10. 男爵令嬢の復縁 (後編)
男爵は娘の部屋で佇んでいた。
――エステルは、カイルの手に落ちた。
父である男爵がそう望んだわけではない。もちろん、娘が幸せになることを願っている。
だが、彼は父親であり、一権力者なのだ。民を預かる男爵が、私情のために貴族の義務を怠るわけにはいかなかった。
多くを救い一人を犠牲にするか、一人を救い多くを犠牲にするか。
……娘を優先したい気持ちなど当たり前だ。彼は父親なのだから。
後悔は後から溢れるように湧く。それが心に滲めば、胸苦しさに顔を歪める。
自分を慰めるように、脳裏に過ぎった言葉は、かつてどこかで記憶したもの。それが書物で読んだのか、はたまた誰かから聞いたのかは覚えていなかった。
『誰かを犠牲にして守ることは間違っている』
この言葉を知った時、男爵はそれを人道だと共感した。
しかし、今の男爵は知っている。そんな言葉はきれい事に過ぎないのだ。もし、世の中すべてのきれい事が罷り通るのなら、最初から政略結婚など世に存在してはいない。
――光あるところに、必ず影がある。
その影が、カレン同様自分の娘に落ちようとしている。
男爵が室内を見回すと、銅色の毛並みに紫の目のクマを見つけた。
いつかの日に、男爵が娘の誕生日に贈った物だった。
喉が重たい痛みを主張する。娘を手放したことに、心が苛まれた。
「……エステル」
悔やむように掌で目元を覆うと、背後から声をかけられる。
「旦那様、ここにおいででしたか」
部屋の扉を開けっ放しにしていたことに、今さら気づいた。
男爵がゆっくりと振り返り、嗄れた声が歳嵩の女中のものだと知る。
「……マーサか」
マーサと呼ばれた女中は銅色のクマへと歩み寄ると、手にしていた金の毛並みのクマを隣に並べた。
「それは?」
男爵の眉根が寄る。一見ただのクマのぬいぐるみであるが、よく見れば、目にはエメラルドがはめ込まれていた。特注でない限り存在しておらず、ただの女中では購入するのは不可能であろうそれ。
マーサは睫毛を伏せる。
「……エステル様が、帰省の際にお持ちになっていたものです」
男爵は軽く目を見開いた。
娘が今までどこにいたのか把握している。所持金をあまり持たずにキング侯爵邸へ向かったことも。ゆえに、彼女がクマを自分で購入できないことから、誰かに贈られたのだと気づいた。
「キング侯爵家の者から、贈られたのか」
男爵の少し驚いた声に、マーサが眉尻を下げた笑みで答える。
「あの方は、エステル様を大切に想っていらっしゃいますから」
「……あの方?」
マーサの言葉を男爵が訝れば、歳嵩の女中は言葉をついだ。
「あの方は、二年前からずっとエステル様に恋をしていらした。だからわたくしは命を受け、ここへ派遣されました」
男爵はごくり、と唾を呑む。
「……命、だと?」
マーサは小さく頷く。もう、なにもかもバレてもいい頃だろう。
「あの方は、エステル様の心を守ろうとしておりました。だから、婚約が破棄され、傷ついたエステル様の傍にいるようお命じになった。そして――エステル様が少しでも救われるよう、旦那様に真実を伝えることを指示なさいました」
瞬間、男爵の顔色が変化した。驚きに目を瞠る姿は、真実を悟ったことを物語る。
「マーサ……君は――」
続く言葉を遮るように、慌ただしい音が男爵の耳に届く。
「旦那様、カイル様はとても頭がきれる方ですね。かの領地の視察時期を見計らってエステル様を迎えにいらしたのですから。あの方も注意していたとは存じますが……エステル様が帰郷なさったことを思えば、すれ違いがあったのでしょう」
マーサは独り言のように呟き、騒音の正体を知るかのごとく扉へと歩んで、それを開いた。
けたたましい音と共にまず現れたのは、執事だった。いつも優秀な執事の手本の様な姿はそこになく、目を白黒させたまま来訪者の存在を告げる。
「旦那様、お客様でございますっ」
その言葉の直後、執事の脇を通り抜けて扉をくぐった二人の青年が、男爵の前に姿を見せた。
男爵は呆気にとられる。
淡い金髪をした、眩いばかりの美貌を放つ青年。もう一人は、灰茶の髪と黒目を持つ幼さ残る顔立ちの青年。どちらもカイルと同年代だと見受けられた。
けれど、男爵が気をとられたのは、その二人の青年が肩で呼吸し、滝にうたれたかの様にずぶ濡れだったからである。……外は大雨にも拘らず、彼らは馬車を使用する時間を惜しむようにここまで来たらしい。
目を丸くしている男爵に、青年らが礼をとった。口を開いたのは、金色の髪をした青年だった。
「クラーク男爵でいらっしゃいますね? 私はキング侯爵家当主、セシル・ラフェーエル・キングと申します。隣にいる彼は、マクラレン伯爵家のウォーレス・アシュレイ・マクラレン。……突然お邪魔してしまい、申し訳ありません」
セシルが頭を下げると、男爵は慌てて頭をあげるよう促す。身分に天と地ほどの差があるのに、彼がこうして頭を垂れる現実に眩暈がした。――これは、カイルの時と同様、予感するものがある。
男爵は執事に拭くものと着替えの準備を頼んで、一つ溜息を吐いた。
「……エステルに御用ですかな?」
これまでのマーサの言葉から、彼がここへ来た理由はなんとなく理解しているつもりだ。ゆえに、強い意思を秘めた瞳で見つめてくるセシルに、問われる前に自ら話した。
「あの娘はここにおりません。……カイル殿が、連れて行きました」
視線を落として喋る男爵は、落ち込んでいる。
セシルは片眉を上げた。
「……カイルがここにいたと、聞いています。――彼の目的をご存知ですか?」
セシルが確認のために問うと、男爵は一度頷く。
「エステルに謝罪に来た、と」
「不貞を疑ったことですね?」
「……そうです。そして――婚約の申し込みに来た、とも」
予想してはいたが、状況が思わしくないことにセシルは顔を顰める。拳を握りしめて、男爵の瞳とまっすぐに向かい合った。
「……あなたは、その婚約を承認しましたか?」
苦い質問に、男爵は目をそらして頷く。その様子から、後悔しているのが見てとれた。
セシルは目を軽く眇め、言葉をつぐ。
「では、エステル嬢は快諾していましたか?」
「いいえ! エステル様は拒んでおいででした」
質問に答えたのは、マーサだった。
ぽかん、とマーサを見つめる複数の眼差しに、彼女は胸を張って答える。
「わたくし、聞き耳をたてさせていただきました」
……堂々と言ってはいけない発言である。
一応現在彼女を雇用している男爵家としては、咎めたいところだ。しかし、エステルの心境を知りたい今のセシルと男爵にはありがたい言葉でもある。
マーサはにこりと微笑むと、セシルに視線を向けた。
「エステル様は、好きな男がいるからと、カイル様の求婚を拒みました」
初めて耳にする真実に、男爵が「……好きな男?」と首を傾げる。
「カイル様がエステル様を連れ去った後、エステル様の座っていた椅子のすぐ傍に、金色の毛並みのクマが落ちておりましたよ。……あれは、セシル様が贈ったものですね?」
セシルがマーサを見やると、彼女は口端をあげた。
「もう、どなたのことが好きなのか、おわかりいただけますね?」
セシルは目を極限まで開く。どくん、と胸が鳴った。瞬時に彼は、エステルに告白した直後、返事を先延ばしにしたことが紙一重のすれ違いの原因だと知る。
すぐにでもエステルを追いかけたかった。それでも、目先のことに囚われれば、今度こそ完全にエステルは手の届かない場所へ行ってしまう。そうわかっているからこそ、その場に踏みとどまった。
セシルが感情を沈めている間に、ウォーレスが笑みと共に、荷から取り出した一通の封筒を男爵に差し出す。
「これに、署名をお願いします」
封筒の中身を取り出した男爵は、内容を一瞥すると、あんぐりと口を開けた。
「こ、ここここれはまた……いやいやいや、ですが、うぅ」
勿論、男爵も署名したかった。しかし、彼はまったく同じ文面のそれに、既に署名していた。そのため、躊躇った。
眉間を揉み解しながら迷う男爵に、ウォーレスがもうひと押しする。
「大丈夫ですよ。セシルと僕がなんとかしてみせます。だから――エステル嬢の幸せを願うのなら、ご署名を」
――『エステル嬢の幸せ』。
その言葉で男爵はしばし悩んだ素振りを見せたが――意を決したように頷いた。
セシルはほっとしたように目を細め、机にあったペンを手に取る男爵に微笑む。
「エステルを必ず連れて帰ってきます。――そうしたら、またご挨拶に参ります」
熱のこもった翠の瞳で射貫かれ、男爵は一抹の寂しさとともに「お待ちしております」と笑み返した。
*** *** ***
――公爵領ハーシェル家別邸。
揺れるランプを頼りに、エステルは一枚の書面に視線を滑らせる。
それは、昔見たものと同じだった。
カイルはエステルにペンを渡すと、銅色の髪を一房掬いあげる。
「……気持ちを焦らすつもりはない。まずは、形だけで構わないから」
掬った髪に口づけを落とし、彼は切なく笑った。
ふいに、エステルのペンを握る手に力がこもる。
迷いが胸中で渦巻いていた。カイルの言葉が、頭から離れない。
――『おまえは好きな男を利用できるか?』
(セシル様を、利用する?)
今の男爵家には後ろ盾が必要だ。そんな弱小貴族、お荷物にしかならない。
(――セシル様の力になりたかった。足を引っ張りたいわけじゃない)
好きだからこそ、今のエステルにはセシルの手をとれなかった。
ともすれば、あとはカイルの手をとるしかないのだ。だが。
(じゃあ、セシル様の気持ちを無下にして、カイル様を利用するの?)
ペンを持つ手が震える。迷いと後ろめたさと葛藤で紫の瞳が揺れた。
目聡くそれに気づいたカイルは、書面の一部分を指差す。
そこに視線を落とせば、父男爵の署名が記されていた。
「男爵からの許可はもらったから、迷わなくていい」
優しく諭すような声。分岐路の選択肢を、排除された気がした。
そうして――婚約契約書にカイルとエステルの名が連ねられた。