11. 侯爵様と男爵令嬢 (2)
彼と会うのは、およそひと月ぶりだ。
エステルは別れの言葉さえ交わすことなく、邸を出てきてしまった。
告白の答えを自分の口からどうしても伝えたくて……またキング侯爵邸に戻るという枷を自らにかけようと、与えられていた部屋に私物を残し――そして、再会できた時に気持ちを告げようと、思っていた。
――まさか、こんなことになるなんて、思いもせずに。
濃青の衣に身を包むセシルをエステルは見つめ、切なく目を細める。
彼を目にすれば、心は一瞬で囚われた。
ほんの僅かな期間を離れていただけなのに、懐かしさと恋しさが溢れ、思わず手を伸ばそうとする自分を叱咤する。
――だから、どうか、見つめることだけは許してほしい。心の中で、そっと願う。
そうして、セシルを見入るエステルは、ふと彼の異変に気づく。
(……セシル様の様子がおかしい、気がするわ)
漠然とだが、そう感じた。
訝るように眉を顰めてセシルを観察する。
少し憂いを帯びるように見える姿は、淡く赤に色づく肌と潤んだ瞳ゆえだろう。
挑戦的な笑みを浮かべているのに、その温度差が彼をより魅力的にしていた。
結局、異変を捉えた気がするが、確信することはできなかった。セシルの見事な笑みを見ると、それも”感じる”という曖昧な域からでないからだ。
それでも、わずかな変化さえ見逃さぬよう、エステルは一心に彼の姿を紫の瞳に映し続ける。
そのエステルの視線を痛いほど受けて、気づいたのだろう。セシルは視線の主へと顔を向けると、穏やかに笑ってみせた。
『心配いらない』
エステルは、そう、聞こえた気がした。
そんな二人のやりとりを、カイルは目聡く捉える。自分の身体で隠すようにエステルを背後へと押しやり、彼女の名を呼ぶ。
「エステル」
諭すように鋭い声で呼ばれ、エステルは淡紅のドレスを握りしめ、感情を心の底に沈める。
……もう、遅かった。
エステルは婚約誓約書に名を書いてしまった。カイルと、再び婚約してしまったのだ。書面にはエステルの父である男爵と、カイルの父である侯爵の名も連なっている。
公爵から了承を得る、という行為は絶対に必要なことではなく、仕えるべき主に忠誠を誓い、他を牽制する意味でそうしているに過ぎない。
エステルがセシルの視線から逃れようと俯いた。
なんとなく場の空気を察した公爵がにやり、と笑う。
「久しぶりだな、セシル、ウォーレス」
年齢ゆえに熟成された声が響く。
すぐに、セシルとウォーレスは礼をとった。
「公爵様、お久しぶりです。……こうしてカイルとウォーレスも含めてお会いするのは、王宮にいた頃以来でしょうか」
セシルが爽やかな笑みを浮かべて口上を述べる。
その意図に、カイルは怪訝な眼差しを向けた。カイルには、セシルの目的がおおよそわかる。
これまで両家の掟に従い、公の場での衝突を避けていた。あらかじめ争い事を双方で避けるよう行動していたのだ。しかし今、セシルはカイルの出席している夜会へ参加している。
(――セシルはむやみやたらと争うような、愚者ではない。……間違いなく、セシルの目的はエステルか)
両想いという可能性に、カイルは奥歯を噛み締める。
刹那、カイルの灰青の瞳に、鋭い光が過ぎった。
公爵は底冷えするような空気を敏感に感じとり、むしろ愉快そうに口角を上げる。彼は、常々不変を嫌っていた。ゆえに、移ろいや変化を楽しんでいる節があるのだ。今回も、彼にとっては”面白いこと”に過ぎない。
「――まさか、こうしてお前たちに揃って会えるとは思わなんだ」
実に満足そうに言葉を紡ぐと、公爵はかつての従騎士たちに視線をやり、ついでエステルへと目を向けた。
「カイル、そんなに束縛するな。結婚する前からエステル嬢を閉じ込めるつもりか?」
「……それが叶うのならば」
それもいいかもしれません。
そう続けながら苦笑したカイルは、一度嘆息すると「公爵様の命とあらば――」という言葉と共にエステルを背後から隣へと移動させた。
夜会会場が、ざわめいている。
前代未聞のキング侯爵家及びハーシェル侯爵家の者が、一つの夜会に集っているのだから無理もない。
多くの視線を集める中、セシルはカイルとエステルの前へと歩み寄った。ウォーレスは肩を竦めて公爵の傍で待機を決める。
先に口火を切ったのは、カイルだった。
「久しぶりだな」
セシルから向けられる、敵意を含んだ笑みに相対するように、カイルも同質の笑みで返す。
「久しぶり」
同じ言葉で返答したセシルだが、重たい空気が軽くなることはない。いっそ、二人の間に青白い火花が散っているのではないかと、ウォーレスは思った。
ウォーレスが横目で公爵を見れば、青年二人を唯一止めることができる権力者は、しげしげと口髭を触りながら眺めている始末だ。
溜息をつきたくなる思いでエステルへと首をめぐらすと、エステルの顔は引き攣っていた。
それはそうだろう、とウォーレスは同情しながら肩を竦める。恐らく気持ちが通じ合っている相手と婚約が成立している相手が火花を散らして笑いあっているのだ。剣呑な空気に居心地が悪く思うのは当たり前である。
「これ、僕なら間違いなく胃が痛むね」
ぽつりと呟き、やれやれと溜息を吐いた。
すると、今度はセシルが行動を見せた。彼はウォーレスに目配せする。
セシルの意図を正確に受け取ったウォーレスは、内ポケットから一枚の紙を取り出した。
それを認め、セシルは迷うことなくエステルの目前へと身を移す。
(な、なに?)
エステルは困惑して首を傾げた。身長差ゆえにセシルを見上げる。
手を伸ばせば抱き合うことも可能な距離。
見つめてくる翠の瞳から瞳が逸らせず、息を呑むようにして見つめ返した。
こうして間近で見ると、セシルの異変は確信に変わる。
(……熱、かしら)
心配そうに上目で窺うエステルを見て、カイルが顔をわずかに歪ませた。
直後――セシルはエステルの目前で跪く。
呆気にとられたのは、当事者であるセシルと連れのウォーレス以外の会場にいるすべての者。勿論、固唾をのんで彼らの様子を見守っていた夜会の参加者も含め、である。
「セシル様、なにをしてらっしゃるのかしら?」
「なぜカイル殿の婚約者殿に跪いているんだ?」
そんな声が至るところから届く。
呆然としていたエステルもことの異常さに気づき、慌ててセシルを立たせようと彼の腕に触れた。
しかし、その手は簡単にとられ――あろうことか、セシルは彼女の薬指に口付けを落とした。
エステルは、熱く、柔らかい感触を感じた。けれど、頭が白く染まり、なんの反応も返せない。
やがてその熱が冷めた頃、ようやくエステルは自分の手を握る青年を凝視した。
(え…? え、え、え?? なに……)
手の甲にセシルの吐息がかかり、くすぐったさを覚えて身を竦めた。そして、セシルが上目でエステルを見つめ、会心の笑みを浮かべているのを見て取ると、瞬時にして赤面した。
会場全体がしん、と静まりかえる。
かの公爵とカイルまでが目を丸くしていた。カイルにとっても、怒る以前の問題だったのだろう。
そんな中、セシルだけが飄々と笑みを優艶なものに変え、さらに平然と言ってのけた。
「エステル、私と結婚してほしい」
「…………は?」
沈黙した会場は、いまだそのまま。ゆえに、セシルとエステルの声が、見事に反響した。
(……なに、なに言ってるの、セシル様)
エステルは触れられている手から、彼が熱に浮かされていることを体感する。
もしかしたら、彼はこの不調で物事の判断ができない状態になっているのだろうか?
エステルは顔を真っ赤にさせながら、状況が把握しきれないでいた。
(けっこん……血痕? いやいや”結婚”よね? ……婚約もしてないのに?)
非現実的すぎる。そして、再び真っ白になった頭にぼんやりと浮かんだのは、自分の置かれている現状。
(ああ、セシル様、私がカイル様と婚約したこと知らないのね)
婚約破棄したはずの相手と共にいることを、セシルにどう思われるのか、焦ったり心苦しく思っていたが、これまでの気持ちは杞憂だったのかもしれないと得心する。
胸が痛んだけれど、その痛みに知らないふりをして、エステルは身を屈めてセシルと目線をあわせる。紅潮した顔は、感情を制することでなんとか抑えた。
「……セシル様、私、カイル様と婚約したの」
震える心で、けれど声はしっかりと通るように、言葉を紡ぐ。
なんとか笑ってみた。正直、うまくいったとは思えないが、涙がこぼれなかっただけ上出来だ。
鈍い喉の痛みが、感情をこれ以上殺すことを拒否していると主張していた。だから、目を伏せることで、心が透かされないよう――悟られないように隠す。
「だから――」
エステルが続く言葉を紡ぎだすと……。
「だから、先手を打たれる前に、奪いに来た」
セシルのはっきりとした声で、エステルの言葉は遮られた。




