好敵手と幼馴染の密約 (2)
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思わぬ言葉に、カレンは目を瞬いた。確かに、カイルに落ち度はあった。が、カレンもそれなりのことをやらかした。それなのに、彼は罪滅ぼしをしたいという。何を言っているのか、わけがわからない。
その気持ちが顔に表れたらしい。カイルは優雅に足を組むと、「――ただし」と付け加えた。
「ウィクリフ伯爵家は潰す」
獲物を見つめる獣の如く、彼はにやりと口角を上げる。その姿に、カレンも彼のつくり出す空気に呑まれないよう挑戦的な笑みで返した。
「……それを、ウィクリフ伯爵夫人に教えてもよろしいの?」
「問題ない。どうせおまえも察しているだろう? ウィクリフ伯爵邸の使用人が少しずつ解雇されているのだから」
カイルがやれやれというかわりに肩を竦めれば、カレンも眉尻を下げて苦笑を零す。――カイルの言う通りだ。ウィクリフ伯爵邸の使用人は、ここ数カ月の間に一人、また一人とどんどん減っている。侍女の雇用に携わるカレンも、雇用や家計を仕切る家令から相談を受けて、既に数人の侍女を解雇していた。
ウィクリフ伯爵がどこまで把握できているのかわからないが、伯爵家の家計が傾きつつあるのだと、伯爵自身多少は気づいているらしい様子を見せるようになった。
そして、それにしても、と思う。ここまで内情に詳しいということは、どうやらカイルの密偵はウィクリフ伯爵邸にもいるようだ。
だから、隠しても意味はないと悟ったカレンは、カイルの問いかけに素直に頷く。
「伯爵も、少しずつ追い込まれていると気づいているみたいですわ。度々家令を怒鳴る声が邸に響きますもの。……つまり、そういうことですのね。わたしへの復讐も、ウィクリフ伯爵への復讐も――そうね……王弟殿下とユーフェミア様も対象かしら? それらすべての復讐は遂げるけれど、それらを除いた上での救済を一つだけ選べる、と?」
「そういうことだ」
瞳に鋭い光を宿らせて、カイルは目を細める。それは、エステルと彼が婚約していた頃には一度も目にしたことのない一面。そのカイルの一面は、これまで隠されていただけか、それともエステルと決別したことによって生まれた新たな一面なのか、カレンには判じられなかった。
カイルの纏う空気に、寒気を覚える。なんとかその空気に呑み込まれないよう、気持ちを切り替える為にそっと大きく息を吐いた。それから、考える。
(……わたしの、願い)
ふと、一人の人物が脳裏に浮かぶ。
願いを叶えてくれるなら、あの人の救済を。――そう閃いたものの、カレンは唇を引き結んだ。
カイルが叶えてくれるという願いの幅は、実のところかなり狭い。彼の復讐対象を除くのだから。
とはいっても、カレンは別にウィクリフ伯爵や自分の救済を願おうと思っているわけではない。ウィクリフ伯爵がすべてを失えば、カレンも裕福な生活を失う。けれど、それと引き換えに彼から解放される。それは、悪いことのように思えなかった。むしろ、ウィクリフ伯爵家の没落はカレンにとって望むところだ。――カレンとて、ウィクリフ伯爵の不幸を願うくらいには遺恨がある。ただ、自分の手で復讐するほどの熱意がなかっただけで。
また、自分に関しても、すべて選んだのは自分だと――自分が選んだ末の現在だから、すべてを受け入れる覚悟は疾うにできている。
では、なぜカレンが願いを口にできなかったかといえば、救済を願う対象が、間違いなくカイルの復讐対象者であったから。その人物とは、ウォルター・ローウェルの存在である。かつてクラーク男爵邸で従僕として勤め、カレンの企てに協力してくれた青年。
――明るい笑みの似合う、爽やかな人だった。そんな彼を利用してしまった過去は、今でもカレンを苛む。彼に対してだけは、対エステルやカイルとは異なり、あえて悪びれることもできなかった。ゆえに、思い出す度に後悔で心が揺れる。唯一カレンの理解者だった彼を――部外者だった彼を、利用して巻き込んでしまったから。
彼に返せるものがあるならば、返したい。でも、今がその機会とは到底思えない。
(……彼の名前を言って、わたしへの復讐として彼に矛先が向いたら)
可能性がないとはいえない。容赦のないカイルならば、むしろその選択をしてもおかしくはない。ならば、話題に出さない方が得策だろう。
そうして、カレンは長考することとなった。目を瞑って、じっくり思考を巡らす。きっと、これが最初で最後の機会。
時間を費やして考え抜いた末に選択した願いは、カレンにとっての復讐だった。
ゆっくりと瞼を押し上げ、カイルを真っ直ぐに見つめて願う。
「メイナード子爵家の首を、挿げ替えてください。――どうか、父から、爵位を奪ってください」
刹那、カイルは心底驚いたというように目を瞠った。ついで、訝るように眉宇を顰める。
「……おまえが守りたかった、メイナード子爵家を?」
カイルが疑念を抱くのも無理はないと、カレンも思う。カレンはかつて、メイナード子爵家を守る為にウィクリフ伯爵と取引をし、身を売ったのだ。それなのに、どうしてそんなことを言い出したのか――カイルにはわからないのだろう。そんな疑念を察して、カレンは悲しく微笑む。
「昔の清廉潔白だった父と兄は、もういません。いるのは、民からの血税を自らの贅の為に奪う愚者だけ」
言いながら、家族を脳裏に描く。昔の父は、民から無理な税を納めさせることなど絶対にしなかった。メイナード子爵家は裕福ではないものの、貧乏というほどでもなく、程ほどの税で立ち行けた。領民との仲も良好だった。
家族の誰もがそんなメイナード子爵家に誇りを持ち、子爵家の維持存続を願った。が、そう願ったのは己の為というよりも、先祖代々受け継いできた領地と領民を守る為だった。他家から嫁いできた母も、誇り高い父に理解を示し、寄り添った。兄だって、父から教えを請いながら、次期子爵として父の片腕として領地を奔走していた。
カレンはそんな家族の姿を見てきたから、ウィクリフ伯爵に嫁ぐことを決めたのだ。どんなに辛い決断でも、家族も、領民も守りたかったから。
――それなのに。
(みんな、変わってしまった)
カレンの結婚後に変わったのは、自分だけではなかった。カレンが守りたかったものは、無くなってしまった。
(わたしを、売ったお金で――っ)
ウィクリフ伯爵の援助を得て、子爵家はこれまでない程に潤った。
しかし、一度贅を知れば、元の生活に戻すことは難しい。――人は、変わるものだ。それを、カレンは目の当りにした。
贅沢に慣れた子爵家は、生活の質を落とすまいと民の税を増やし、重税ゆえに民から憎まれるようになった。さらに、子爵家はウィクリフ伯爵の導きによって悪事に手を染めるようになった。カレンがそのことを知っているのは、ウィクリフ伯爵が食卓の場でそのことを話し、またウィクリフ伯爵を訪ねて邸に出入りする父や兄の姿を何度か見たから。その時、カレンはもう、あの人達には領地を任せておけないと思った。
だから、カイルに願う。自分の力ではなにもできないけれど、カイルならばきっとできると確信して。
「跡目には、従兄を推しますわ。彼は他家で騎士をしていますが、不正のできない、裏表のない人物です。欠点は……多少脳筋であるところでしょうか……。もちろん、カイル様の御眼鏡に適えばで構いません。カイル様が認めた暁には、どうか、従兄を支えてください。願いを叶えてくださったなら、わたしは二度と子爵家に近づかないと誓いましょう」
カイルは一瞬考える素振りを見せてから、了承を口にした。
「わかった。おまえが約束を違えないのであれば、叶えよう」
その瞬間、カレンの心に安堵が広がる。ずっと、危惧していたことだったのだ。――そしてこれが、メイナード子爵家の者として、貴族でいられる間にできる、民への最後の貢献。嫁ぐまで、民から得た税によって生きてきた、カレンの恩返し。
暫し、沈黙が落ちる。――これで話しは終わりだろうか、とカレンがカイルの様子を窺う。すると、視線の先で彼は徐に上着のポケットに手を入れた。その様を、なんとなく眺めてしまう。
そうして彼のポケットから出された手には、一枚の紙切れがあった。
カイルはそれをテーブルに置き、カレンの近くへと差し出す。
(……わたしに?)
困惑しながら「これは?」とカレンが首を傾げれば、カイルは「餞別だ」と短く答えた。
柳眉を顰めて紙切れを手に取る。そこには、住所らしき書き込みがあった。
(……一体どこの住所かしら――)
「ウォルター・ローウェルが住む家の住所だ」
カレンの思考を読むようにカイルが告げる。
その言葉を耳にしたカレンは、びくりと身体を震わせて視線をカイルに向けた。(どうして)と思う。ウォルターのことは気がかりだったけれど、カイルの前ではあえて話題も名も出さなかった。これ以上、彼に迷惑をかけたくなかったから。それなのに、どうして彼がウォルターの話題を振ってくるのか。
カイルがなにを考えているのかわからなくて、身体が強張る。自分で自分の顔が険しく歪むのを自覚しながらも、抑えられなかった。
「……今さら、どうして現在のわたしとは関係のない人物の名を?」
紡いだ言葉は、ウォルターのことなど気にしていないという強がり。それもきっと、カイルにはお見通しだろう。
短い問いを受けたカイルは足を組みかえると、穏やかな笑みを刻んだ。一方で、彼の灰青の瞳にはあたたかさを感じない。絶対零度の冷たい瞳に宿るのは、仄暗い闇。それらの兼ね合いがあまりに歪に見えて、視線を受けたカレンは居心地の悪さを抱きながらカイルの返答を待った。
カイルはカレンの求めに応じ、「そう警戒するな」と口を開く。
「ウィクリフ伯爵家が没落したら、おまえの行き場はなくなるだろう? メイナード子爵家にも今後は近づけない。だから、餞別にウォルターの住所を渡しておこうと思っただけだ。あの男はおまえに惚れぬいていたから、悪いようにはしないだろう」
彼の言葉は、まるでカレンを案じているかのよう。だが、カレンにはどうしてもカイルの言葉をそのまま受け止められないし、信じられない。カイルは真っ直ぐな好青年だが、違う一面も持っていると、今のカレンは知っている。敵には容赦しない性格だ。そんな彼にとって、カレンもウォルターも敵である筈。
(カイル様は、ウォルターになにをするつもりなの)
どんなに思考に耽っても、答えは見つからない。それがじれったく、もどかしくて堪らない。
金茶の瞳に宿る猜疑の色を察したらしいカイルは、くすくすと笑声を零した。その表情はやはりどこか歪さを有す。
「――心配しなくとも、今のウォルターになにかするつもりはない。彼は、なにも持ってはいないから奪いようもない。大切な家族も亡くなり、義務感で跡を継いでいるだけだ。そこに矜持などない。惰性で生きているだけの男からなにを奪える?」
「そこに、わたしを与える、と?」
カイルの笑みが深くなる。その瞬間、カレンは首筋に温度のない死者の手で首を絞められている気がした。それほどにカイルの笑みは得体が知れず、恐怖心を刺激するものだったのだ。
(……怖い)
もう、怖いものなどないと思っていた。それなのに、カレンはカイルにとめどない恐怖を抱く。
(こんな彼は、知らない)
これが、未知への恐怖というものだろうか。彼の前から――否、この部屋から逃げ出したくて堪らない。それでも、カレンは心の中で自分を叱咤して、なんとかその場に踏みとどまる。
恐怖の中で唯一できたのは、カイルから目を逸らすことなく、唇に弧を描いて見せること。少しでも余裕を演じられたらいい、と願った。
「一番幸せな時に、その幸せを壊すつもりかしら? ――罠とわかっていて飛び込むほど、わたしは物好きではないわ」
「――別に、そんなことを言ってはいないだろう? 勘繰りすぎじゃないのか?」
カイルの声は穏やかだった。しかし、カレンはこの場にどれほど緊張の糸が張り巡らされているのか嫌と言うほどわかる。心も身体も糸に絡めとられたように動けないのだから。
(どう、返すべき――? カイル様を牽制できるような、弱点……)
顔には笑みを保ったまま、頭を回転させる。やがて脳裏に浮かんだのは、もう一人の幼馴染。銅色の髪と紫の瞳を持つ彼女を、カイルは心の底から愛している。牽制するのなら、彼女の存在しかないと、思った。
「そうかもしれませんわね」
繕ってから、反撃に出る。
「――わたしの身をも案じるほどの甘美な優しさを、エステルは愛したのでしょうね」
――エステルの愛した部分を、あなたは捨てられるかしら?
言外に告げれば、カイルの眉間に皴が刻まれた。それに、にこりと一度無邪気を装って笑ってから、手を伸ばしてテーブルの上に置いた仮面をとる。
再び顔の半分を覆うことで視界が狭まった。けれど、仮面一枚隔てるだけでカイルの放つ緊張感から少しでも解き放たれるのなら、むしろ好都合である。
立ち上がって淑女として完璧な礼を執ったカレンは、そうしてその場を後にしたのだった。
*** *** ***
明かりが少ない、薄暗い廊下を歩く。カレンの手には、先ほどカイルから渡された紙切れが握られていた。
庭園と繋がる回廊に出ると、一度足を止める。ついで、紙切れを見下ろした。
「……ウォルター」
小さく呟く。
カレンの異変に気付いてくれた、唯一。カレンがただ一人、遠くから幸せを願っている青年。
――だから。
カレンは顔を上げ、手の中の紙を握り潰した。
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