返り、一礼する。

「セシル様、ありがとうございました」

「エルー? 部屋まで送って行く。一人じゃ……」

「いいえ、彼女に送ってもらいます。もう夜も遅いですし、セシル様はどうかお休みになってください」

 なんとか笑みを保たせた。本当は、まだ心細さは残っている。それでも、これ以上彼の手を煩わせるのは嫌だった。

「エルー」

 セシルは納得がいっていない顔をしていたが、それには食品室女中が進言した。苦笑する彼女は事情をなんとなく察しているのだろう。

「ご安心くださいな、セシル様。あとはわたしにお任せください。酒臭い女が男性と一緒ではなにかと困り事もあるやもしれませんもの。ふふ、女のことは女であるわたしにお任せください」

 その言葉に、セシルは嘆息した。不服そうだったが、折れる気になったようだ。

 金の髪を掻きあげると、頷いた。

「わかった。よろしく頼む」

 エステルは、踵を返した侯爵を見送る。


 やがて彼が見えなくなった頃、食品室女中を上目で見た。

「あら、なんです?」

 エステルの物言いたげな目に気づいた彼女は問う。

 エステルは眉間に皺を寄せた。

「……私、そんなにお酒臭いですか?」

「ええ、とても」

 単刀直入な言い方に、エステルは項垂れた。恋を自覚したのに、自分の乙女要素は失われつつある。なんてことだ。

「そうですか……」

 泣く泣くぼやくと、笑い声が隣から聞こえた。恨めしげに睨み、頬を膨らませる。

 食品室女中はその膨らんだ頬を指で押した。

「ごめんなさい、つい。さ、部屋まで送っていくわ」

 促した彼女に、エステルは目を瞬く。

「え、いえ、大丈夫です。一人で行けますからっ」

 あの時は、セシルを安心させるために言っただけだったのだ。食品室女中の手を煩わせるつもりなどなかった。

 必死に首を横にふり、手を左右にふるが問答無用で背中を押される。

「セシル様にお任せされたことよ。引き下がるわけにはいかないわ」

「うぅ」

(明日、彼女も朝早いのに……仕事を増やしてごめんなさい)

 エステルは心の中で平謝りした。




***   ***   ***




 食品室女中と他愛もない話をしながら部屋へ向かえば、目的地はあっという間だった。

 エステルは扉前で丁寧に一礼する。

「ありがとうございました」

「どういたしまして。それではわたしはこれで失礼するわ」

 大人の笑みを浮かべて踵を返す姿を見守り、エステルが扉を開くと――食品室女中は「あ、そうだったわ」と歩をとめた。

 声に反応しエステルが振り向くと、上体だけ振り向いた食品室女中は意味ありげに含み笑いを浮かべる。

「どうかしましたか?」

「ふふ、確かにお届けしました」

「……はぁ? 送ってくださってありが……」

「そのお礼はもういただいたわ。そうではなくて――そうね、早く部屋へ入るといいわ。きっと意味がわかるから。じゃあ、おやすみなさい」

 それだけ言い残し、食品室女中は去って行った。

 エステルは疑問符を浮かべつつ、部屋へ入る。

 言葉の意味を考えながら、寝台に腰を下ろした。

 エステルの重みで寝台が沈むと、なにかがしな垂れかかってきた。

(なに?)

 片眉をあげて自分に倒れかかる違和感へと目を向けると――。

「クマ? なんで私の部屋にクマ??」

 正しくはクマのぬいぐるみである。

(私、買ったおぼえも借りたおぼえも寝台に置いたおぼえもないわ)

 眉根を寄せる。まさか、こやつが自力で歩いてきたわけではない……だろう。

 ふいに食品室女中の言葉を思い出した。

『確かにお届けしました』

(…ということは、彼女が誰かに頼まれたってことかしら?)

 エステルは胡乱げにクマを見下ろす。…とにかく謎なクマだ。

 両手で持ち上げて目線をあわせる。拍子に、なにかが落ちてきた。紙の切れ端だった。

「なにかしら?」

 紙くずにしては大きすぎるそれに文字が綴られていることに気づき、読んでみると『誕生日おめでとう』とだけあった。名前は書かれていなかった。しかし、エステルは驚きを表す。

「これ……セシル様から?」

 嬉しさに口元を手で覆い、もう一度文字を確認する。――間違いなく彼の字だった。

 心が喜びで揺れた気がした。

 クマを再度目線まで持ち上げて観察してみる。翠の目と金の毛がとてもセシルに似ていると思う。つい口元が綻んでしまった。

「ありがとうございます、セシル様」

 クマを抱きしめて寝転ぶ。

(大切にしよう)

 このクマも、気持ちも。今度は失わないように。

 寝台に身体を任せると、倦怠感が襲ってくる。

 なにか忘れている気がするけれど――今夜はこのまま眠ってしまおう。そう決めて、エステルは目を閉じた。




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