侯爵様の弟② <謎の穴と謎の女>
それに効果音をつけるなら――ズボッッ、がふさわしいだろう。
キング侯爵邸の庭園の一角。そこで、なにやら一人の青年が大皿程度の直径の穴に脛まで片足を突っ込んでいた。
彼は近視だった。けれど、「すぐに汚れる」という理由から必要最低限しかメガネを着用することはなかった。
結果、彼はまぬけにも穴に落ちた。
「~~くそっ! 誰だ!? 勝手に穴なんて掘ったやつは!」
彼――イーミルはこめかみに青筋を浮かべながら叫ぶ。
イーミルは兄から”結婚する”という報告を受け、急遽帰省した。随分帰っていなかったことを心苦しく思いながら門をくぐり、久々に再会する家族を脳裏に浮かべれば、気まずさと気恥ずかしさで玄関まで行くのに躊躇いをおぼえた。ゆえに、気分転換になれば、と庭園を散策しようとしたのだが……なぜか、穴にはまる不思議。
「許可は取ったのか、許可は!」
苛立ちながら呟くと、背後から返事があった。
「……一応、取りました。――えーと、すみません?」
疑問符が最後につけられたそれに、イーミルは首をめぐらせた。
――そこにいたのは、銅色の髪と紫色の瞳を持った女。服装は簡素なものであり、泥で汚れていた。髪は適当に纏められ、片手にシャベルを持っている。
(犯人はこの女か!)
気づくと同時に、彼女を観察する。
(……休暇中の女中か?)
貴族がおおよそ着ないであろう簡易で安物っぽい装いからそう断じた。
訝るような視線を受けつつ、女中らしき女は眉尻を下げながらも愛想笑いを浮かべた。
「えぇと、お客様、ですよね?」
問われ、イーミルは視線を彷徨わせてそっぽ向く。……家族と顔をあわせ辛くて散策していたのだ。ここで客だといえば、邸の中へと案内されてしまうだろう。ゆえに、曖昧に答える。
「……別に」
目の前の女は目を瞬いた。
『……別に』
こう答えた庭園の穴に足を突っ込んだ謎の男に、返す言葉も見つからないのだろう。
「……その穴、私が掘りました」
「だろうな」
なぜか自白をはじめる女に、イーミルは素気なく返す。
すると、彼女は苦笑した。
「お召し物が汚れてしまいましたよね? 代用できるものを探してきますので、邸にあがっていってくださいませんか?」
いまだ穴に足を突っ込んだままのイーミルに手を差しのべた女は、引くようにして穴からの救助を試みた。
手をとられたイーミルは目を丸くしながら、引かれるがままにたたらを踏む。
(――あたたかい)
女の手の温度と包みこむような感触に頬を染める。それまで彼女・恋人という存在とは無縁だったのだ。もはや母親のぬくもりも忘れるほど家を離れていた彼は、こんな感触を知らなかった。
不意に、動悸がした。
はじめての、胸が疼くような感覚。全身の血液が沸騰したかのように顔に集まり、すごい速さでめぐるのがわかる。
「行きましょう」
きっと彼女は無意識に離したのだろうが、さりげなく繋がれた手が離れていくのを、イーミルは寂しく思った。
さっさと前を歩いて行く女。彼女はやがて佇んだままのイーミルに気づき、首を傾げて駆け戻ってくる。
「……あの、足、怪我しましたか?」
窺うように下から間近で見上げられ、イーミルは耳まで真っ赤にさせて後ずさる。
「わぁあぁあ!」
「え、あの……怪我を」
「してない! 断じてしていない! だから、邸へ行かなくても大丈夫だ! 問題ない! ああ、問題ないとも!」
「でも、お召し物が……」
「服は汚れるものだ! 着ているだけで汗を吸い込む! 泥だって吸い込む!」
「…………はぁ?」
女は眉間に皺を刻み首を捻ったが、イーミルはそう答えるだけで精一杯だった。
―― 一目ぼれ、なのかもしれない。
(いやいや、早い。早すぎるだろう、俺)
そう自答してみる。しかし、否定しきれない自分がいた。
単純に、穴に落ち、助けられただけで何ゆえ? と思う人も多いかもしれないが。イーミルには、それだけでも十分だったのだ。
彼は、天啓のような容姿を生まれながら持っていた。銀の髪と青磁色の瞳に惹かれ、例え侯爵家の次男であっても、群がる女は少なくなかった。恋に落ちない娘も勿論いたが、一目イーミルを見て、驚いた様子を示すのは当たり前だった。見惚れるのは、ごく普通だった。それが、いつしか鬱陶しくも思い、見た目と中身の違いを嘲笑われることが怖くなった。……兄 セシルのように社交術を身につけ、巧みに行使できたら、と願わない日などないほどに。
けれど。彼女は、初対面であるイーミルに対して驚いた様子を見せなかった。見惚れた様も見せず。穴にはまったイーミルに”うわー”というなんともいえない感想と後ろめたさ、そして申し訳なさを宿した愛想笑いを浮かべて。容姿ではなく、彼の中身を捉えた。
それが、無性に嬉しい。
イーミルは高鳴る鼓動を押し隠し、「とにかく、気にするな」とだけ言う。素気なくなってしまったかもしれない。
女は困った顔をした。
静かな視線を交わすだけの冷戦のようなやりとりの末、ついに彼女は頑な彼に根負けした。それでも、「ごめんなさい」と、深々頭を下げて謝った。
「俺はイーミルだ。…………名前は?」
穴の前にしゃがみこむ女に尋ねる。
「エステルです」
彼女はイーミルに視線を向けることなく、目の前の穴をシャベルでつつきながら答えた。
イーミルは彼女の名前を聞けたことに満足した。だが、それだけで会話を終わらせることは、関係を終わらせることにもなりかねない。何度も迷ったが――エステルの隣に同じようにしゃがんだ。
少しでも彼女のことを知りたいと、思った。
「……なんで穴掘ったんだ? 落とし穴か?」
素朴な疑問に、エステルは唇を尖らせて首をふる。
「落とし穴を掘る理由がありません。私、そんなに子どもではありませんよ。……土の質を調べようと思っただけです」
エステルは掘った穴に手を入れ、土をつまんだ。
イーミルは眉根を寄せる。
「土の質を調べてどうするんだ?」
庭師ならともかく、女中がやるような仕事ではない。私服でいるあたり、今日は非番かもしれないが、彼女のやることではないのは確かだ。
エステルは困ったように笑った。
「私、お菓子が好きなんです。で、だったらいっそ極めようと思って。そうしたら、今度はお菓子作りに使う香料にもこだわって、自分で栽培してみようと思って。……まぁ、呆れられることも多々ありますが、自己満足なので、そこは追求しないでください」
苦笑……しているはずなのに、妙に楽しそうな笑みに、惹きつけられた。
(職人魂というべきか? 食品室女中だったら頷けるな)と感想がわいたが、そんなことはどうでもよかった。
つい、イーミルも笑みをこぼす。
(俺と、似てる)
そう思った。
侯爵家の次男でありながら、騎士になることを望まずに農芸化学者を目指す自分も、十分変り種なのだ。
「だったら俺の専門分野だ」
イーミルも土をつまみあげる。驚いたように目を丸くするエステルにいたずらっ子のような笑みを見せた。
「品種改良やら農薬の勉強してるからな」
「っっ! ――よろしければ、ご教授お願いします!」
瞬時にして紫の瞳に尊敬の念を宿し、目を輝かせて懇願するエステルに、イーミルは笑う。
……異性とこんな風に話をしたのは、初めてだった。話が合うことも珍しい。楽しいと、思った。
だから、心地がよかったのだ。
この関係を維持させたいと思うくらいに。
それから数日間、イーミルは邸に顔を出さないまま、庭園に足を向けることとなる。
簡単な農学を教えるという口実のもと、エステルと逢瀬を重ねるために。
邸に足を踏み入れることで彼女に侯爵ゆかりの者だと知られることを恐れ、関係が変わってしまうことが怖くて――結局邸には帰れないまま。
その時は、彼女が自分の義姉になるなんて、思いもしなかったのだ――……。