5. 女中の誕生日 中編
エステルは憂鬱な気分のまま、部屋の扉を開けた。
室内は、窓から月光が射し込んでほのかに明るい。
手に持っていたランプの火を消し、月明かりを頼りに寝台へ倒れこんだ。
身体は仕事で疲れていたが、眠たくはなかった。
布団を握り、顔を埋める。
一年前の今日のことが、どうしても忘れられずに心を揺さぶる。傷口に塩を塗りこむような痛みに、心が恋することを拒む。
キング侯爵邸へ来てから、セシルの色々な顔を知った。それまで、噂の中の――元婚約者の話に登場するだけの存在だったのだ。だが、こうして傍で仕えるようになって……。
――誰かを想って、切なく、けれど優しい色をした瞳。
――一途な心。
彼の傍にいると、心地よかった。彼のことを知るたびに、不思議と心が弾んだ。
その感情が何か知れば、きっと後戻りできないだろう。
ならば、エステルは知ることを望まない。
(……もう、痛いのは、嫌)
涙腺から溢れてくるものが、布団に染み込んでいった。
その時。
「エルー、扉、開けっぱなしですわよ。ふふ、でも丁度よかったわ。お疲れのところ悪いのですけれど、わたくしの部屋へ来てくださらない?」
ゆっくりと顔をあげ、エステルは声の方へと顔を向けた。
微笑むエリンを見受け、緩慢に身体を起こす。
潤んだ瞳を隠すように、笑みを返すことでそれに答えた。
――独りで過ごしたくなかった。
だから、疲れていたけれど、エステルはエリンの部屋へと訪われた。
*** *** ***
誕生会は、二人だけで行われた。
エリンは、花の砂糖漬けが散りばめられ、季節の果実がクリームからのぞくケーキを切り分ける。
二人にしては量が多いため、残りは明日、他の使用人たちと分けることになるだろう。
グラスにぶどう酒を注ぐ。紫色の液体は、エステルの瞳の色より赤みをおびていた。
その間エステルは椅子に座ってじっとそれを眺めていたが、同僚一人に任せるのは心苦しく感じた。
「あの、なにか手伝うことはありませんか?」
上目で見つめてみたけれど、エリンはエステルと自分を交互に指差しながら、口を尖らせただけだ。
「よろしいかしら? この部屋の主はわたくし、あなたはお客様。今日の主役はあなた、持て成すのはわたくし」
つまり、手伝わせるつもりはありませんわ。
そう言ってエリンはフォークを差し出すと、エステルははにかんで笑い、「ありがとうございます」と頭をさげた。
「いただきます」
個々に手をあわせたはずなのに、思いがけず声が揃ったために笑ってしまった。
エステルは早速、クリームがたっぷりのったケーキを口に含む。スポンジとクリームはすぐに舌の上で溶けた。
落ちそうになる頬に手を添えて、満面の笑みを浮かべる。
他方、エリンはぶどう酒を口にしていた。
グラスに唇をつけながらエステルの反応を眺め、相好を崩す。
「喜んでくれました?」
視線に気づき、エステルは頷いた。
「はい。とてもおいしくて……エリンさんの気持ちが嬉しいです」
すると、エリンは口の端をあげた。
「ケーキとぶどう酒は侯爵様からですわ。――そのお礼は直接あの方におっしゃいな」
直後、エステルは口の中のかすを喉につまらせた。こほんこほんっ、と何度も咳き込む。……考えてみれば、女中であるエリンが豪華な菓子と高級なぶどう酒を用意できるはずがないのだ。
侯爵に会うのは少し気まずいが、返事をしないわけにはいかず、目線を床にむけて頷く。
(……視線を感じるわ)
エステルは冷や汗を流した。エリンはなにか言いたい事があるのだろう。だが、エステルに答えられることはなにもない。
そうしてじっと床を見つめていたが、ただそうしているのも次第に辛くなり、誤魔化すようにぶどう酒の入ったグラスを手にとった。
「こっちもおいしそうですね!」
早口で言い、一気に体内へ流し込む。
「あら、エルー、思っているより酒精が強くてよ」
手を空に浮かせ、とめようとしたエリンだが、遅かった。
「あは、は。……喉が、熱いです」
苦しさと熱さと自分の愚かさに涙目になった。過ぎた無茶は、動揺していると主張するも同じだ。
自分の馬鹿さ加減に遠い目をしながら辟易していると、エリンは苦笑する。
「……いいわ、なにも訊かないであげます。安心なさいな」
受けた言葉に、エステルは胸を撫で下ろす。そんな同僚を見受け、エリンは頬杖をつきながら意味深に微笑んだ。
「なんですか?」
エステルが首を捻ると、表情を緩めてエリンは吐露し始める。――それは、彼女の本当の気持ちだった。
「……本当に、あなたが来てよかったと、思いましたのよ」
ふふ、と笑う彼女は、同性から見ても充分な魅力を放つ。”私”な時間の彼女は、長い褐色の髪を背に流している。その一房を指に絡ませ、エステルを下から窺い見た。
「わたくし、あなたはどこかの令嬢だと思っていますの」
エリンの言葉に、エステルは息を呑む。
「あの……」
酒精でまわらない頭で、なんとか言い訳を模索した。
しかし、エリンは答えを望んではいなかった。
「答えなくていいですわ。勝手に予想していますから。貧乏な貴族の姫君は内職をしているらしいですし、没落して、働きにでる方もいると聞きますもの」
(つまり、貧乏か没落した貴族、と思われてるのね……)
エステルは複雑な気持ちになった。確かに、実家は決して金持ちとはいえず、豪華な生活をした記憶は残念ながら、ない。お高くとまって見られるよりはマシな気がするけれど……貧しく見られることも、また悲しい。
項垂れると、エリンの笑い声が降ってきた。
「バレてないと思ってたのね。バレバレですわよ。手は荒れていないし、身のこなしもそれなりの教育を受けたものですもの」
そうして、彼女は「でもね」と続ける。
「だからこそ、よかったと、思いましたの」
片眉をあげながら顔をあげると、睫毛を伏せて笑む彼女がいた。泣いているように見えたが、エステルの気のせいだろう。
「エルーなら、もしセシル様とお付き合いしても、身分的に困らないでしょう? だから、ドロシー様と一緒に応援しているの」
紅唇から紡がれた言葉に、エステルは目を丸くする。
彼女が侯爵を密かに想っていることは、なんとなく気がついていた。だからこそ、今も切なそうに目を細めているのだろう。――それなのに、どうして彼女は好きな男と自分以外の女との恋を応援できるというのか。
「エリンさん、どうして?」
好きな男が新しい恋をできるようお膳立てまでする、彼女の気持ちがわからなかった。
エステルの怪訝な顔に気づいたのか、エリンは目を瞑る。そっと溜息をついたのが気配でわかった。
「わたくしをあの方が望むのなら、こんなことしませんわ。……でも、わたくしでは駄目だったんですもの、仕方がないですわ」
「まだ、わからないじゃないですか」
ずっと侯爵の傍で支えていれば、いつか機会があるかもしれない。エステルが可能性を示唆すれば、エリンは首を横にふった。
「いいえ、わかります」
エリンはエステルの頬をつねる。彼女の真摯な瞳が潤んでいる事に気づくと、目がはなせなくなった。
「わたくしは、セシル様の恋を断たせることができませんでした。でも……恋を応援することも、できませんでした。片思いに苦しんでいる姿を目にしていながら。……わたくし、嫌な人間なのです。知らない誰かにあの方を持っていかれるくらいなら、わたくしが認めた女と結ばれてほしいと、思っているんですから」
あまりに痛々しい言葉。
エステルは言葉を失った。こんな時、なんて返せばいいのだろう。
(エリンさんができなかったことを、私にできるはずない)
純粋に侯爵を想っている彼女。それに比べ、自分は心のしこりを取り除くために――自分のためだけに、ここに来たのだ。確かに今、この侯爵邸に居心地の良さを感じる。セシルの傍で、影ながらほんのわずかにでも支えていられたらと、願っている。――けれど。
すべてを話すことは躊躇われたが、自分の浅ましさを伝えようと、思った。そうしたら、きっと彼女はそんなことが言えなくなる。
「私は――」
エステルが言葉を紡ぎ始めると、エリンは言葉を遮るようにエステルの頬から手をはなす。ついで、今度は両手で彼女の手をとった。
「セシル様となにがあったのか訊きませんわ。でも、あの方のもとから離れていかないで――」
懇願だと、気づいた。あまりに必死な、声音。
……それでも、エステルは頷けない。
(なにか、答えなくちゃ……)
意識すらも朦朧とする中、取り繕える言葉を必死にさがす。
しかし――口から紡がれたのは、自分が選ぼうとしていた言葉とは、違った。
「……セシル様には、好きな方がいるもの」
どうして自分は、そんなことを気にしているのだろうか。自分で自分がわからない。今答えるべきは、――セシルに好きな女がいようがいまいが――ただ首を横にふり、「セシル様に恋愛感情を抱いていません」と言うものなのだ。それにも拘らず、口から出たのは……。
胸が、痛かった。痛くて痛くてたまらなかった。
その疼きを悟られたくなくて、俯く。
「エルー……?」
エステルの様子に違和感を感じ、エリンが声をかける。が、返事はない。
エリンは、握る手が僅かに震えていることに気づいた。
「エルー? どうかしましたの?」
エステルは掠れた声をこぼした。
「……もう、嫌なの」
あまりに小さな声に、エリンは首を傾ける。
「エルー」
「もう、痛いのは、嫌なの」
心の欠片を一度口にしてしまえば、エステルの目から涙が幾筋も流れた。泣こうと思ったわけではない。それなのに、とまらない。とめどなく溢れる雫に、エステルはなす術もなかった。
一度本音を漏らせば、悲鳴を噛み殺していた心は堰を切ったように痛みを叫び始める。
「信頼していた人に裏切られるのも、大切な人に信じてもらえないのも、怖いの」
自分をとめられないのは、酒のせいだろうか?
もしかしたら、乗り越えたと思っていたものは、今まで心の底に沈めていただけなのかもしれない。
涙は枯れたと、思っていた。引き裂かれた傷口は、瘡蓋で覆われたと思っていた。けれど、まだ血が流れ出る。いつになったら、この血はとまるのだろう。いつに、なったら――。
「痛い」
「……エルー? どこが痛いの?」
肩を震わせて卓にうつ伏せるエステルに、エリンが問うが、彼女は患部を答えなかった。――正確には、答えられなかった。
どこが、痛いのか、それすらもわからない。それでも。
「痛くて痛くて仕方がないのっ。呼吸が、出来ないくらい苦しいの――」
涙で濡れそぼった面を上げる。
エリンは正確に痛みの場所を察し、顔を歪めた。
「なにが、あったのです?」
心配され、尋ねられれば、エステルの目からまた涙が零れた。エステルの頬を伝った雫は、卓にたくさん染みをつくる。
「信じて、たの。私を信じてくれるって、思ってたの。だけど……彼が信じたのは、私じゃなかったっ。みっともないってわかってたけど、縋ったわ。矜持も見栄もかなぐり捨てた! それでも――」
(彼は、私の言葉を信じてくれなかった)
――苦しい。
心がまたヒビを一筋つくった気が、した。
助けてほしかった。誰でもいいから、信じてほしかった。誰かに求めることが怖くなったのに、救ってほしいと、願った。
何度もしゃくりあげるエステルを、エリンは席を立ち、何も言わずに抱きしめる。
もう、侯爵と恋してほしいとは、いえなかった。
それでも、どうか――とエリンは思う。
(セシル様の心を射止めるのがエルーで……エルーの心を癒すのがセシル様だったら)
そう思わずにはいられない。自己中心的な考えだと、彼女はわかっていた。
初めて目にしたエルーの本当の気持ち。あまりにも痛々しすぎて、直視するのも辛かった。でも。
(痛みを知っているから、分かり合えて……癒すことも、できると思うの――)
大切な二人には幸せになってほしいと、エリンは神に祈った。
――その後しばらく、エステルは目の上に濡れ布巾をのせて横になっていた。
(なんだか、いらないことをいっぱい言った気がする)
酔いが醒めてくると、意識がはっきりしてきた。かわりに、混濁していた時の記憶をわずかに残し、他の一切を忘れた。その善し悪しは微妙ではあるが。
ぶどう酒の一気飲みはまずかったと、エステル本人が自覚している。
とりあえず、反省もこめて眉を寄せて瞑目した。勢いあまって眠ってしまいそうだが、そこはなんとか堪える。
(目が腫れてるってことは……泣いたのは確かだわ)
じゃあ、泣いた理由は?
嫌な予感がした。浮かんだのは二つ。
(婚約破棄か……セシル様に口づけされたことよね)
不意にセシルのことを思い出し、顔が紅潮した。
両手で顔を覆った。原因不明の頭痛がする。
「うう……」
考えることが面倒になり、思考をとめる。
(もう、寝よう)
そう決めると、布巾をはずして起き上がる。
「もう大丈夫ですの?」
心配そうに首を傾げるエリンに、エステルは苦笑を返す。――彼女になにを言ったか訊けばいい話だが、それすらも怖い。
(わ、忘れよう……。そう、今年はおいしいケーキをたくさんたべた、楽しい誕生日だった!)
世の中、知らない方が幸せなことはある。
そう自己暗示をかけようと努力することにした。
そうして、おもむろに立ち上がる。
「じゃあ、私、部屋に帰りますね」
「一人じゃ危ないですわよ?」
「いえ、もう大分酔いも醒めましたし、大丈夫です」
扉の前まで歩むと、エリンに向き直り一礼した。……今年は本当に、嬉しい誕生日になったのだ。
「今日は、ありがとうございました。それでは――いい夢を」
最後に心からの笑みを浮かべて、踵を返した。
エステルがいなくなった部屋で、エリンは目を瞬く。
同僚の眩しいほどの笑顔を見たのは、これが初めてだった。
嬉しさと花が綻ぶようなかわいらしさに、思わず頬が緩む。まるで、クマを抱いたセシルを見た時と同じ気持ちだった。
小さな声で囁く。
(確かに持て成しをしたのはわたくしですけど……)
「ねぇ、知らないでしょう、エルー? あなたの誕生日を教えてくれたのも、誕生会の主催者も、セシル様だってこと」
侯爵様も、不器用な方ね。
手のかかる主に、困ったように笑ってしまった。