3. 侯爵様とお茶の時間(ティータイム)
侯爵邸の庭園は、広く、美しかった。
地面の芝生はどこにも枯れたものはなく、深い緑と淡い緑のそれは市松模様に彩る。まるでそれは御伽噺の世界に迷いこんだ印象を抱かせている。
植えられた花々は生命力に溢れ、庭園をつくるすべてと調和している様は庭師の腕の良さを思い知らされるものだった。
しかし。
その庭園は、今、見渡せない。
――現在の時刻、朝六時。
エステルは朝の湯運び当番ではない日――つまりは侯爵の目覚まし当番ではない日――は、庭園で邸に飾る花を摘む。別にその仕事は誰にいわれたわけでもないが、朝の庭園には目的の人物がいると知ったため、自ら立候補したのだ。
今もその人物、すなわち食品室女中に会いに行った帰りである。
この邸の誰にも内緒にしていたが、エステルはお菓子が大好きだ。食べるのは勿論のこと、ついには作る方にも興味を持った。ゆえに、知らない土地へ行った時は必ず珍しいお菓子の作り方を訊くようにしている。
ちなみに、この邸でもなにか収穫はないかと庭園を散策している最中、茶菓子を作るために香草を採集に来ていた食品室女中と出会い、親しくなった。
が、今日はいつもの場所に彼女はいなかった。
したがって、エステルが抱える籠には、香草のおこぼれはなく、深紅の薔薇のみが入っている。
「くしゅんっ」
ずずっと鼻を啜る。エステルがくしゃみをすると、それはぼんやりとした庭園の奥へと吸い込まれていった。
今日は朝から霧が濃い。
視界は真っ白なため、手探り状態で前へ進むしかなかった。こうなれば、慣れた庭園も、知らない場所と同じだ。
肌寒さに身を震わせ、一度立ち止る。ついで、辺りを見回した。
「…………えーっと……」
足の方向をかえつつ、三百六十度見回す。
「うーん……」
ようやく気づいた事実に、思わず唸った。――なんてことだろうか。
(ま、迷ったわ!)
彼女が今いるのは、広大な庭園。それはエステルにもわかっている。……しかし、庭園のどこにいるのかがわからなかい。
(いつも通ってる道のはずなのに……。まさか迷うなんて。――人様の庭園で遭難死……いえ、凍死とか……ありえないわ)
寒さとわずかな空腹に、後ろ向きな思考になる。
エステルは俯き、現状を否定するように首を横にふった。情けないにもほどがある。大体、親の反対を押し切って侯爵邸にいるのに、なにが悲しくて無言の帰宅をせねばならないのか。
斜め下を向き、ほくそ笑んでみた。とくにいい解決案など浮かんでいないが、強がってみたかったのだ。――もしかしたら、こうしている間に周囲の景色が変わっているかもしれない……という現実逃避にでてみたかったのかもしれない。
だが。再びエステルが顔を上げると……やはり道も解決法もさっぱりわからなかった。
「……歩いてれば、どこかへつく……わよね?」
前向きにいきましょう、前向きに。そう独りごち、再び歩き始めた時。
ごつんっ! と硬いなにかにぶつかった。
「い、痛い……」
涙目になって額をおさえると同時に、後方から声がした。
「大丈夫? エルー」
背後に立つ人影。声から察すると、それはそこに在る筈のない人物だった。
(私、今の衝撃でおかしくなったのかしら?)
今度は額ではなく、こめかみを揉みほぐしてみる。けれど、現実を肯定するように、声の主に手をひかれた。
「来て」
「えっ、あの、ちょっと」
そのまま、エステルは問答無用で引きずられていった。
着いた場所は、温室だった。
(ああ、この壁にぶつかったのね)
透明の硝子でできた壁を睨めつける。
そこは硝子張りの、大きな部屋一つ分の温室。中には花が植えられていた。中央には口から湯気ののぼるティーポットとお洒落な籠が置かれた白い卓、そして椅子が配置されている。
鼻腔に届くかすかな茶の匂いにお腹がなりそうになるが、その前に確かめなければならないことがあった。
それは、握られた手の主の正体である。
――声の通り、信じがたい人物が目の前ににいた。
「……本物のセシル様、ですか?」
思わず問えば、青年は片眉をあげて首を傾げる。
「本物だが……エルーは私の偽者を見た事があるのか?」
「……いいえ、ありませんけど」
確かにないのだが、ここですんなり認められない理由が彼女にはあった。
今は朝の六時過ぎ。今日は非番だが、彼を起こす日はいつも九時に湯を運んでいる。しかも、美形の理論とやらのせいで、侯爵はすんなり起きてはくれないのだ。これは目下の悩みだったりする。なのに、なぜ非番の今日に限って早起きをしているというのか。
つい、恨み言を口にする。
「今日は早起きですね」
「ああ、あなたは今日、非番だろう?」
「はい。……なので、なんで今日に限って早起きなのかと思いまして」
早起きするのなら、自分が当番の時にしてほしい。そうすれば悩み事が一つ解消されるのに。
眉間に皺を寄せて恨めしそうに上目で睨むと、セシルは微笑んだだけだった。
美貌の主の笑み。文句すらも黙らせる威力。エステルは美形の笑みほど怖いものはないと、この日経験値を一、つんだ。
セシルは表情をそのままにエステルの籠をとりあげ、花壇を構成する煉瓦の上に置く。一体、なにをどうしたいのか。エステルが首を捻りながら見守っていると、彼は椅子をひいた。
「座って」
「……は?」
再度エステルは首を傾げる。言っていることがわからない。いや、言葉の意味はわかるが……。
「いえいえいえ、あのですね、私は使用人ですからっ。同席するわけには」
「私が許可するから、気にしなくていい」
「いえ、ですから、そういう問題ではなく……」
激しく首をふるが、侯爵は気にすることなく彼女に茶を淹れた。
目の前に置かれた、芳しい香りの茶。その香りはまろやかさを含んでいた。見れば、ミルクの配分が多いようだ。寒さで身が凍る思いだったエステルは、誘惑されそうになる。が、ここは我慢だ。我慢。
「っ……」
尚も葛藤するエステルに、セシルは目を細めた。
「霧がはれるまで、一緒にお茶にしよう」
「ですからね、お話、聞いていただけてます?」
わずかに眉を寄せると、侯爵は「聞いてるよ」と流し、お洒落な籠から茶菓子を出した。
茶菓子は――マカロンだった。
実は、エステルはマカロンがとめどなく好物だったりする。しかも、ミルクがたっぷり入ったミルクティーと併せてたべるのが、至福の喜びなのだ。
それを知っているのだろうか?
疑問に思い、マカロンから視線をあげると、セシルは目もとを和ませた。
あまりにも優しく、菓子に負けないだろう甘い笑み。
「一人でお茶を飲んでも楽しくないからな。……同席してくれないかな?」
「はい……」
気づけば、エステルは自失状態で頷いていた。
セシルはそのまま自分の茶も淹れ、席に着くかと思いきや、なぜか上着を脱ぐ。
「あの……お風邪を召されます。そのまま着ていた方が……」
エステルが苦言を呈するが、言葉は最後まで続く事はなかった。
脱がれた上着が彼女の肩にかけられる。
「え、あのっ」
エステルが目を丸くすると、セシルは背後にまわり、自分の袖で彼女の髪を拭い始めた。
幼い頃、乳母が湯上りにしてくれた行動。自分が子ども扱いされている気がして、頬が熱くなる。
「せっ、セシル様!?」
なんとか声を上擦らせながら発しても、侯爵はやめようとしない。むしろ「髪、ほどくよ?」と訊いてきた。おろし髪はふしだらだとされるが、確かにこのままでは風邪をひくかもしれない。
――いや、しかし、異性の、しかもご主人様にやらせるわけにはいかないだろう。
エステルは真っ白になった頭をなんとか働かせ、首がもげるほど左右にふる。
セシルは密かに嘆息したが「風邪をひかれたらかなわない」とぼやき、結局纏められた髪をほどきにかかった。
銅色の濡れた髪が背に落ちる。その冷たさに、身体がびくりと震えた。
けれどそんなことが気にならないくらい、侯爵の気配が気になった。髪に神経など通っていないはずなのに、彼と接している場所が熱く感じる。
やがて髪を一通り拭い終えると、青年はエステルの真正面の席に座った。
「えぇと、あの。ありがとうございます。……袖、濡れてしまいましたね」
エステルは紅潮した顔を隠したくて俯いてお礼をいう。
すると、セシルの笑った気配がした。
「すぐに乾くよ。それより、お茶を飲んであたたまった方がいい。霧がはれるまでは外を歩くのは危ないし、それまでのんびりしていよう」
それきり、二人は静かに茶を啜る。だが、沈黙の中の茶会は五分ともたなかった。
どうにも居たたまれなくなった、エステルが会話を試みたのだ。
「あの、温室、はじめて来ました」
はにかんで笑ってみせると、セシルは頷く。
「食品室女中くらいしか来ないからな」
「食品室女中……ですか?」
「ああ。ここにあるのは食用の花ばかりだ。だから、毒性のものがない」
そうだったのか。エステルは目をわずかに丸くする。いわれてみれば、この温室の花はどれも砂糖漬けやジャムにして食べられるものばかりだった。
(じゃあ、今日食品室女中さんに会えなかったのは、ここに来てたからかしら?)
思案しながら、マカロンに手を伸ばす。
一口、口に含むと、アーモンドの風味と甘さが口中にひろがる。
「おいしいっ」
思わず笑みで相好を崩すと、それを見たセシルが笑い出した。
「な、なんで笑うんですか」
「いや、おいしそうに食べるなぁ、と思って」
「……はぁ、そうですか」
どうも今日のセシルはいつもと違って感じた。朝、接することが多いエステルは、今の今まで「起きたくない」と駄々をこねる子どものような印象をもっていた。だが、今日の彼は紳士的に感じる。――これでは調子が狂ってしまう。
エステルが困惑していると、不意に視線を感じた。
「なんですか? セシル様」
見ていたことを気づかれたのが気まずかったのか、侯爵はなにかをごまかすように紅茶を口にする。怪訝に思い見つめ返すと、彼は躊躇いつつも言葉を紡いだ。
「エルー、そのだな……答えたくないならそれでいいんだが、訊いてもいいか?」
「はい? なんでしょう?」
「あなたは、なぜこの邸へ来た?」
その言葉に、エステルは瞠目した。
まさか、自分が誰なのかバレたのではないかと、思う。しかし、自分は彼と会った事は一度もない。そもそも、元婚約者と侯爵の関係上、ある筈もないのだ。彼の意図を図りかね、曖昧に答えた。
「どういう、意味で、でしょう? よく知った者から紹介していただいたのですが……」
エステルはあらかじめ用意していた答えを述べる。侯爵邸で働くには紹介状が必要であるため、実家の家政婦に紹介状を内密に書いてもらっていたのだ。
冷や汗が背筋を伝った。
しかし、セシルは首をふる。
「いや、身元を怪しんでいるわけではなくて……。他にも勤めるのに条件のいい邸はあっただろうと思ったんだ」
憂いを帯びさせ、髪を掻きあげる姿に、エステルは(目の保養だわ)と心中呟く。
一拍後、ほっとしながら、自嘲するように笑った。
「私は、セシル様にがんばっていただくためにここに来ました」
「――え?」
目を何度も瞬く侯爵に、エステルは睫毛を伏せる。思い出すのは、苦い記憶ばかりだった。セシルを好敵手だと言っていた次期侯爵である元婚約者。だから……と思ったのだ。
「……セシル様が、この土地を豊かに治めて、たくさんの人に慕われたらいいなって、思ったんです。誰がみてもいい領地といい領主だって、思われて……それを影で少しでも支えられたらいいなって……」
結局自己満足なんですけどね。
最後にそう付け加え、笑った彼女は痛みをはらむように痛々しい。
しかしセシルは、馬鹿にするように嗤うことなく、真摯にエステルを見つめ、彼女の手をとった。
エステルの手は、小刻みに震えている。
そんな彼女に、彼は安心させるように淡い金の髪を揺らした。
「ああ、努力する」
セシルは、握っていた冷たい手が、そっと握り返してきたのに気づいた。
エステルは唇を噛み、泣くのを堪える。
(彼は、優しい。それなのに――)
自分は純粋な想いでここにいるわけではない。そんな黒い気持ちを抱えた自分を、セシルは知らない。それが、こんなにも心苦しいとは思わなかった。
もしセシルが幸せに笑っていて。それを少しでも手伝えたら。彼を好敵手視していた、元婚約者に対しての心のしこりが取り除ける気がした。だから、セシルのもとへ来た。
――それを吐き出せてしまえたらどんなに心が軽いだろう。けれど、それこそ罪悪感から逃れる、ただの自己満足に過ぎないのだ。
「エルー、相談にのってもらって、いいか?」
感傷に浸っていたエステルは、ふってきた声に顔をあげた。
(――相談?)
詰まりそうになる喉をこらえ、頷いた。
「はい、なんなりと」
できる限り笑うように心がけた。セシルは「助かる」と微笑み返していたから、おそらく成功したのだろう。
セシルは、なにやら深刻そうに話始めた。
「……そのだな、好きな女ができたんだ」
(エリンの言っていた女だわ)と察する。夜会で出逢ったということは、貴族で間違いないだろう。
エステルが相槌をうつと、セシルは続ける。
「今まで、諦めていたんだ。だが、もし、がんばるとするなら、どうしたらいいと思う?」
意気込んだ様子のセシルを前に、エステルは考えた。
相手が誰かわかっているのなら、簡単、かもしれない。だが、生憎エステルはセシルと同じ夜会に参加したことがないため、相手はわからないし見当もつかない。悩んだ末、エステルの知る一般論を答えることにした。
「えぇと……押してダメなら引いてみなっていいますが……」
適当な答えになってしまったが、侯爵はおもむろに頷いた。が、すぐに柳眉を顰める。
「――今まで引いて引いて引いていた場合は……押した方がいい、ということか?」
エステルは口を噤む。そういえば、彼は相手に好きな人がいる、ということで身をひいていたのだ。これはどうするべきだろうか。
またもや悩んだ挙句、エステルに浮かんだ案は一つだった。彼の麗しい顔をもってすれば、可能かもしれない。
「既成事実が一番かもしれません」
途端、侯爵は口に含んだ茶を噴きそうになった。年頃の乙女がなんたる発言ろうかと、顔を引き攣らせる。
「き、既成事実って……」
「多分セシル様がご想像しているまんまです。あ、でも、無理やりはダメですよ? ただの性犯罪者になりますから」
「…………ああ、そうだろうな」
「セシル様、いつも『美形の理論』がどうのっていうじゃないですか」
「…………ああ、冗談がてらな」
「謙遜は結構です。安心してください! ちゃんと閣下は美しいです! ですから、雰囲気を整えて迫れば、九割九分おとせると思うんです」
エステルの目の奥に輝き……いや、炎が見える気がする、とセシルは思った。なにやら話が思わぬ方向へ行きそうな気がしたため、冷静な判断を試みる。
「……一分は無理、ということだよな?」
「諦めちゃダメですよ! 既成事実さえつくっちゃえば、こっちのものです。ご令嬢の実家だって文句つけられませんよ。いえ、むしろ事後承諾でもいいかもしれません」
セシルから握っていた筈の手は、気がつけばエステルが力いっぱい握りしめていた。
セシルはつい、笑ってしまう。さっきまで壊れてしまいそうに儚く見えた彼女が、今ではたくましく他人を励ましているのだ。
「え、ここ、笑うところじゃないですよ」
むっと眉を寄せたエステルは、侯爵から手を放し、やけくそのように茶を一気飲みした。
セシルはその姿に安堵し、小さく答える。
「機会があったらそうするよ」
「え、なにか言いましたか?」
エステルが問うと、セシルは「いいや」と笑って空を仰ぐ。気がつけば、硝子の天井から太陽の光が射し込んでいた。
「霧がはれたな」
「そうですね。じゃあ、お茶会は終わりですね。邸へ戻りましょう」
エステルが椅子から立つ。
セシルも立ち上がり、彼女の口に、残っていた最後のマカロンを含ませた。
「ふぇ?」
「お茶会につき合ってもらったお礼。好きだろう?」
笑った青年は、どこか寂しそうだった。
そうして短い茶会は終わりを告げたのである。