4. 侯爵様のご友人、来訪
その来訪者は、夜にも拘らず突然現れた。
「やあ、こんにちは」
彼は灰茶の髪を揺らして、顔を傾げて笑顔をつくる。童顔でありながら、紳士然とした振る舞いで外衣を脱いだ。
そんな彼を呆然と見つめている者、若干名。
挙げてみれば、エステル、従僕、執事の三名だ。
「突然すぎたかなぁ。あ、アルフォンス、久しぶり。差し入れ持ってきたよ」
執事の名を呼び、実に軽い調子の彼を見て意識を取り戻した執事アルフォンスは、慌てて青年に礼をとる。
「こ、これはウォーレス様。お久しゅうございます。お元気そうでなによりです」
取り繕った笑みを浮かべながら、内心の焦りをみせない様は長年で培ったものだろう。
目を丸くして佇んでいたエステルと従僕も執事の目配せをうけ、急いで客人をもてなす準備にとりかかる。
「オレはセシル様に、ウォーレス様の訪問を報せるから」
こそっと耳元で従僕は囁く。エステルは小さく頷き、厨房へ菓子と茶の準備を頼みに行こうと踵を返した。――その時。
「ちょっと待って」
背後から呼びとめられ、エステルは上半身だけで振りかえる。
「……はい、なんでしょう?」
俯いて答えるのは、彼がもし男爵令嬢であるエステルを知っていた時のためだ。
そんなエステルの心中を知ってか知らずか、歩み寄ってくるウォーレスは彼女の前に立ち、手をとった。
刹那。
「なっ!?」
手の甲に口づけが落とされる。
エステルは目を瞠った。女中である自分にするような行為ではない。まさか、自分を知っているのだろうか。
唾を呑み、青年を観察する。
(――さっき、ウォーレスと呼ばれていたわよね? 姓がわからないから誰かはっきりしないわ……。私が参加した夜会にいたかしら?)
エステルは社交会にあまり参加していない。付き合い程度に顔は出したが、それは元婚約者の手前だ。挨拶が終われば庭にでて、一人、茶を飲むことが多かった。
「どうかした?」
ウォーレスは硬直したエステルの様子を下から窺い見る。
エステルは冷や汗を流しながら、努めて気丈な声を出した。
「……いえ。あの、私になにかご用ですか?」
きっと硬い笑いになっただろう。それでも、返答が安心できるものだと確信するまでは、緊張が走る。
そのままじっと見つめていると、ウォーレスは苦笑した。
「突然で驚かせちゃったかな。ごめんね。僕はウォーレス・アシュレイ・マクラレンっていうんだ。はじめまして」
淑女に向けての所作で挨拶した青年だが、その言葉にエステルは安堵した。
『はじめまして』と彼は言った。
つまり。
(……会った事がないか、気づいていないってことよね?)
弄ったエステルの記憶の中にも、彼の存在はない。
(そういえばマクラレン家っていえば、確か名門伯爵家だったわよね……。そこの嫡男は三十歳くらいって聞いた事あるわ)
怪訝に思い、ウォーレスを見る。
そして、独り首を横にふった。
(ない。ないわ。この人が三十歳だったら、世の中の女性が居たたまれなくなるもの)
目の前の青年は、外見十代後半、多めにみても二十を一、二超えたくらいにしか見えない。鯖をよむといっても限度があるだろう。
ゆえに、彼は次男以下だ、とエステルは判じた。
「えーと、考え中のところ申し訳ないんだけど……君の名前、きいてもいい?」
独りで顎に拳をあてながら考えてこんでいた女中に、ウォーレスは気遣いながら尋ねる。
エステルはハッと顔をあげ、お客様を無視していた現実に猛省しながら微笑んだ。
「私はエルーと申します。まだ新入りではございますが、なんなりとお申し付けくださいませ」
「うん、ありがとう。じゃあ、一ついいかな」
「はい。なんでしょう?」
「お茶じゃなくて、お酒を飲むから、グラスの準備をお願いしてきてくれるかな。おいしいぶどう酒が手に入ったんだ」
そう言って、彼は背後の扉を指差した。
彼の指の先には、扉前で差し入れ――ぶどう酒の樽――を持ち上げようとする執事の姿があった。エステルが(……彼の腰は大丈夫かしら)と思ったのは、余計なお世話なのかもしれない。
*** *** ***
「……突然だな」
渋い顔で、部屋に入ってきたウォーレスを出迎えたのはセシルだ。
しかし、ウォーレスはとくに気にした様子も見せず、樽を抱えた使用人達を手招きする。
「気の知れた仲じゃないか。なんでそう嫌そうな顔するかなぁ」
わざと溜息をこぼすと、我がもの顔で部屋の中央に置かれたソファーに腰をおろす。
セシルは嘆息すると、向かいの席に腰をおろし、控えていた従僕からグラスを受けとってさがらせた。
「で、なにかあったのか?」
侯爵は、友人が突然訪れるのは、必ずなにか報せがある時だと知っている。だからこそ、嫌そうな顔をしながらも、内心では感謝している。……絶対に本人に言うつもりはないが。
ウォーレスはグラスにぶどう酒を注ぐと、前髪を掻きあげる。それがどうにも苛立たしげに見えた。
「んー……なにかあったっていうかねー」
一度口を噤むと、彼は酒を一口含み、セシルを上目で見据えた。
「カレン嬢の結婚が、決まったよ」
その一言に、セシルは柳眉を顰めた。
*** *** ***
ウォーレスが来て、かれこれ数時間が経った頃。
エステルは戸締りの当番であるため、窓を閉め、鍵をかける、という作業を繰り返していた。
ふと、ウォーレスのことを思い出す。
あの後、彼はセシルの部屋へ行ったらしい。おそらく、侯爵と会話を楽しみつつぶどう酒を煽っているのだろうが、詳細は誰も知らなかった。
(何時間もお酒を飲み続けて、大丈夫なのかしら?)
首を傾げる。エステルも弱いわけではないが、樽を飲みほせる自信はない。
後で水を差し入れるのもいいかもしれない。
セシルの酔った姿が想像につかないが、なんだか見てみたい気もした。
そんなことを想像する自分に驚きつつも苦笑し――そして、最後の窓を閉じた。
エステルが部屋に戻ろうと、床に置いたランプを持ち上げた時だった。
「エルー」
夜遅くに、廊下で誰かに遭遇すると思っていなかったエステルは少し驚いた。――権力者の邸では暗殺話は絶えないのだ。侯爵家ともなれば、それも必然だろう。したがって、幽霊がどこにいても不思議はない。
恐る恐る振りかえる。信仰心はあまりないが、こんな時ばかりは――神様っ! と祈りを捧げてみた。
「急に驚かせてすまないね」
けれど、目の前にいたのは幽霊ではなくウォーレスであった。
エステルは肩の力を抜く。
「ああ、ウォーレス様でしたか」
自分の行動に恥ずかしくなり、笑ってみせる。
「なにかご用ですか?」
首を傾げると、ウォーレスは苦笑した。
「うーん、僕が、というより、君のご主人様が、かな」
「はぁ?」
すると、彼は笑みを変え、くすくすと肩を揺らす。
「セシルが酔いつぶれてね。毛布を彼の部屋へ持って行ってくれないかな? 僕はそろそろお暇するから」
「……ですが、今からお帰りになると危ないのではないですか?」
「大丈夫だよ」
そう言って、エステルの頭を優しく叩いた。
「僕の見送りはいらないから、セシルの方、よろしく」
最後に困ったように笑みを残して、ウォーレスは暗闇の中へと消えていった。
*** *** ***
エステルがセシルの部屋にたどり着くと、そこはぶどう酒の匂いが充満していた。
ウォーレスに頼まれた通り、毛布を侯爵に持ってきたが、ついそれで鼻をおさえる。
(これは……どうみても飲みすぎね)
客人が差し入れた樽は、蓋がない状態で転がっていた。つまり、中身はもう空ということだ。
眉間に皺をつくり、一人掛のソファーへ近づくと。――予想通り、侯爵がいた。
いつもとは違う寝顔に、エステルはそっと微笑する。
顔は赤くなり、無邪気な寝顔が微笑ましい。だらりとソファーに身を任せている姿も、朝の姿とはまた少し違った。
新しい発見に、心がくすぐったい。そんな自分を不思議に思ったが、頭で警鐘が鳴り響いている気がして、考える事をやめた。
起こさないように、静かに毛布をかける。
見納めになるのは少し寂しいが、「おやすみなさい」と囁き、退室することにした。
踵を返す。
歩もうとすると――突如手首を掴まれた。
「えっ」
驚きに声をあげると、瞬く間に体はソファーへと引っ張られ、強い力で抱きしめられた。
そして、それだけではないことに、一拍遅れて気づく。
エステルは目を見開く。
彼女の紫の瞳に映るのは、セシルだけだった。
自分の後頭部を押さえる手。腰をさらうように抱く腕。そのどれからも逃れる事はできない。
けれど、彼女の頭を真っ白にさせるのは、そのどちらでもない。
唇に感じる、熱く、柔らかい感触。
(――これは、なに……?)
なにも考えられない。状況がわからず、目を何度か瞬いていた。
呼吸ができないために苦しくなってきた頃。エステルはようやく自分がなにをされているのか把握する。
「んんっ!」
必死にセシルの胸板を押し、離れようとした。
セシルがそれに気づいたのかは、わからない。しかし、彼は唇を彼女から名残惜しそうに離した。
エステルの目に映る、セシルの顔。切なそうに歪めている彼に、言葉を発することができなくなった。だから、呆然と見つめ続ける。
――こんな時、なんていえばいいのだろうか。経験のないエステルにはわからない。怒ればいいのだろうか。悲しめばいいのだろうか。だが、エステルは自分がそれらのどの感情でもない気がした。
「どう、して……」
震える唇に指で触れながら問う。答えは返ってこなくてもかまわなかった。
だが、セシルは苦しげに目を細め、エステルの首に顔をうめる。紡がれた言葉は、静かな、けれど確かな情熱を秘めているように感じた。
「――好きなんだ」
「……え?」
(誰の、ことを?)と、首筋に感じる熱い吐息で痺れる頭で、問うが、それは言葉にはならない。
「セシル……様?」
「ずっと……二年前から、好きだったんだ」
この瞬間、エステルは息を呑んだ。
彼は、二年前、夜会で恋をした女に告げている。
悟ると、なぜか胸が締めつけられるように苦しくなった。泣きたい気がするのに、泣きたい理由がわからない。それに気づいてはいけない。
混沌とする感情。
どうしたらいいのか、わからなかった。
そうしようと思ったわけではないのに、気がつけばセシルの服を掴んでいる自分に気づく。
(……私……)
縋るセシルを見下ろせば――彼は、いつの間にか寝息をたてていた。
エステルは心から安堵する。
このまま、この体勢でいるのはどうしても辛かった。
起こさないようそっと腕をはずし、彼から離れる。
ついで、自覚したように顔が紅潮した。
(私も酔ったのかしら)
それは、漂う酒のにおいのせいなのか……それともセシルのせいなのか。震える心に蓋をして、その答えを放棄した。
誰にもこの部屋であったことを知られてはならない。だから、走って自分の部屋へ戻ろうと、思った。
考えを実行するように、口を両手でおさえて扉へと向かう。
――激しくなる鼓動には、気づかないふりをした。
*** *** ***
夜道を走る馬車の中で、ウォーレスは窓の外をみる。
景色は見えなかったが、考え事をするには丁度よかった。
ふと、銅色の髪の女中のことを思い出す。
淡く笑った。
「話には聞いてたけど……女中になるなんてなぁ。本当に、極端な娘だ」
――エステル・コーネリア・クラーク。
(心に留めておこう)
……そして、もう一つ、彼には気がかりがあった。
エステルの元婚約者、カイル・セドリック・ハーシェル。
黒髪と灰青の瞳を持つ、次期侯爵。
かつて、彼らの婚約は、知らない者がいない程知れ渡っていた。
当時、カイルは宮城に常駐するため、なかなかエステルに会うことは叶わなかった。しかし、彼は惑うこともなくずっと想い続けていた。
二人は幼馴染だと聞いている。婚約が決まり、初恋が実ったことを喜ぶ彼の姿も、遠目に見た事があった。
だからこそ――彼が自ら婚約を破棄したと聞いた時は、耳を疑った。
一体、なにがあったのだろう、と。疑問に思っていたが。
原因は粗方、わかった。
――ゆえに、ウォーレスは懸念を抱く。
(もし、予想が当たっているのなら)
苛立ち、小さく舌打ちした。
(彼は、真っ直ぐすぎる男だけど……馬鹿じゃない)
厄介な事に。
ウォーレスはこの先に起こることに思いを馳せ、溜息をこぼした。