10. 男爵令嬢の復縁 (前編)
ぱらぱらと、雨が降る。
白い霧が視野を制限する中、セシルとウォーレスは馬を駆けさせていた。
侯爵領を出て、既に数日が経っている。
陽が完全に沈めば、二人は貴族が寝泊まりするとは思えない小さな宿に泊まり、翌朝、太陽が昇ると同時に出立する生活が続いていた。
キング侯爵領からクラーク男爵邸までは通常、一週間がかかる。
男爵邸にいるカイルと、帰省したエステルが再会することを想えば、セシルはなんとしても先を急ぎたかった。
だが、セシルの心と裏腹に、そう都合よくはいかない。
悪天候に悩まされたのだ。
馬車という選択肢もあった。しかしそれでは余計に遅れをとるため、セシルは雨の中、分厚い外衣を羽織って馬に跨る事を選んだ。……付き合ってくれているウォーレスには、心から感謝している。
「もうすぐだね」
ウォーレスの声が、雨風の音に遮られながらもかすかに届く。
水気を含んで顔にはりつく髪を掻き上げながら、セシルは頷いた。
「……ああ」
「エステル嬢に会えるといいね」
「……そうだな」
そうは返したものの、セシルは男爵邸でエステルに会えるかどうか半ば疑っている。
――カイルが、来ているのだ。
カレンを娶らなかった時点で、エステルに未練があることは想像するに容易い。
ならば、今後彼はどう行動するか――……。
セシルはしばし考え込むと、舌打ちした。
(もう、男爵邸にはいないかもしれない)
手綱を握る力を強める。
――予想通りだとすれば、自分はこれからどうすればいいのか。
それを思案すれば、セシルの意識は自然と馬に積んだ荷へと向けられた。
――侯爵邸を出る時に、見送りに現れた母が手渡した一通の封筒。
その中身を見た時、正直驚き、戸惑った。それでも、役に立つかもしれないと、持ってきたのは自分だ。
(……もし、エステルが私のことを好きだったなら)
まだ、エステルの口から返事はきいていないけれど。確信できるなにかが、もし――。
セシルは決意を秘めた翠の瞳で前方を見据えた。
……諦めていた恋だった。
それでも、求めてやまなかった。
自分の隣にいてもらえないのなら、笑っていてくれたらいいと、思っていた。祈りにも似た感情だった。その笑みを”セシル”にいつか向けてくれたらと、願わない日などなかった。
だから、彼女を守りたかった。優しくしたかった。……他の誰にどう思われようと、彼女にだけは拒まれないように。エステルにとって”いい人”でありたかった。
エステルが侯爵邸に来てからは、格好よく装おうとするたびにボロばかりが出て情けなかったが、拍子にころころと変わる彼女の表情を見れば、そんなことどうでもよく感じた。紫の瞳が自分を映しているのを見る度に、彼女の中に”セシル”の存在を確認することができた。
……諦めていた恋だと、思っていた。
だが、本当は、実らないから諦めようと必死だった。終わってなど、いなかった。
それならば、最初で最後に。当たって砕けよう――そう決めた。
エステルがカイルのことを好きなのならば、彼女の幸せを願おう。
もしカイルも自分のことも好きではないのなら、またこれからがんばろう。
――もしものもしもで、自分のことを好きなのなら、絶対に放さない。彼女にどんな理由があろうと、実る可能性が僅かにでもあるのなら、手放すつもりなどさらさらない。
セシルが会心の笑みを浮かべたのを見て、ウォーレスは苦く笑った。
「エステル嬢も厄介なのに惚れられたなぁ」
ウォーレスは人事ながら、少しばかり同情した。
*** *** ***
朦朧としながら瞼を押し上げると、知らない天井が見えた。
エステルは状況が掴めず、視線だけ横へ向ける。次に紫の瞳がとらえたのは、紗幕の天蓋。涼しげで爽やかな色だった。薄暗い室内であるため、本当にその色かはわからなかったが。
重い頭を抱えて、エステルは身を起こす。
(ああ、寝台にいるのね)
掛けられた上質の布団の肌触りに、ぼんやりとそう思った。
ふいに、香草のような、香水なのか判じかねる匂いが鼻腔をくぐる。
解かれて顔にかかる銅色の髪を後ろへ流しながら、近づいてくる光へと顔を向けた。
気配の主は、手にしていたランプを寝台横に配置される机に置いた。
「エステル……目がさめたのか。――よかった」
安堵したように目元を緩めた顔が、とても懐かしかった。
「……カイル様」
なにがあったのかまるで思い出せない。
なぜ、自分は見知らぬ寝台で眠っているのか。ここはどこなのか。どうして彼がいるのか。
どうにも働かない頭で、なんとか考えた質問を口にする。
「カイル様、ここはどこ? なんで私はここにいるの?」
カイルは寝台の端に腰をおろし、エステルの手に自分の手を重ねる。
エステルは不思議な倦怠感ゆえに、振り払うのも億劫でしなかった。
「……ここは公爵領にあるハーシェル家の別邸だ。俺が連れてきた」
カイルが染み込むような声音で答えれば、エステルは眉を顰める。
そうして、記憶が途切れるまでのことを思い出そうと目を閉じた。
(――帰ってすぐ、カイル様と会って……。その後、確か二人で話をした筈)
やがて、思い出す。
カイルに婚約を申し込まれたこと。
拒んだ直後、口移しでなにかの薬を飲まされたこと。
(……そうだわ。あの薬は、睡眠導入剤だとカイル様も言ってた。この疲労感は副作用ってところかしら)
エステルはそう思い至ると、目を開いてカイルを見つめた。
カイルの大きな手がエステルの額を覆う。
灰青の瞳が優しい色を放ち、「よかった、熱はない」と相好を崩した。
エステルが感じたのは、妙な違和感。
男爵邸にいた時の彼には、余裕が感じられなかった。焦るように、脅すように声を荒げ、自らの感情を主張する。そこにエステルへの気遣いはなく、押し付けられたような気すらした。
(……どうして、昔みたいな顔をしているの?)
今の彼は、エステルが婚約していた頃を思い起こさせる。
不安が過ぎった。ここに長居してはいけないと、頭の中で警鐘が鳴る。
(早く、帰らなくちゃ)
意識をはっきりさせるために頭を二、三回ふってからカイルを見据えた。
「カイル様、私、帰るわ」
そう告げようとした時だった。
カイルが口を開く。
「――セシルか?」
突然の言葉に、エステルは動きをとめる。無意識に止めていた息を吐き出せば、ようやく動き出した頭に、急速に血がめぐった。
「なんの、こと?」
毅然と答えなければならなかったのに、声が震える。
カイルは苦笑した。
「変わってないな。嘘が下手なところ」
「……嘘なんて」
「エステルの迎えの馬車が、キング侯爵領へ向かっただろう? 馬車はキング侯爵邸の近くの店に待機させていた。つまり、お前はセシルと関わっていた可能性がある。違うか?」
エステルの目が泳ぐ。……嘘が下手な自分が恨めしかった。
カイルは話を続ける。
「……悪いが、情報を集めさせてもらった。エステルが男爵家を出て関わった貴族は、セシルくらいだった筈だ。だったら……お前が好きだという男は、セシルでほぼ間違いない」
なにも言えないエステルの様子こそが、なによりの証拠だった。
寂しそうに睫毛を伏せたカイルの瞳に、陰がおちる。
カイルはエステルの頬に手を伸ばし、包みこんだ。
「エステル……伯爵家が手をまわせば、男爵家の存続は危うい」
「……だから、カイル様と婚約しろっていうの?」
睨むように見上げると、カイルが切なそうに笑んだ。脅すことが本意ではないのだろう。彼は、もともと権力を利用することが嫌いだったのだから。
それでも、手段を選んでいられない状況なのだと、カイルは判断した。そういうことだ。
「――セシルに頼るか? 頼ったところで、伯爵が手をまわす。一時の資金援助では無駄だ。継続的な資金援助であるか、男爵家が伯爵家とは無関係な、新たな伝手を探さない限り」
エステルの瞳を、カイルが鋭く射貫く。
カイルの言葉は、すべて確信的だった。あまりの痛い真実に、エステルは布団を握りしめて狼狽した心を隠す。
「エステルは、好きな男を利用できるか?」
その言葉に、エステルは顔をあげた。
今、エステルは誰かを好きになり、結婚するだけであってはならない立場にある。それが、男爵令嬢としての役割。男爵家を守るために、望まぬ結婚も受けなければならない。好きな相手との結婚であっても、相手に感情以外の見返りを求めなければならないのだ。それが、貴族の責任と義務なのだから。……嫌っていた貴族の在り方であろうと、エステルも理解している。
唇を噛むエステルを、カイルは慈しむように抱きしめた。
「――エステル、俺を利用すればいい」
カイルは体を僅かに震わせたエステルの首筋に、顔を埋める。
「――急がない。待つから。いつか……俺を、好きになって」
耳元で、そっと囁かれた。