侯爵様の弟③ <初恋の行方>
イーミルがキング侯爵邸の庭園に通い始めて五日が経った。
今日も今日とて彼は邸の中へと顔を出すことなく、エステルと出逢った庭園の一角に訪れた。
一般商人が利用する宿に連泊している為、慣れない硬い枕で少しばかり肩が凝る。それでも寮で集団生活をしていた彼にとって、肩こりを除けばそう苦でもなかった。
なにより、将来的には農芸化学者として自立し、もらう予定の農地にこじんまりとした一軒家を建てて生計をたてようと思っている。したがって、こんな生活も悪くないとすら思う。
何気なく実験的に植えた香草の一枝に指を滑らす。
(――順調だな)
とくに病気にかかることなく、すくすくと成長している様に、イーミルは口元を綻ばせた。
その香草は、つい先日、エステルと共に植えたものだった。――ゆえに、今のイーミルにとってはなににも代えがたい大切なものだ。
(そういえば……今日はエステル、遅いな)
イーミルは時間を計るように空を見上げる。太陽はまだ頭上にあり、昼を少し過ぎた辺りだろうとあたりをつけた。
「……仕事が忙しいのかもしれないな」
そう口にしてみたが、エステルに対して疑問を抱いていないわけではなかった。
この数日間、いつだって昼間に彼女は庭園にいた。はじめは食品室女中だからだろう、と思っていたが、彼女が女中服を着ているのを見たことがない。……では、彼女は誰、なのだろうか?
……今まで、深く考えなかった。それは、なんとなく、嫌な予感がしたからだ。そして、今度もその可能性を無意識に認めることを拒み、頭の片隅からも排除した。
彼女が誰であったとしても、会いたいという気持ちは変わらなかった。
そうして、香草の葉を撫でながらエステルを待っていると……。
「そんなところで何をしているんだい?」
よく知った懐かしい声が背中に投げかけられた。
イーミルは目を見開き、声の主へと振りかえる。――そこにいたのは、イーミルによく似た銀髪を持つ壮年の男。口端をあげたのだから、おそらく男は笑ったのだろうが、分厚い瓶底メガネで表情がうまく読み取れなかった。それでも、男が自分の身内だとわかるから、イーミルは気恥ずかしさゆえの憮然とした態度で挨拶する。
「別になにもしてない。――……おかえり、父さん。いつ帰ってきたんだ? 身体は大丈夫なのか?」
さりげない気遣いに、父は瓶底メガネを押し上げると、目頭を押さえた。
「ああ、心配してくれてありがとう。丁度今帰ってきたんだ。セシルが療養地まで迎えに来てくれてね。イーミルもおかえり。――本当に……大きくなったねぇ」
間延びした声をかけながらそっと涙を拭う姿は、本当に昔と変わっていない。セシルによく似た翠の瞳を潤ませ、目尻の涙を素早くふき取って、また瓶底メガネを定位置に戻した。ついで、イーミルの頭を優しく撫でる。
まるで子どもに接するかのような行動にイーミルは鼻頭に皺を寄せるが、手を払うことはしない。父が家族に甘いのはよく知っていた。
「イーミル、父上。こんなところで立ち話をするより、早く邸へ入りませんか? 二人に紹介しなければならない女もいますし」
苦笑しながら二人へと歩み寄ってくる兄 セシルに、イーミルは視線をやった。
記憶の中の兄よりも、穏やかになった気がした。
会ったのは久々だが――確か、前回会ったのはセシルが従騎士をしていた頃だろうか。爵位を継ぐことについて一族で集まる機会があった時に顔をあわせたはずだ。
……その時の兄を、イーミルはよくおぼえている。
騎士の心得に実直な一方、王宮で目にする貴族の不貞に嫌悪感を露わにしていた。彼の口からはっきりとその言葉が出た事はなかった。けれど、一度だけ、セシルはイーミルに呟いた。
『騎士になったら、貴族社会から逃げられない。――イーミルの選択は正解、かもな』
自嘲するように。それでいてどこか遠くをみるように。
兄は潔癖だったのだと思う。それでも、その容姿のせいで、彼は信念を貫くことがひどく難しい環境にいた。美しさや財に群がる花。権力にものをいわせようとする貴族も少なくなかった。セシルがひとえに逃げられたのは、王宮に修行と称して滞在していたからに過ぎない。――つまり、彼が王宮から戻れば、いつ王家や公爵家から結婚の打診を受けるかわからない状態になる、ということだ。
まるで自分の未来を諦めたような兄に、心苦しさをおぼえた。
そんな兄が――。
今、翠の瞳に優しさを浮かべ、嬉しそうに細めている。
兄を変えたのは、義姉、なのかもしれない。
もしそうなら、いくら母と交わした手紙で痛ましい兄だとしても、結婚に反対はできない。
胸中で考えあぐねていると、セシルは「行こう」と邸を指差した。
扉を開けた時、出迎えたのは年老いた執事だった。数年ぶりに会った彼も、父のように顔に皺を増やしていた。
「おおおお帰りなさいませ、旦那様、大旦那様、イーミル坊ちゃま。お元気そうでなによりでございます」
感激するように何度も頷いた執事は、三人の荷物を奪うように受け取ると、急に声を張り上げた。
「奥様ぁ――――っ、エステル様ぁ――――っ、お戻りになりましたよぉ――――」
老体からよくでるな、と感心したくなる声に、三人は唖然とした。
一番最初に意識を戻したのは、イーミルだった。
息を呑む。
(――エステル、様?)
よく知った名前。
ここ数日間、イーミルが会いたいと願った女の名前。
なにかを予期したかのように、嫌な汗が背筋を伝う。
――考える事を拒んでいた。放棄していた。それは……予想、していたから。
それでも信じたくなくて……もしかしたら、同名なのかもしれないと思いたくて、イーミルは瞳を揺らして足音へと視線を向けた。
「おや。セシルの婚約者殿はエステルという名前なのかい?」
父がほくほくと問う声が聞こえる。
「はい。クラーク男爵家のご令嬢です。一緒にいると楽しくて、お菓子作りが好きで、とにかく素敵な婚約者です」
兄が自分によこした手紙のごとく、惚気ているのが聞こえる。
二人の会話は雑音のように耳を通り抜ける。
イーミルの鼓膜をつんざくのは、自分の心音と少しずつ大きくなる足音。
芳しい、甘いお菓子のにおいが、した。
「おかえりなさいませ、セシル様」
お菓子の入った籠を両手で抱えた女が、厨房方面の廊下から駆けてくる。
一つに纏められた銅色の髪と紫色の瞳を持つ、イーミルと同世代の娘。
イーミルは瞠目した。
頭の片隅で”ああ、やっぱり”と思うのに、心が拒否したかのように静止する。目の前でエステルとセシルが語り合っているのを、呆然と眺めていた。
「今日お帰りだときいたので、おやつを作ってたんです」
にっこりと笑ったエステルに、セシルは頬を染めて笑みを返す。
「おいしそうだな。後で皆でたべよう」
ふと、セシルはなにを思ったのか、不意打ちのようにエステルに軽く口づけた。
拍子にエステルが顔を紅潮させた。
セシルはエステルからお菓子の入った籠を奪うと、イーミルと父へと向かいあわせる。
「紹介する。父と、弟のイーミルだ。父上、イーミル、彼女は私の婚約者のエステルです」
エステルはイーミルをみとめると、僅かに目を見開いた。そうして、優しく微笑んで膝を折る。
「はじめまして、エステル・コーネリア・クラークと申します」
優雅な動作。慣れた貴族の挨拶だった。
(今日は、きれいなドレスを着てるんだな……)
イーミルはそんなことをぼんやりと考えた。それまで、泥にまみれて安物の服を纏った彼女しかみた事がなかったのだ。
(こうしてみると、ちゃんと貴族の令嬢じゃないか)
疼いた心が震える。胸の苦しさで顔が歪みそうになるのを、自嘲することで耐えた。
「かわいらしい娘さんだなぁ。うん、セシルが惚気るのもわかるよ。よかったな、イーミル。優しそうな女が義姉で」
気の早い父の言葉が、今は胸に痛かった。
(――泣くな。耐えろ。笑え)
それだけを自分に強く言い聞かせ、イーミルはなんとか笑って見せた。引き攣ったかもしれないが、それも兄の惚気と父の言葉ゆえだと誤魔化せるだろう。
「ああ、そうだな。高慢ちきだったらどうしようかと思った」
いつも通りを装うための憎まれ口を言うのも、辛かった。
エステルへと、つい、視線を向けてしまうと――彼女と目があった。
イーミルは唾を呑み込み、青磁色の瞳を揺らす。
――心が、揺れる。
ああ、そうか。自分は、彼女に――恋をしているのだと、自覚した。
もう誤魔化せないと、思った、時。
「あなたっっ! イーミル! やっと帰ってきてくれたのですね!?」
緊張感のない母の声が邸に響く。
皺が少し増えた気がしなくもない顔に、”寂しかった”という気持ちを隠すこともせずに母は走ってきた。
そして、その勢いのまま父の首にかじりつく。
その様をはじめて見るエステルは呆気にとられたようだ。きっと母は、それまでまともな女主人を装っていたのだろう。しかし、そんな母の努力もこの一瞬で水泡に帰した。
セシルはエステルへと苦い笑いを向ける。エステルが眉尻を下げて微笑んだ。
「あなた! セシルがやっとお嫁さんを迎える気になったのですっ。だから、やっとわたしもあなたのもとへ行けます! いいえ、行きます!!」
年甲斐もなく頬ずりする両親に、セシルは溜息をつくが、彼が気づいていないだけで、実は良い勝負だとイーミルは思う。
(他人のフリ見て我がフリ直せよ、兄貴)
ささくれ立った状態の心で毒づいた。
「はじめまして、ではありませんよね? セシル様の弟さんだったんですね」
両親が二人だけの世界をつくっている中、エステルはイーミルへと向き直った。
「ああ、言わなくて悪い。あんたも、兄貴の婚約者だったんだな。服装が服装だったから、女中かと思ってた」
苦い感情に蓋をしてイーミルが言うと、エステルは困ったような笑みを漏らした。
「あー、えーと、うん、なんていうか……よく言われます」
その言葉に隠された意味は、彼女とセシルの恋の履歴を知るものしかわからない。とりあえず、エステルは公表したいものではなかった。ここでまで――極端だのじゃじゃ馬だの認識されるのは、いささか辛い。
エステルの心中を知らないイーミルは長い溜息を吐いた。
諦めなければいけないと、心ではわかっていた。
だが、幸せをかみ締める兄に、嫉妬する自分がいた。
どうしようもないと理解しているのに、自覚した途端失恋した事実を、受け止めきれないでいた。
それでも、義姉として、彼女と向き合うために。
イーミルはエステルへと右手を差し出す。
「よろしく」
そう言うと、エステルも右手を伸ばした。
「よろしくお願い――……」
しかし、エステルの言葉は最後まで続かない。
エステルの右手はイーミルの右手にひっぱられた。
「――え」
そう呟いたのは、誰だったのか。
エステルを引き寄せたイーミルは、彼女の頬に口付けをした。家族愛を確かめるような軽いものではなく――少しばかり長く、執拗だった。
吸い吐くようなそれから解放された時、イーミル以外の誰もがぽかん、と一時停止していた。
その様子に満足したイーミルは、いたずらっ子のように笑う。
「じゃあ、俺は荷物片付けてくる」
言って、その場を立ち去った。
取り残されたそこに漂う、絶対零度の空気。
顔を赤らめて口づけされた頬を押さえるエステルに、セシルは冷ややかな笑みを向けた。
「エステル、手、どかそうか。拭けないから。――ああ、そうだ。イーミルと知り合いだったんだな。ははは、家族と仲よくなってくれて嬉しいけど……こんなに深くよろしくしなくてもいい」
「せ……セシル様……」
青ざめるエステルと青ざめさせるセシル。
「ははは、イーミルはおませさんだなぁ」
「……あなた、あの子ももう十九ですから」
少しばかりずれたやりとりを交わす夫妻。
混沌としたその場に、使用人の誰も近づこうとはしなかった。
*** *** ***
イーミルは自室の寝台に腰を下ろす。
昔暮らしていたそこは、何一つ変わってはいなかった。
いつ侯爵家で暮らしてもいいように、セシルも母もそのままにしていたのだ。
――けれど。
もう、イーミルは侯爵家に戻る事はないだろう。
「はは……まさか、兄貴の婚約者とはな」
片手で両目を覆う。鈍く痛む喉が嗚咽を漏らそうとするが、堪えようと唇を噛んだ。
俯く。
――もしも、など意味がない。そんな仮定話、意味がないと、わかっているのに。
考えてしまう。
(――もし、兄貴と出逢う前に、俺と出逢ってたら、どうなってたんだろう?)
イーミルは苦笑した。
そして―― 一筋だけ、涙を流した。
後に、イーミルは花嫁になる彼女に、鈴蘭の花を贈る。
幸せの訪れを花言葉に持つその花に、秘めた気持ちをのせて――。