12. エピローグ ――公爵邸の一室にて――
レースのカーテンから漏れる光でほのかに明るいものの、それでも薄暗い一室に、二人はいた。
決闘後、セシルは熱ゆえに身体を自力では支えられなくなり、意識を失った。
色恋上等の恋物語ならば、やっと想いが通じ合った二人は抱きしめあいながら愛を囁き、口づけを交わす――くらいはするところだろう。
だが、そこはセシル。へたれと間の悪さと不憫さを併せ持つ残念な男だった。
だからこそ、彼は美貌と地位、権力、財力を併せ持つのだろう、と今のエステルは思う。
(以前、セシル様に神様は四物も与えて不公平だわ、って思ってたけど…………残念なところ三つを差し引くと、二物なかったのね。神様はさりげなく公平なのね)
一人頷きながら、体温計を用意する。
倒れたセシルは、公爵邸から一室を与えられ、寝台にて臥せっていた。
顔をほのかに赤らめ、熱で目がとろりと垂れている様はとても愛らしかったりする。
エステルはそんな彼を使用人たちに任せることなく、ずっと傍で看病していた。医者にはみせたし、時々ウォーレスも手伝いに来てくれるため、負担に感じることは一切ない。
「さ、セシル様、体温測りましょうねー」
看病しやすいようにと設置された椅子に腰掛けたまま、子供に接するように寝台へと振り返ると、セシルは半目で眉を寄せた。
「……子供扱いしないでくれ」
拗ねてみせるセシルがかわいくて、ついエステルは轍を踏む。
「はいはい、大人しくしましょうねー」
そう言ってエステルは指で彼の唇をなぞる。
ぞくり、とセシルの背中に悪寒とはまた違う寒気が走ったが、エステルはそれに気づいた様子もなかった。
「ほら、体温測りますよ。あーんしてください」
エステルが首を傾げて促せば、セシルは子供扱いを甘んじて受けることを決めた。しかし、それならそれで不満もある。
「……ここは、おでこで測るべきだと思う」
子供扱いするなら、おでことおでこをあわせて熱を測ってもいいと思う。
そう主張すると、エステルは彼が”思う”の”う”と言った隙に体温計をねじ込んだ。
「それじゃ、正確な体温は測れません」
「……」
セシルは不満そうだったが、エステルはにっこりと笑い返した。
「微熱くらいですね」
エステルは体温計を振って水銀が示す値を目盛りより下げると、寝台横の机に置いた。
「じゃあ、今週中にここを出立できそうだな」
セシルはエステルの方へとごろんと向き直り、エステルへと手を伸ばして彼女の頬を覆う。
「……早く結婚したいな」
呟くような甘い声。
エステルは頬にある熱い手に自分のものを重ねた。
「……婚約したばっかですよ」
照れ隠しに唇を尖らせる。
すぐにセシルから上目遣いで「……嫌か?」と問われた。
「…………嬉しいに決まってるじゃないですか」
顔を真っ赤にして答えると、セシルは満足そうに微笑んだ。
そうして、会話は結婚式のドレスの話に移行した。
「……悔しいが、公爵様の夜会にエステルが着ていた淡紅はよく似合っていた」
そう言ったのはセシルだ。
「選んだのはカイル様です」
気まずく感じながら口にすれば、セシルの眉間に二本の皺がくっきりと刻まれる。
「…………色はよかったが、胸元が爪一つ分開きすぎていた。――まだまだだな」
一体なんの張り合いだ。しかも、内容が細かすぎる。
エステルは苦笑した。
「じゃあ、セシル様の見立てではどんなものが良いと思いますか?」
首を傾げてみせる。
セシルは紫の瞳を真っ直ぐ見つめた。真剣さと甘さが翠の瞳の奥に宿っているのを認め、エステルは胸を高鳴らせながら言葉を待つ。
「うーん、何色にでも染まる白か……エステルには桃色も似合うしなぁ」
「でも、キング家の紋章は青色ですよ?」
いっそキング家に染まった色のドレスでもいいのではないか、と口添えすると、セシルは深刻そうに一つ頷いた。
「……いっそ、紋章を桃色に変えるか」
「……………………」
一時の絶句後。
「いやぁ――――――――――っっ!!」というエステルの絶叫が公爵邸に響き渡った。
紋章色、桃色。金、銀、赤、青が好まれる色であり、その文化において忌み嫌われている緑や黄は少ないながら、わずかなりとも存在していた。だが。だが、しかし。
(桃色なんてっ、見た事も聞いた事もないわっっ! というか、桃色はどうかと思うわ!)
顔面蒼白になりながらエステルがセシルの顔を見下ろす。彼は会心の笑みを浮かべていた。
「――!!」
これは本気だ、とエステルは悟った。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ! 誰がなんと言おうが、威厳もへったくれもない桃色は嫌だった。貴族社会を好ましく思わないエステルであるが、さすがになけなしの矜持が働く。
紋章をみる者を笑わせたいわけでも呆気にとらせたいわけでもない。そんな願望、エステルはまったくもって――ない。ゆえに、必死に説得を試みた。
「セシル様、代々継承してきた紋章です。思いつきで変えるなんて言語道断です」
「時代は変わったんだ。その象徴にもなるかもしれない」
刹那、(だめよ! セシル様は病んでる!! 熱に浮かされておかしくなったんだわ!)とエステルは確信した。あの妙にあたたかく細められた目――改め、生あたたかく細められた目をみれば一目瞭然だ。
……ここで妥協はできなかった。どんなに彼を好きでも、受け入れられないことがある。
「――セシル様、そんな理由で紋章色の変更を申請したところで、紋章官も王宮の方々も承認しません」
眉尻を吊り上げて近い未来の旦那様を諭せば、セシルは逆にしゅん、と眉尻をさげて引き下がった。
「そうか……」
しょげた姿は耳と尻尾を垂らす犬のようで、どうにも慰めたくなる――が、今回ばかりはエステルも甘い言葉を喉の奥へと押しやった。
かわりに、椅子から腰をあげ、いいこいいことセシルの頭を撫でる。拍子に顔と顔が間近となり、まるでエステルがセシルに迫っているようになってしまった。
翠の瞳と目があうと、エステルは湯気がでるかのごとく、顔を紅潮させる。
「あ、あの――、んっ」
エステルが後頭部にセシルの手を感じた直後、唇に柔らかく熱いものが重なった。
――口づけだ、と気づき、動揺したが、心地よさに目を閉じた。
そう時間が経たない内に唇は解放される。啄ばむように離れていく熱に、わずかに切なさをおぼえながらエステルはゆっくりと目を開けた。
まだ吐息がかかる距離で、セシルはとろけるような笑みをこぼす。
「――二回目だな」
彼の言葉で、初めての口づけが自分だけの記憶ではないことを知る。
「……おぼえてたんですね」
怒る気になれず苦笑すると、セシルははにかんで笑った。
そうして、エステルの腰へと腕をまわし、引き寄せた。
エステルはセシルの胸板に頬を寄せる体勢になる。腰と背中にまわされた両腕ゆえに、身動きがとれなかった。
「――本当に、無事でよかった」
吐息のような声にくすぐったさを感じ、エステルは身体を震わせる。
「セシル様も、怪我がなくてよかったです」
呟けば、髪を梳くように頭を撫でられた。
――こんな風に、互いの熱を感じられる場所にいられるなんて、思いもしなかった。
安堵と緊張、近くにいるのにまだ足りない感覚が心を占める。縋るようにセシルの夜着を握った。
「……エステル、カイルから何かされなかったか?」
完全に消化されたわけではない不安を滲ませ、セシルは囁く。
エステルは安心させたくてすぐに頷こうとした――が。
ふと脳裏に浮かんだのは、男爵邸にいた時のこと。
カイルはどうやってエステルに睡眠導入剤を飲ませたのか――。
エステルは口を引き結んだ。『何もされていない』わけではない。かといって、セシルにとって『何かされた』の部類に入るだろうか。
(入る……かしら……。普通、入る……わよね? でも、もし入っていなかったら自爆するし……)
迷った。とめどなく迷った。人生こんなに迷うことがあるだろうか、というくらい迷った。
ついに、セシルはなにかを感じとったようだ。彼は「……エステル?」と訝しげに名を呼んだ。
「はいっ」と勢いよく返事をしたエステルは、観念する。隠し事はしたくなかったし、そもそも下手なのだ。白状するなら早い方がいい。
「……睡眠薬を、飲まされました」
それでも、どの方法かを告げないあたり、往生際が悪いのかもしれない。そう自覚しながら、セシルの返答を待つ。
「ああ、そういえば、エステルの部屋に小瓶が落ちてたな」
そこで、不審に思ったセシルは眉根を寄せた。
普通、気づかれないように薬を混入したい場合、小瓶を相手の目に届く場所に放置することはない。では、うっかり落としたのか? ――答えは否、だ。蓋が外れたまま落ちていたのだから。
相手が薬を自ら進んで飲むことはない――つまり。
「……エステル、どうやって、飲まされた?」
エステルは、瞬時にして部屋の温度が絶対零度まで下がった気がした。
(ああ、花瓶に活けた花、触っただけでバラバラになっちゃうだろうな……)
現実逃避したくなり、そんなことを考える。
「エステル、怒らないから、いってごらん?」
口調はやわらかい。が、声は空気同様絶対零度。
エステルは唾を呑み込んだ。逆らってはいけない、と本能で察する。
(どうしようどうしよう、言っても言わなくてもまずい気がするわ……)
冷や汗が流れるのを、こめかみや背筋で感じながら、覚悟を決める。
「……く、口移しで」
答えた声は、まさに蚊の鳴くような声。ここに蚊がいてくれたら、エステルの言葉をかき消してくれただろう。なぜにいない、蚊。
「ふーん」
先ほどとは違う、なんの感情も感じられない声がエステルに降ってきた。
怖くて顔が上げられなかった。
気まずい間に、身を縮ませていると。
エステルの視界が反転する。
「え」という呟いた時には、セシルの下にいた。視線の先にはエステルを見下ろすセシルがいる。――つまり、組み敷かれているのだ。
ぽかん、と目を丸くするエステルに、セシルは妖艶に微笑んだ。
「カイルには許して、私には許さない――ってことは、ないよな?」
「え、その、あれは、不意打ちで……」
エステルは動揺を隠し、引き攣り笑いを浮かべながら穏便に済ませようとした。
が、それもセシルが親指でエステルの唇をなぞるまで。
一瞬にして顔を真っ赤にしたエステルは、セシルの胸を必死に押す。
顔にセシルの淡い金の髪が触れ、くすぐったい。
「せ、セシル様、落ち着いてっっ! 実はまだ熱が全然まったく下がってないんですね、そうなんですねっっ」
焦りながら宥めようとすると、セシルは艶冶に口角を上げる。
「かもしれない。――だから、私の熱を受けとってくれ」
唇に添えられたセシルの指が、エステルの口を少し開かせた。
それ以上抗う暇もなく、セシルはエステルに口付ける。
「ん、んんっ」
開かれた唇から入ってくるセシルの熱に、エステルは眉尻をさげて目を瞑った。
絡めとられ、すべて奪われるような感覚に、頭の中が朦朧とする。もう、何も考えられなかった。
呼吸が思うようにできず苦しい。酸素を求めれば、口づけによる水音が室内に響いた。
何度も角度をかえられて求められた。
「好きだ、エステル」
息をつぐ隙に紡がれた告白。
「私も、好きです」
エステルも囁くと、すぐに深い口づけが再開された。
*** *** ***
「…………うわぁー」
独りごちたのは、扉の隙間からこっそり覗いていたウォーレス。
セシルの看病を手伝うため、夜会が終了してからも公爵邸に残った彼は、今、エステルの手伝いをしようと部屋を訪ね――ようとしたところだったのだ。
かれこれ暫く二人の会話から色事まで見るはめになってしまったが――。
(いや、なんていうか……エステル嬢とくっついてもくっつかなくても、セシルは壊れたってことか……)
親友ながら、少しだけ切なくなる。
あの『紋章色を桃色』発言は痛かった。甘ったるい桃色の空気も確かに耐えがたいが、これから夫婦になるあの二人にそこは文句はつけまい。だが、紋章の件は、一般論として文句をつけたい。
(エステル嬢がとめてくれてよかった……)
心からそう思う。夜会でセシルに会うたび、紋章色の桃色の衣を身に纏った男と会わねばならないなんて――なんの拷問だ。痛ましいにもほどがある。
想像し、ウォーレスは遠い目をする。そして、再度確認した。
(エステル嬢がとめてくれて、本当によかった!)
やがて彼は音がしないよう、細心の注意をはらって扉を閉じた。
「公爵様のお邸で、一線だけは越えないでね」
心からウォーレスはそれを願い、踵を返した。