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侯爵様と女中(メイド)  作者: えんとつ そーじ
本編 (完結済)
7/49

5. 女中の誕生日 前編

 久しぶりに見る侯爵は、少し憂いを帯びていた。



 セシルの友人が来訪した日以来、エステルはセシルに極力会わないよう努めた。女中メイドであるため限界はあるが、それでも朝の当番は、別の過酷な労働と交代してもらうことでやり過ごす。

 そうして気がつけば、七日あまりが経っていた。

 向かいから侯爵が歩いてくるのが見え、廊下の掃除をしていたエステルは、急いで曲がり角へと身を潜める。

 ほうきを握りしめ、主を覗き見た。

 ――幸い、彼がエステルに気づくことはなかった。

 だからこそ、見つめていることができた。

 セシルの白皙の美貌は、伏せられた睫毛が影をつくることでいっそう引立っていた。……あまり眠れていないのだろうか。顔色が少し青白いようにも感じる。

 そんな彼のわずかな変化すら気づくようになったことを、エステルは自分を拒むように首をふって視線をそらした。

 あの日から、セシルの存在がエステルの心を占める。必死にその考えを追い払おうとしても、叶う事はなかった。

 箒を握る手に力をこめる。

 心から溢れるなにかの正体に、気づいてはいけない。絶えず警鐘が頭の中で鳴り響いている。けれど。

 エステルは顔に苦渋の色を浮かべた。奥歯に力をこめて、揺れる心を叱咤する。

(――これは、恋なんかじゃない)

 強く、強く自分に言い聞かせるように。

 認めることが、怖かった。轍を踏むのは、もう嫌だった。

 婚約が破棄されたのは、昨年の彼女の誕生日。連絡もなしに男爵邸に現れた元婚約者は、エステルを侮蔑するように見つめて、言ったのだ。

『婚約を破棄させてもらう』

 聞いた事のない、冷たい声音。

 目の前で破られた、二人の署名が入った誓約書。

 思い出したくは、ないのに。このところ、脳裏を過ぎるのはなぜだろう。

 セシルへの気持ちを理由にしたくなくて、他の理由を必死にさがした。

 そして、ふと気づく。

(そっか……。今日は私の誕生日だったわ)

 不慣れな事が多く、時間の感覚が狂っていたためにすっかり忘れていた。

 いつになく感傷的な自分に自嘲する。

 ――今年の誕生日にまで、たくさんのものを失いたくないと、心が密かに叫んだ。

 不思議と涙が溢れ、嗚咽が漏れそうになった。それを制そうと、片手で口元をおさえる。

 大切な人に、信じてもらえない恐怖。心を凍てつかせることで、耐える事ができたけれど。

 次は耐えられる自信がなかった。

 粉々になるくらい、壊れそうになった心。時が経ったとはいえ、再生することはない。一度ヒビが入ってしまえば、次で割れることは必然だった。

(……やっと、前を向くことができたと思ったのに)

 なにかに怯えるように手が震えると、口を覆う指が唇に触れた。

 拍子に、セシルに口づけされたことを、鮮明に思い出す。

 再度、心が戦慄いた。

(違う――私は恋なんて、しない)

 彼には好きな女がいるのだ。恋をするだけ不毛というものである。

 それなのに。

「どうしたら、いいの……」

 小さな悲鳴は、空気に溶けて消えた。




***   ***   ***




「……エルーは、元気か?」

 書類に視線を落としたまま、セシルは尋ねた。

 現在、侯爵の執務室にいるのは、部屋の主と呼び出された女中のエリンだけだ。

 エリンは平然とした顔で「元気ですが、なにか?」と答えた。

 探るような目で見つめられ、セシルは眉根を寄せる。後ろめたく感じ、エリンの顔が見られなかった。

「いや、元気ならいい。……最近、顔を見ないから訊いてみただけだ。気にしないでくれ」

 言葉は素っ気ないものの、エリンには躊躇している様が見て取れた。

 そして、なにか他に用があるのだろうと、当たりを付ける。

 ついで、口に弧を描いた。エリンは――なにやら愉しい予感がした。これは女中経験の為せる業。

 けれど、使用人であるエリンから侯爵に訊くことは出来ない。ここはなんとしても侯爵自ら尻尾を出してもらわなければならなかった。

 ゆえに、用は終わったとばかりに、わざと退出の礼をとる。

「では、わたくしは仕事に戻らせていただきます」

「っ、ちょっと待ってくれ!」

 途端、慌てて書類から顔を上げたセシルは、エリンの顔を見て(しまった!)と悟った。しかし、それも後の祭りだ。

 エリンは素知らぬ顔で微笑んで、首を傾げて見せた。

「はい、なんでございますか? 侯爵様」

 立場では侯爵が邸の主である筈なのに、今は明らかにエリンが上から目線である。

 威圧を感じたセシルは観念し、嘆息した。だが、これだけは言っておきたい。

「……その黒い笑い、やめてくれないか」

「あら、地顔ですわ。治せとおっしゃられても治せません」

 いやらしい笑みを浮かべたまま肩を竦めた女中に、侯爵はもう一度溜息を漏らした。

「……本題に入らせてもらう」

 そこで、セシルは一度咳をする。

 そんなに言いづらいことなのだろうか?、とエリンが疑問に思うと、決心したように主は口を開いた。

「今日は、エルーの誕生日なんだ。ケーキとぶどう酒も用意した」

「はぁ? そうなんですか」

「それで。君に彼女を祝ってもらいたいんだ。……仕事あがり、時間をつくってくれないか?」

「…………」

 エリンは口を噤んだ。

(なにをおっしゃっているのかしら、セシル様)

 誕生日を祝うのは理解できる。使用人の誕生日には、彼は必ずケーキを用意し、日頃の感謝を述べてくれる。その優しさは尊敬に値するとも思っている。だがしかし。

「セシル様がお祝いするのではなくて、わたくし、ですか?」

 やっと見つけたお気に入り、ではないのだろうか。だからわざわざ自分を呼び出し、彼女の好むものについて探ろうとしていると思っていたけれど。……どうやら違うらしい。

「わたくしが誕生日の時も、他の皆の時も、セシル様が一緒に祝ってくださいましたわ。今度もそうすればいいのではありませんか」

 口添えすれば、セシルは目を泳がせた。

(なにか隠してますわね)

 エリンは直感した。問いただしたいのをなんとか我慢し、返答を待つ。

 すると、セシルは目を伏せて、首をゆっくり横にふった。

「……いや、私は遠慮しておく」

 エリンは眉を寄せて口を開いたが、空気が「なぜですか?」とは訊かせてくれなかった。

(やっぱり贈り物を用意してないのかしら?)

 エリンは不思議でしょうがない。どこからどう見ても、侯爵は彼女のことを気に入っているようだった。しかも、ケーキやぶどう酒を用意したのだ。点数を稼ぐにはいい機会だと思う。

「あの……よろしければ、エルーの好きなものを本人にそれとなく訊いてみますが」

 けれど、侯爵は苦笑した。

「いや……彼女はかわいい物が好きだった筈だ」

「……そうなんですか。じゃあ、レースのハンカチとか、喜ぶかもしれませんね」

 遠まわしに助言を試みると、セシルは急に立ち上がり、執務机の抽斗ひきだしを開けた。

 不審に思い、エリンは彼の行動を目で追う。

 ――そこから出てきたものを見て、目を瞬いた。

「……クマ、ですか?」

「ああ、クマだ」

 真剣な顔をして、クマ――のぬいぐるみを抱くセシルは、どうしようもなく可愛らしく見えた。母性がくすぐられる。

(この組み合わせは……萌え、ですわ)

 独り腕を組んで頷いていると、セシルはクマのぬいぐるみと向かい合った。

「エルーはかわいい物の中でも、ぬいぐるみが好きだと報告を受けた」

「…………はぁ?」

 心内では、(どこからの報告ですの)と突っ込んだが、言葉に出すのはやめた。答えがどうあっても怖い気がしたのだ。

 そうしてよく見れば、そのクマはセシルによく似ていた。

「淡い金の毛並みと翠の目ですのね。ふふ、セシル様によく似ておいでですわ」

 笑うと、セシルは頬を淡く染め、鼻に皺を寄せる。

「別に似せようと思ったわけじゃない。目に彼女の誕生石を使いたかったから、特注したら……作り手が勝手に毛色を金にしただけだ」

 私が頼んだんじゃない。

 少しむくれてそう続けた主の姿に、エリンは切なく目を細める。それは、エリンに初めて見せた、偽りのない表情だった。――侯爵が二年越しの恋に終止符を打つのなら、きっかけは彼女だろうと、思った。

(わたくしにはできなかったけど、あの娘なら……)

 ――心から、声援を送ろう。

 だから、それ以上訊かずに頷いた。

「かしこまりました。わたくしの部屋で誕生会をしますわ。でもそのクマは、わたくしからは渡しません。――では、失礼いたしました」

 最後に姉のように優しく笑いかけ、エリンは扉の向こうに消えていった。




 エリンの後姿を見送ると、セシルはクマを執務机に置いた。

 片手で額を覆う。

 目を瞑ると、長い溜息をついた。

 ――セシルは当時酔っていたが、エルーに無理やり口づけをした記憶は残っていた。吐いた言葉も、恐らく一言一句違わぬことなく覚えている。

 気がつけば、親指の腹で唇に触れていた。

 記憶と一緒に、感触が蘇る。

 ――彼女の見開かれた目。その紫の瞳には、自分だけが映っていた。

『どう、して……』

 呆然と呟いた彼女は、なにを想っていただろう。

 そして――あの時、自分が望んでいたことは……。

 苛立たしげに前髪を掻き上げた。

 目を開ければ、現実が脳裏を過ぎる。

「エルーは元気、か」

 つまり、故意に避けられていると断定されたも同じだ。――会えなければ、弁解することもできない。

 やりきれない想いでクマを見下ろすと、翠の目と視線がぶつかった。

「……お前をどう渡そうか?」

 弱々しく笑う。

 本当は直接渡したかったが、自業自得だ。許してもらえない限り、会いに行くことも呼び出すこともできない。

 ――いや、それ以前に。

(彼女は、怒っているだろうか?)

 不安になった。怒っているのならいい。けれど、もし嫌っていたら?

 感情さえ向けてくれるのなら、どんなに罵られてもよかった。だが、嫌悪する対象になれば、関係の修復は難しい。

 ふと――それでも、と思う。

(無関心でいられるよりも、いいのかもな)

 それまで浮かべていた笑みは、暗く、儚いものに変化する。

(なにもないより、感情を向けてくれるだけいいのかもしれない)

 それが、たとえ負の感情だったとしても。

 あまりにも暗い思考に、自分で嗤ってしまった。それが本音だからこそ、余計に。

 黒い感情を誤魔化すために、窓を開ける。

 春の風が淡い金の髪をなびかせた。柔らかい陽射しを受け、深呼吸する。すると、少し心が軽くなった気がした。

 もう一度執務机に歩みると、クマを一撫でする。ついで、紙の切れ端に誕生を祝福する言葉を記す。――名前は、書かなかった。

 クマに紙を添えれば、まるで自分の心情を表すように、翠の目が寂しそうに見えた。だから、優しく目を細め、語りかける。

「お前だけは彼女に届けるから、安心しろ」

 他にはなにも届かなくていいと、思った。彼女が贈り主を知る必要は、ない。ただ――彼女の誕生を喜ぶ者がいることを……そして、彼女が笑ってくれればいいと、願った。

 そうして、エルーと親しい食品室女中を呼んだ。




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