好敵手と幼馴染の密約 (1)
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闇色の空に蒼い月が浮かぶ今宵、とある貴族の邸では仮面舞踏会が開催されていた。
会場から離れて客室の集まる一角へ赴いても、耳をすませば彼女――カレン――の耳も情感豊かで艶やかな音楽をかすかにとらえることができる。
カレンはある一室の前に着くと、顔の上半分を隠す、縁に金糸や銀糸で刺繍の施された華美な仮面を外した。
「どうぞ?」
目の前に立つ、この部屋へと誘った黒い仮面の青年へと艶やかに微笑んで見せる。それは、なぜか彼女をここまで案内した青年が、部屋の前に到着すると立ち止まったからだ。
深夜の逢瀬に誘ったのは彼。ゆえに、カレンはこういった逢瀬は不慣れで緊張しているのかと内心思い、促した。
しかし、そうではないらしい。カレンの言葉を受けた青年は、誰もいない筈の客室の扉を叩いたのだ。
すぐに部屋の中から入室を許可する旨が端的な言葉で返された。その様子に、カレンは僅かに目を丸くする。どうやら自分をここまで誘った人物は、目の前の青年ではないらしいとこの時悟ったから。
女性によっては、この罠のような逢瀬に「黒い仮面の青年を受け入れたのであって、誰かもわからない部屋の主の誘いを受け入れたわけではない」と逃げる者もいるだろう。ここが仮面舞踏会の開かれている邸であり、客室は密会の為の場所なのだと考えれば、むしろ逃げて当然ともいえる。けれども、それを熟知しているカレンは逃げることをしなかった。――相手など、誰でも同じ。夜の相手が誰でも構わなかったから。この胸を巣食う無聊を慰めてくれるなら。
青年が扉を開く。ついで室内へと促されて部屋の絨毯を踏めば、窓辺に佇む人影が確認できた。
室内は明かりが乏しく、必要最低限の照明しか使用されていない。そもそも身元を伏せて恋を交わす夜会だから、そういった気遣いを主催者がしてのことだろう。けれどカレンにとって幸か不幸か、今夜の月は大きな満月。よって、窓から差し込む月明かりがカレンを呼び出した人影の姿を浮き彫りにした。
窓辺に立つ人物の輪郭が月光に照らされる。髪色は艶やかな濡羽色をしている。
カレンの背後にある扉が閉まると同時に、黒髪の人物はこちらへと振り返った。その顔に仮面はない。だから、すぐに誰なのかわかった。
よく見知った精悍な顔を見て、わずかな動揺がカレンの心を揺さぶる。しかしカレンはその感情を悟られまいと目を細め、赤い唇に弧を描くことで心の隙を隠した。演じるように、それでいて揶揄うように言葉を紡ぐ。
「本能を掻き立てるような、魅惑的な月夜ですわね――カイル様」
まるで、あなたの瞳のような月――そう色を宿した声で囁けば、カイルは温度のない灰青の瞳をカレンへ向けた。カレンはその鋭い視線から目を逸らすことなく、むしろ艶冶に笑みを深める。
緊張感を生む視線が交わされること数拍、カイルは煩わし気に手を振って「茶番はいい」と素気無く一刀両断することでこの緊迫した空気を流す。
「突然呼び出したことは詫びる。――話がある」
そう真摯な表情でカイルが告げた。
その反応を見てしまえば、カレンは苦笑を浮かべる他ない。だって、あまりにも幼馴染が変わっていなかったから。これ以上、茶化すことはやめた。
カレンの仮面が置かれたテーブルに、二つのグラスが用意される。グラスにカイルがソファに座った状態で、あらかじめ用意していたらしき透明の液体を注いだ。拍子に、カレンの鼻孔を擽ったのは爽やかで甘い仄かな香り。どうやらカイルは果実水を二人で飲むつもりらしい。
カレンは向かい席からカイルの様子を眺め、思う。
(……本当に、変わってない)
そう感じたのは、普通ならば果実酒を用意するだろうこの場面で、彼があえて果実水を用意していたから。万が一にでも間違いがないよう――そんな危惧からだと、カレンにはカイルの意図が手に取るようにわかった。それも、幼馴染として過ごしてきた時間があるからだろう。
金茶の瞳に映る青年は、カレンの記憶にあるものよりも影を背負っている為か、少しの艶を帯びるようになった。
にも拘わらずカレンがカイルを変わっていないと捉えたのは、エステル以外の女性に甘さを一切見せないところと、生真面目なその性格が垣間見えたからだ。
それらは、カレンがどんなに引っ掻き回しても変わらなかったのだと、今、身をもって知る。
不意に蘇る記憶は、最後に仮装舞踏会で会ったエステルの姿。ああ、と心の中で呟く。――カイルもエステルも、自分と同じところまで堕ちてきてはくれなかった。それが悲しいのに少しだけ嬉しい。そのあまりに矛盾した気持ちに、自嘲が零れた。
つい一人で嗤ってしまえば、カイルが怪訝な顔をする。それはそうだろう、歓談もしていないのに嗤い出したのだ。彼の反応に気づいたものの本音を教えるつもりがないから、カレンは睫毛を伏せ「いえ、なんでもありません。いただきますわ」とグラスを上げてからそれに口をつけた。
喉を潤わせ、グラスをテーブルに置く。そして感傷を払しょくするべく口火を切った。
「それで、お話とは?」
言葉を紡ぐと、カイルは一度頷いてから返答する。
「――カレンに、謝らなければならないことがある」
「……謝らなければならないこと?」
(何故?)
理由が思い当らず、カレンは怪訝に思う。むしろ、カレンこそがカイルから謝罪を求められてもおかしくはないだろう立場である。彼にとって最愛の娘ともいえるエステルとの婚約を、カレンが破談に追い込んだのだ。酷いことをしたという自覚はある。
ただ、そうは思ってもカレンはそれについて口に出すつもりはなかった。もしカイルから謝罪を求められたとして、謝るつもりなどないから。――罪悪感がないといえば嘘になる。それでも。
カレンがそれ以上言葉を発するつもりがないのだと察したらしいカイルは、言葉をついだ。
「ああ。――カレンの実家 メイナード子爵家に圧力がかけられた発端は、俺にあったんだ」
カレンは目を見開く。予想だにしていない言葉だった。
「意味が、わかりません。ウィクリフ伯爵とカイル様の繋がりが、見えないわ」
言って、ウィクリフ伯爵の交友関係を思い浮かべる。妻として傍で見てきたカレンゆえに、邸内での交友関係くらいは熟知している。だが、どう探してもそこにカイルの存在はなかった。
それに、カイルの言葉からは、ウィクリフ伯爵はカイルが目的でメイナード子爵家に圧力をかけたととれる。カレンが知る限り、カイルと繋がりを持つ家でウィクリフ伯爵が圧力をかけたのはメイナード子爵家とクラーク男爵家の二つ。他のハーシェル侯爵家と交流を持つ貴族と圧力をかけられた二家の違いといえば、令嬢がカイルの幼馴染か否かだいうことくらいだ。では、カイルの傍にいる娘が邪魔だったということだろうか。
(……いいえ。ウィクリフ伯爵は好色だけど、男に興味はない筈。今夜も邸に若い娼婦を連れ込んでいるくらいだもの)
だから今夜、カレンは容易に夜会へと足を運べた。夫からの呼び出しがなければ、なにをしていようが口を挟まれない冷めた夫婦関係なのだ。あれだけ妄執の如くカレンを求めたというのに。
溜息を吐いて、カレンはもう一度カイルとウィクリフ伯爵についてに思考を戻す。そもそも、幼馴染をカイルから遠ざけたとして、ウィクリフ伯爵がカイルとお近づきになれるわけもない。とすると、どういうことなのか。
思考の渦にはまるカレンに、カイルが「俺とウィクリフ伯爵に直接的な関わりはない」と補足しながら目を伏せた。彼はそうして苦味を帯びた表情を浮かべ、再びカレンへと灰青の瞳を向ける。
「王弟殿下が、ウィクリフ伯爵に圧力をかけるよう命じたんだ。――俺の幼馴染を対象に」
(今度は、王弟殿下?)
どんどん出てくる登場人物。ところが、そのどれにもカレンは心当たりがない。恨みを買った覚えなどないし、それはきっとエステルもだろう。そも、爵位の高くないメイナード子爵家には王族と接点がなく、今の今まで遠い存在とすら思っていたのだ。
もう一度カイルの言葉を頭の中で繰り返しながら、思考をこねくり返す。
これまで、ウィクリフ伯爵がメイナード子爵家に圧力をかけたのは、そうすることでカレンを手に入れる為だと思っていた。だが、カイルは発端は自分だと言った。数度に渡るメイナード子爵家への圧力がウィクリフ伯爵の欲によるものだとしても、彼がカイルの幼馴染に目をつける理由は他にあったということ。
記憶の中の情報と推測から答えを導きだそうとしても、結論は見えてこない。考えてもわからないもどかしさと苛立ちに、無意識にテーブルを睨んだ。
そこに、カイルがさらなる情報を口にした。
「王弟殿下には、娘がいる」
その言葉に、カレンの脳裏に一人の少女が浮かぶ。
(名前は確か……ユーフェミア)
遠目に見たことが、あった気がする。それに貴族同士の交流をしていれば、王弟の評判も、彼がいかに娘を溺愛しているのかも噂が流れてくる。カレンはカイルの話の主軸を掴もうと、記憶から王弟、そして王弟の娘の情報を手繰り寄せ――まさか、と視線を上げた。
(でも……ウィクリフ伯爵に王弟がメイナード子爵家への圧力を命じて。今、この場でカイル様がユーフェミア様の存在を示したとなれば、それくらいしか思い当らない)
震える喉で唾液を嚥下する。それでも、緊張と動揺、困惑とが、カレンの紡ぐ声に表れた。
「……ユーフェミア様が、王弟殿下に、そうお願いした、ということ?」
手探りで問う。けれど、それにカイルは首を横に振った。それから彼は、言い出しづらかったらしいすべてを言葉にした。
「ユーフェミア様が王弟殿下に頼んだという情報はない。――もしかしたら、こちらに入っていないだけかもしれないが。……わかっているのは、ユーフェミア様は俺との縁談を望んだ。俺はユーフェミア様に、幼馴染が好きであることを話してしまった。愛娘の恋心を成就させようとした殿下は、ウィクリフ伯爵を使ってメイナード子爵家とクラーク男爵家へ圧力をかけた、ということだ」
直後、カレンは瞬きも忘れてカイルの話を頭の中で反芻した。しばらくして嚥下できた事実に、やがて嗤いたくなった。
カイルのせいで――正しくはカイルに恋をしたユーフェミアのせいで、メイナード子爵家は窮地に追い込まれ、カレンはウィクリフ伯爵に嫁がねばならなくなった。婚約もしていない段階で、純潔も奪われた。しかも、カレンはただとばっちりを受けただけ。カイルが幼馴染のことを好きだと言ったから誤解を受け――いや、カイルが好きだという相手をちゃんと調べもせず、王弟がウィクリフ伯爵に命じたから受けた、とばっちり。カレンはそんなとばっちりで心も矜持も、粉々にされた。
(そういうこと、だったのね)
妙に腑に落ちた。ウィクリフ伯爵とカレンは、メイナード子爵家が圧力をかけられる以前は互いに面識がなかった筈なのに、どうして突然かの家から圧力をかけられたのかと。不思議だった。ずっと。
しかも、カイルと親しいエステルの実家にもウィクリフ伯爵は一度、圧力をかけた。新興伯爵風情が、歴史の長い名門侯爵家の嫡男が溺愛する幼馴染の家に。
けれどそれも、王弟の後ろ盾があったからこそ、罪に問われない自信ゆえに行えたと。
(そういう、こと、なのね……)
泣きたい気がするのに、嗤いが漏れそうになる。普通ならば、ここで怒りや憎しみの込められた罵詈雑言をカイルに浴びせるのかもしれないけれど、カレンはそうしなかった。呆然としたまま、ふっと笑みを零してしまう。
カレンの視線の先で、カイルが深く頭を下げる。
「この件に関しては、本当にすまなかった。俺の落ち度だ」
それに、カレンは無感情に微笑んだ。
「頭を上げてください、カイル様。正直、謝られても困りますわ」
「許してほしいわけじゃない。だが、人として過ちを犯したならば、誠意をもって謝るべきだ」
「……本当に、変わりませんね」
ぽつりとカレンが呟けば、カイルは頭を上げた。ひたすらな真っ直ぐな眼差しに、カレンは適当に流すように言葉をつぐ。
「どのみち、過去は変わりませんわ。そして現在も。ウィクリフ伯爵に見初められなくとも、他の好色貴族の目に留まったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。どれも仮定でしかありません。失ったものも戻ってはこないし、わたしの心の傷が謝罪で癒えるものでもありません。――それは、カイル様が一番よく知っているでしょう? ゆえに、わたしはカイル様を罠にはめたことを謝るつもりなどありません。――この謝罪も、必要ないわ」
カイルは目を瞠ってから、カレンの言葉を受け止めるように「そうか」と囁いてそれを眇めた。そしてどこか歪んだ笑みを浮かべる。
「……確かにな。婚約破棄に関しておまえに謝られても、俺の意思は変わらない。カレンの言う通り、過去も現在も変わらないからな。罠にはめたことに関しては、俺もおまえを許すつもりはない」
彼の言葉を受けたカレンは「それでいい」というかわりに、刻んでいた笑みをカイルが嫌忌する色を宿した艶やかな笑みに変えた。
カイルがカレンを許さなくても、構わないとカレンは思う。復讐を遂げるのも、構わない。もう、自分は落ちるところまで堕ちてしまった。失うものなどなにもないのだ。
そして、カレンには復讐の炎を燃やすカイルが羨ましくもあった。
今のカレンにとって、幼馴染二人は憎しみの対象ではない。自分の企てが成功したら、心を失ったように空虚になってしまったから。――同じところまで堕ちてほしいと、あんなに願っていたのに。自分と同じ絶望を味わわせたら、きっと慰めになると思ったのに。
いっそすべてを失ったなら、心も身体も楽になるのではないか――少し前まで、カレンはそう思っていた。しかし、現実はそうならなかった。ただ、空っぽになっただけ。胸に空洞が空いただけ。
たまに、カレンはかつての状況について思い浮かべる。――もしウィクリフ伯爵の圧力にメイナード子爵家が耐え切れなくなった時、幼馴染達に助けを求めていたら、と。過ぎ去った時間の仮定話など、いくら考えても仕方がないとわかっているのに、考えてしまうのだ。
きっと、幼馴染達はカレンが助けを求めれば、自分のもてる力で、全力でウィクリフ伯爵の手から守ってくれただろう。
でも、カレンは助けを求めることができなかった。年下の娘へは、姉としての立場という小さな矜持から。年上の青年へは、淡い初恋――幼馴染以上恋人未満――から。あの男に抱かれたなどと、知られたくはなかった。恥ずかしくて、悔しくて、惨めで。だから心内に留め、二人の幸せをそっと見守るつもりだった。
けれど――幸せな二人を見ていると、少しずつ黒い感情が積もっていった。羨望が憎悪に変わり、気づかれたくなくて隠した事実も、どうして気づいてくれないのかという憤りに変わっていった。気がつけば、その感情を止められないところまできていた。
すべてを自分から投げ捨てれば、楽になれると信じて疑わなかった。怒りと憎しみを糧に、その時のカレンは生きることができた。
だが、糧をなくした今、空しくて堪らない。守るものを失った。自分の居場所も失った。結果、楽になれるどころか心が空虚になっただけだった。
なにもかもを失って過ったのは、自分がなぜ生きているのかという疑問。今のカレンは、ただ惰性で生きているだけだ。
そんな空っぽの心では、カイルに負の感情をぶつけることも、カイルのように復讐に燃えることもできるわけがない。そんな気力を、有してはいない。
改めて自覚した虚しさに、一度溜息を吐くことでカレンは気持ちの切り替えをはかる。それから今の自分から目を逸らしたくて、カイルとの逢瀬をさっさと切り上げようと考えた。
「用件は、それだけですか?」
この件に関しては、もうこれで終わりにしよう。そう告げるかわりに、話は終わりとばかりに言葉を紡ぐ。
そうして、カレンがカイルの反応を待たずに腰を上げようとした時。ところがカイルは「――いや」とカレンを引き留める。ついで、彼は真摯な表情で言葉をついだ。
カレンは浮いた腰を仕方なくソファへ落とし、青年へと続きを急かすように視線を向ける。それに答えて、カイルは告げた。
「罪滅ぼしに、おまえの願いを、一つだけ叶えよう」と。
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