幕間 侯爵様の噂の真実
侯爵の朝は、美形の理論で始まる。
それは今も以前も変わることがない。
けれど、彼は大失態を犯してから寝起きがマシになった……らしい。
*** *** ***
現在、食堂で使用人たちが昼食をとっている。
いつも以上に騒がしいそこの注目の的は、もちろんエステルだった。先の一件以来、彼女は好奇な目でみられたり、陰口を言われているのだ。ゆえに、独りで食事することが多い。
――しかし、その日は違った。
先輩女中のドロシーはエステルの向かい席を陣取り、左手の親指をたてた。
「よくやったわ、エルー!」
ちなみに、”エルー”というのはエステルが侯爵邸で名乗っている偽名である。
一体なにが『よくやった』なのかわからないエステルは、曖昧に笑った。
すると、ドロシーは腕を組んで頷きながら、詳細を語る。
「誇るといいわ! あなたのおかげでセシル様の寝起きがマシになったんだから!」
エステルは首を傾げた。自分が来るまでの侯爵の寝起きは、一体どんなだというのだろうか。そう思い、言葉を紡ぐ。
「でも、まだ起きる際『低血圧は美形の理論なんだ』とか仰ってますよ」
すでに耳にタコができた呆れる主の口癖をぼやくと、ドロシーは首を横にふった。
そして、両手でエステルの、スプーンを持つ手を握りしめる。否応なしに食事を中断する羽目になった。
妙に真剣な空気を漂わせる彼女に、エステルは呑まれる。
「あのね、エルー、今まであの方は『美形の理論なんだ』って仰ってから、からかうようにあたし達の手を握ってたわけ」
「そ、そうなんですか」
いかにも遊んでいる男がやりそうな行動である。好ましくない、とエステルは眉を顰めた。
そこへ、同僚の女中エリンが乱入する。彼女もなにやら、これまでの侯爵の寝起きについて言いたいことがあるらしい。
「そうなんです! それであの顔ですもの。しかも、こっちがドギマギしてると、にやりと笑って仰るんですのよ! 『じゃあ、あたためてよ』てね!」
なんて性質が悪いのかしら、と愚痴る女中たちに同情してしまった。自分も先日の件で、そのドギマギとやらを体験した。
だから、つい呟いてしまったのだ。
「……やっぱり、私生活が華々しいって本当だったのね」
けれど言葉に、ドロシーとエリンは顔を見合わせた。すぐに彼女たちは、エステルの独り言を一刀両断する。
「それはないわ」
エステルが片眉をあげて怪訝に思っていると、ドロシーは「だから余計厄介なのよ」と唇を尖らせた。
「えぇと、どういことなんですか?」
尋ねてみると、先輩女中は呆れたように話し始める。いわく。
「セシル様、三年前まで王宮で騎士見習いをしてらしたのよ」
それはエステルも知っている。元婚約者はそこで彼と知り合い、彼のことを認めながらも好敵手視していたらしい。
「で、騎士道って、なにやら面倒でね。純潔じゃなくちゃダメだのなんだのあるらしいのよ」
「そうなんですか」
思い返せば、エステルの元婚約者も潔癖な面があった。結婚するまで閨を共にすることはおろか、口づけさえもすることはなかったのだ。その理由を今さらながら知る。
「なかなか古めかしい考えですよね」
騎士道を否定しない程度に感想を述べると、ドロシーは深刻に頷いた。
「そうなのよ。でもね、他人事じゃないのよ」
「……はぁ?」
「セシル様もその古めかしい考え方に染まっちゃっててね。ふふふ、噂では華々しいらしいけど、実際はもうすばらしいまで真っ白よ! 二十三歳・男で!」
乾いた笑いを漏らす彼女は、目に光る涙をそっと拭った。……使用人に哀れまれる主とは、これいかに。
そして、続けた。
「だから奥様も、なにか性癖に問題があるんじゃないかと思ったらしくて……女中に色気たっぷりの娘を雇って、誘惑させたり、積極的に夜会に行かせたりしてたのよ」
「そ、そうなんですか。なんていうか、行動派な奥様なんですね」
記憶にある女主人は、見た目は侯爵に似て麗しく、美貌の持ち主だった。が、この一瞬でエステルの認識は改められた。
「そう。でも、セシル様はその誘惑にのらないし、そのせいで恥をかいたってたくさんの女中が辞めてくし……。ほら、あそこにいる侍女の彼女もその一人」
ドロシーが指をさす先をみると、そこには亜麻色の髪をした、優艶な女性がいた。同性からみても色気があり、それこそ誘惑されない男など皆無だろう容貌をしている。
「あの方でも、ダメだったんですか?」
驚き、首を捻っていると、ドロシーは困ったように笑った。
「ええ、そう。上流階級出身の娘だから、すぐに辞めると思ったわ。家に戻れば縁談なんてたくさんあるだろうしね。……けどあの娘は、あの方を本気で好きになってしまったみたい。だから、仕事を辞められない。――厄介な方なのよ、セシル様は」
エステルが睫毛を伏せると、それまで食事に夢中だったエリンは、空気を軽くするように笑った。スプーンの先で弧を描き、かつての自論を展開する。
「実は、わたくしもそのお役目を受けて、ここに呼ばれたのですわ。でも、ダメでした。だから、確信したんです! セシル様の性癖に問題アリって!」
その言葉に、エステルもうっかり頷いた。斜め向かいで食事をするエリンも、褐色の髪と百合のような清らかな美しさを誇っている。侍女もエリンもダメだというのなら、一体どんな娘ならいいのだろうか。
(もしかして、噂にきく、男色というやつかしら。そういえば、男所帯では多いって聞くわ)
なんといっても、侯爵は長年王宮で騎士見習いをしていたのだ。
独り思考の渦に嵌り、口元を引き攣らせていると、エステルの考えを見透かしたドロシーが苦笑した。
「安心しなさい。そんなんじゃないって、後でわかったから」
それはどういう意味だろうかと疑問に思って視線をあげると、切なそうに目を細めるエリンの視線とぶつかった。
「侯爵様はね、二年前に行った夜会で恋におちたらしいですわ。相手は誰かわからないけれど、その女しか目に入らないのですわね。たくさん来る好条件の縁談の文に、目もくれずにいる侯爵様を見ていたら、なんだかこっちがやきもきして……訊いてみましたの。そしたら、こう、言われたましたわ」
『彼女には、好きな男がいるから』
「その切なそうな、でも、幸せを願う姿を見たら、なにもいえなくなってしまいました」
エリンは泣くように笑った。
エステルは思わず目の前の冷めたスープに視線をおとす。
自分が映った水面に、波紋ができた。
今まで、自分が集めた噂が恨めしい。なにが華々しいのか。それを信じた自分も嫌悪した。
もし、侯爵の恋が本当のことなら、かわりにその噂を払拭したいと思ったし、彼の恋を応援もしたいと思った。でも、一方で、彼への想いで留まった使用人たちの想いも報われたらいいと、思う。
急に沈んだ様子を見せたエステルに気づいたドロシーは、意識して口尻をあげる。
「ふふ、だから、あなたを寝台に連れ込んだって聞いた時、あたし達は嬉しかったの」
少しばかり語弊がある気がしたが、エステルは話をそのまま聞く。
「セシル様は、女性の扱いには慣れてらっしゃるわ。処世術を学んでいるから。夜会で噂がたったのは、きっとそのせいね。あの方の美しさなら、お姫様方も群がるでしょうし。……あとは、見向きもされなかった、ここを辞めて実家に帰って行った上流階級の女たちが、自分の矜持のために『捨てられたんじゃなくて、捨てた』っていいふらしてるのかも」
そうして、エステルの手を握る。その手は水仕事で少し荒れていたけれど、とてもあたたかかった。
「あなたがいてくれてよかったわ。二年も片思いしているあの方が、ふっきってくれるかもしれないから」
「大切なご主人様の辛そうなお姿、見たくないですもの」
さ、食事を再開しましょ。
そう言って、にっこりと笑ったエリンは、どこか嬉しそうだった。
エステルには、その顔が胸に突き刺さる。
(――痛い)
――セシルの、二年もの片思い。
それを自分に慰められる筈がない。だって、知っているから。長く想った心は、そう簡単に消えるものではない。十五年間、迷うことなく唯一人を想い続けたエステルは確信している。
エステルは、元婚約者に未練などない。それは、きっかけがあったからだ。
(――彼は、信じてくれなかった)
未練など爪の垢ほどもないけれど、きっと忘れることもないだろう。
冷たい視線。吐かれた言葉。突き放された衝撃。
今でも鮮明に思いだせる。
独り、冷笑する。
恨んだし、憎んだ。辛くて苦しくて……心が壊れるかと思った。自分を守るためには、たくさんのものと距離を置かなければ耐えられなかった。
それでも、もう、恨んではいない。負の感情は心身を疲労させるばかりだった。そんな力も、失せてしまった。それは、愛と一緒に。
だけど、悔しかったから。ただ、一つだけ、エステルは心に決めたのだ。わずかに残った心のしこりを、根こそぎ払拭するために。
そのために、今エステルは侯爵邸にいる。
そんな自分がどうしてセシルのためになれるだろう?
もう一度、小さく笑う。自嘲するように。
そうして、エステルは暗い気持ちを心に沈め、スープを啜った。