9. 女中→男爵令嬢、帰省する
「セシル様、落ち着いてくださいっ!」
止めるのは、近侍であるアールだった。
「落ち着いていられるわけがないだろうっ」
いつだって穏やかだったセシルからは、おおよそ想像もつかない焦りと怒りのこもる声に、玄関口に集った使用人たちは皆身を強張らせる。
ただ一人、アールだけが怯むことなく主の体を拘束するように正面から両腕を掴んでいた。
「離せ、アール! ――私の邪魔をするつもりか?」
セシルの翠の瞳に、仄暗い光が過ぎる。目にしたアールは、まるでエステルの婚約が白紙になる前の、侯爵の姿と重なって見えた。
エリンとドロシーも、アールに加勢しそうと駆け寄る。
「セシル様、なにがあったのか存じませんが、視察から帰ってきたばかりです。身体を休めることをお考えください」
エリンが労わるようにセシルの外套を脱がせようとするが、セシルは振り払う動作で拒んだ。
「そんなことをしている暇はないんだ。早くしなければ、エステルが……」
「――エステル?」
セシルの言葉に、アールの力が緩む。
一方、”エステル”が誰なのか知らないエリンとドロシーは、初めて聞く名に眉を顰めた。
「セシル様、エルーになにがあったんですか?」
アールが硬質な声音で問うと、セシルは渦巻く感情をなんとか押し込めながら俯き答える。
「……エステルの実家に、カイルが来ている」
「そうなんだぁ。それは思ってた以上の行動派だなぁ」
妙に間延びした声が、糸の張りつめたような緊張感の中、響く。場の空気を気にしない、その聞き覚えのある声に、セシルは伏せていた顔を上げた。
皆が一斉に視線を向けた先にいたのは――セシルの友人であるウォーレスだ。
彼は灰茶の髪を掻きあげながら、セシルへと歩を進める。
親友の、突然の登場に目を瞠るセシルは呟くように尋ねた。
「なんで……」
するとウォーレスは、苦笑しながらセシルを拘束するアールの手を外す。
「……悪報を持ってきたんだよ」
「――悪報? 悪い報せはもう十分聞いたんだが」
「じゃあそれに関連するかもね。少なくとも、カイルが男爵家に来てるのも、彼女が急に実家へ帰ったのも、関連してるから」
最初、顔を顰めながらウォーレスの情報力に耳を貸していたセシルは、脳裏で閃きを覚えて息を呑んだ。
(――そうだ、すべて繋がってるんだ。……カイルが、仕組んだことならば)
目を眇めながら拳を握りしめる。堪らない激情が蠢いたけれど、深呼吸することでやり過ごした。
「ウォーレス、その悪報を、教えてくれ」
漸く口に出来た言葉は、地を這うように低かった。
使用人を必要最小限残して、あとは下がらせた玄関で、ウォーレスが詳細を話し出す。
「公爵様が夜会を催すらしくてさ」
「ああ、私のところにも招待状が届いた」
セシルが相槌を打つと、ウォーレスは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「カイルが参加するらしいよ。――女性同伴で」
「女性って」
「多分エステル嬢だろうね。誰かまでは情報が集められなかったけど、早々にカイルから公爵様のところに返事があったそうだ」
一度は婚約していた二人がまた揃って夜会に現れれば、復縁したと誰もが判断するだろう。……いや、周囲が判断せずとも、カイルならば本当に婚約までこぎつける気がする。
彼はそれに相応する手段を持っている。そのために、今、男爵家に彼が在るのだから。
今回の夜会参加は、カイルが公爵に婚約を公の場で承認してもらうつもりなのだ。
(カイルは、私によく似ている)
ゆえに、カイルの考えていることは手にとるようにわかった。
「どうする? セシル」
わかっている返事をあえて訊くウォーレスは意地が悪い。
口端を上げる悪友を軽く睨み、セシルは溜息を吐いた。
「出立の準備を整えた後、すぐに男爵家へ向かう」
侯爵の鋭い声に、場に残っていたエリンとドロシー、アールは頷く。話をすべて聞いていた彼らは、もうエステルに起こっていることすべてを把握したようだ。……まずは体を休めてほしいと思っても、事が事だけに一刀両断されてしまうのが目に見えていた。
ドロシーがにっこりと笑い、エリンは腰に手をあてて苦笑する。
「あたしとエリンは、セシル様の出立準備を致します」
「じゃあその間、セシル様は侯爵閣下ご本人にしかできない仕事を終えてもらいましょうか。他は俺とアルフォンス様と奥様で、なんとかお留守中は凌いでみせます」
太陽のようにアールが力強く笑った。
そして。
「エルーを必ず奪還してきてください」
二人の女中と近侍の言葉に、セシルは淡く笑み、頷く。
――その日の夕方、セシルはウォーレスと共にクラーク男爵邸へと出立した。
*** *** ***
久々に帰った邸は、なぜか他人の家のように馴染みなく感じた。
エステルが実家である男爵邸に着いたのは、彼女がキング侯爵邸を出て一週間後であり、セシルがキング侯爵邸を出立して六日後のことだった。
父からの手紙を受け、急遽実家へ帰省したエステルは、長旅で疲れていた体をなんとか動かし躊躇いがちに邸へと足を踏み入れる。
生家であるそこは、エステルにとって無二の”帰るべき場所”だった。だが、今の彼女は少し違和感を持つ。
不思議に思って周囲を見渡してみると、よそよそしい態度の使用人たちが出迎えで並んでいた。そこに、エリンやドロシー、アールといった家族や友人のような人はいない。
気がつけば、エステルが手にしていた荷物は奪われていた。何か声をかけられたのだろうが、ぼうっと思考の淵に沈んでいたエステルは気づくことができなかったようだ。
侍女が、それまで持っていたエステルの荷物を抱える後ろ姿を見送る。
久々の再会を喜ぶ顔は、そうみられない。彼らは皆、自分の職務をまっとうしようと出迎えているだけなのだ。
(……そっか。そうよね)
エステルは自嘲した。
今までの環境が異常だったのだ。使用人にまぎれて男爵令嬢であるエステルが生活し、仲間のように笑ったり励ましあったりした。陰口をたたかれることもあったけれど、傷つく間もなく慰めてくれる存在もあった。――とても、愉しかった。幸せだった。
実家で使用人たちと心を繋げようと努力しなかった自分を、今さらながら説教したくなる。
(今ある環境は、今までの私が築いた結果ね)
少し寂しく思いながら目を細めると、前方からよく知った女中が目の前に現れた。
「エステル様!」
妙に親しげに名を呼ばれ、エステルは目を丸くした。
彼女はこの邸でもっともエステルを気遣っていた、歳嵩の女中である。
「ただいま、マーサ」
淡く笑めば、マーサはエステルの両手を握りしめ、目尻に涙を浮かべる。
「エステル様……おかえりなさいませ」
あまり嬉しそうではない声。それでも、エステルが訝ることはなかった。
――なにかがあったから、エステルが帰ってきたのだから。
「マーサ、なにがあったの?」
エステルが静かに問うと、マーサは視線を床へ向け、小さく囁く。
「――様が、滞留しておられます」
「――え?」
はっきり言葉を捉えきれずに、エステルが眉宇を顰めた時。
一室から扉が開く音がした。
刹那、エステルの目は驚愕に彩られる。
呼吸をすることも忘れた。時がとまった感覚すらする。
膝の力が抜けそうになるのをなんとか耐えて佇んでいれば、声がかけられた。
「久しぶりだな、エステル」
灰青の瞳。漆黒の髪。男臭すぎず精悍な、端整な顔。
見慣れていたはずの柔らかい笑みを向けられたのに、エステルは体を小さく震わせただけだった。
――笑い返すなんて芸当、できる筈もない。
震える声で何とか言葉を紡ぐと、くぐもってしまった。
「――カイル、様」
名を呼ぶ。
青年は、笑みの色を濃くした。
その笑みは、見慣れていた。いや――見慣れていた筈だった。
もう一生目にする事はないだろうとも、思っていた。
婚約を破棄した時の彼は、凍てつくような視線でエステルを見据えていたのだ。いっそ憎しみすら覚えるような表情を浮かべていたのだ。
(どう、して……)
先に拒絶したのは彼だ。エステルを信じなかったのは彼だ。今さらなんの用があって現れたというのか。
カイルに続いて部屋から出てきた父を目に留めたエステルは、唾を呑む。
「……お父様、命を受け、ただいま戻りました」
娘の訝しげな視線に、父男爵は気まずそうに瞳を揺らした。視線を逸らさなかったのは、なけなしの誠実さだろう。
「……おかえり、エステル。元気そうでなによりだ」
「お父様も」
父と娘の間に、わずかな重い沈黙が降りる。
それを破ったのは、エステルだった。
「緊急事態、とは、カイル様のことですか?」
直球の問い。
男爵は渋面な顔で頷く。
――蚊が鳴くような声で「すまない」と聞こえた気がした。
侍女が紅茶を淹れ、一礼して部屋を辞す。
今、部屋にいるのはエステルとカイルの二人きり。そう、カイルが望んだ。
静かな室内に拡がる、紅茶の香り。それはエステルがセシルの邸でよく口にした紅茶の香りとは違う芳香だった。
自分の家に帰ってきたのだと、思い知るように実感して心細く思ったエステルは、膝の上に置いていたセシルからもらったクマのぬいぐるみを一撫でする。
こうして向かい席で茶を啜るのも、おおよそ一年ぶりだろうか。向かいに座るカイルをそっと上目で窺い見た。
陰が増し、整った顔に浮かべる表情は憂いを帯びて色気が増したように見える。
それでも、エステルがときめくことはなかった。
もう一度クマをそっと撫でれば、不安に押しつぶされそうになる心が穏やかになった気がした。
「ずっと、謝りたかった」
先に口を開いたのは、カイルだった。
エステルは顔を上げる。
「……なにに対しての謝罪か、訊いてもいい?」
他意はない。だが、エステルにとって受けられる謝罪と受けられない謝罪があるのだ。
カイルは一瞬瞳を揺らしたが、その後はぶれることなく言葉を紡ぐ。
「俺は、おまえの不貞を疑った」
「ええ」
「婚約を、一方的に破棄した」
「……」
「ずっと、ずっと謝りたかった。――エステル、傷つけて、本当に申し訳なかったと思ってる。すまない」
頭を下げるカイルを目の前にして――数拍後、エステルはほろ苦く笑った。……別に、もう恨んでも憎んでもいない。疲れたから、その感情を放棄したのは、少し昔のこと。心のしこりはキング侯爵家で根こそぎ取ってしまったし……あと、エステルにできるのは許すことだけだった。
「不貞を疑ったことに関しては、謝罪を受けるわ。だから、顔をあげて」
優しく言葉にすると、カイルが顔を上げる。
わずかな安堵に包まれた灰青の瞳をまっすぐに見つめ、エステルは言葉をついだ。
「だけど――婚約に関して、謝罪はいらないの」
「……エステル。そうか、そうだよな。許してもらえることじゃ、ないよな」
暗く沈むカイルに、エステルは首を横にふる。――違う。そうではなかった。
「そうじゃ、ないの。――謝らなくていいの」
「エステル?」
「もう、終わったことだし……婚約は、気持ちの問題だもの。誰が悪いとかじゃなくて、心が離れた。だから婚約が白紙になった。どんな恋人でも心が離れれば、婚約は解消される。それが私たちの身にも起きた。ただ、それだけのことだわ。だから、謝らないで」
エステルは心からの微笑を浮かべる。もう悔やまず、負い目も感じずにカイルが新しい恋をしてくれればいいと、思う。そう願って――。
ところが、なぜか目の前にいたカイルは呆然としたように目を丸くしているだけだった。
驚く理由は、エステルにはわからない。ゆえに、もう一度口にする。
「カイル様、私はもう大丈夫。だから、気にしないで」
突然、カイルが無言で席を立つ。
そうしてなぜかエステルの隣に立った。なぜかエステルを見下ろすカイルの顔は、泣くのを堪えるように歪んでいる。
「カイル様?」
怪訝に思い、エステルが彼の名を呼ぶ。
すると、カイルはエステルの両肩を掴んだ。
「エステル……心が離れたわけじゃ、ないんだ」
「……カイル様?」
「――幼い頃から、エステルのことが好きだった。だから、婚約した。その気持ちが変わったことなんてない。むしろ、大きくなるばかりだった」
苦しむようなカイルの告白を、エステルは見守るしかできない。
エステルが困惑を滲ませて見上げていれば、カイルは心内の吐露を続ける。
「婚約を破棄したのは……怖かったからだ」
「怖かった?」
エステルが銅色の髪を揺らす。カイルは小さく頷いた。
「ずっと好きだった。守りたいと思う一方で、自分だけのものにしたかった。どこかに閉じ込めて、俺だけのものにしたいとすら思っていた。誰かに奪われるくらいなら、俺がエステルのすべてを奪って、俺も死のうと思うくらい……愛しいと思った」
カイルの顔は涙を堪えるように歪む。
「守りたい。優しくしたい。――そう思うのに、独占欲と狂気が渦巻いた。だから、傷つける前に――いつか裏切られるのなら、その前に自分から信じる事をやめようと思ったんだ。そうすれば、すべて解決すると、思ってた……」
「カイル様」
「俺は、両親から愛されたことがなかった。侯爵家の嫡男としてしか、視界に入れてもらえなかった。心が渇望している時、エステルと出逢った。求めるものを与えてくれた。俺の存在を、許してくれた。――恋に落ちるのに、時間はいらなかった。婚約してからは……愛されたいと願うのに、愛されることが怖くなった。手に入れてから失うのが、怖くて怖くてたまらなかった」
エステルには、カイルがいつになく儚く見えた。
思わず、息を吐く。
――『愛されたいと願うのに、愛されることが怖い』。
同じことを、少し前のエステルも考えていたのだ。そんな彼女が救われたのは、セシルやエリンがいたから。
ならば、エステルにもカイルになにか出来ることがあるかもしれない。
小さく笑む。
「カイル様、もう終わったことだわ。これからは幼馴染として支えるし、話も聞く。弱いところをたくさん吐き出して、また前を向けばいい。だから」
「……好きなんだ」
「……カイル様?」
カイルはエステルの頬を掌で包む。紫の瞳に自分が映っていることを確認して、気持ちのすべてを吐き出した。
「エステルのことが、好きなんだ。婚約を破棄したのは俺だ。それでも……ずっと、好きだったんだ。狂おしい気持ちから逃れられると思ったのに、ずっとエステルの泣いた顔が頭から離れなかった。悔やんで悔やんで悔やみ続けて……すべてがカレンの罠だったって知った時……怒りで目の前が真っ赤に染まった。エステルを信じきれなかった自分に憤ったし、どうして信じきれなかったのか、自問した。――結局、一つの答えに帰結するんだ。裏切られることが怖いのも、失うのが怖いのも、狂おしい感情も、すべて。エステルのことが、好きだから」
真摯な瞳で見据えられ、エステルは息を呑んだ。
「エステル、もう一度、婚約してくれ」
エステルの目が見開かれる。なにを言われたのか、わからなかった。
懇願を含む灰青に、思考がとまる。
「……なに、言ってるの?」
婚約を破棄したのはカイルだ。ただの幼馴染としてならば付き合うことはできるが、婚約者に再び戻るのは、今のエステルには不可能だった。エステルの心は、もうカイルにはないのだから。
眉間に皺を寄せるエステルに、カイルは睫毛を伏せる。
「……今さらだって、わかってる。それでも――もう一度、機会を与えてほしい。何があっても、もう放したりしない。むしろ、俺が放せない。だから――」
言葉をようやく理解すると、エステルは紫の瞳でカイルに相対した。
「ごめんなさい」
単純だけれど、真意がそこに凝縮されていた。
カイルは受けた答えに口を引き結び――エステルの腰を攫うように引き寄せて、強くかき抱く。拍子に、クマのぬいぐるみが床に落ちる音がした。
カイルは、「どうして」と耳元で問うた。
エステルに嘘をつくつもりはない。だから、正直に答える。
「――好きな男が、いるの。だから、ごめんなさい」
セシルに迷惑をかけたくなくて、名は伏せた。
「カイル様、放して」
囁くように拒絶の言葉を告げると、カイルの力はより増す。
「エステル、好きなんだ! エステル――っ」
「カイル様、放して!」
押し問答が繰り返される。
――カイルの片手がエステルの体から離れた。
カイルの首筋に顔を押し付けられていたエステルは、彼が服のポケットからなにかを取り出すのがわかった。それがなにかは判別できなかったが、キュポン、という音の直後、彼はそれを口に含む。
カラン、と硝子の小瓶が床に転がる音がした。
そして、カイルはエステルの両手首を押さえつけるように卓に押し倒す。
「カイ……っ」
突然のことに、エステルは瞠目した。
目の前に広がる、カイルの漆黒の髪と天井。
唇の違和感は、押しつけられた彼の唇。
わずかに開かれた唇から侵入してきたのは、独特の液体とそれを無理やり嚥下させようとするカイルの舌だった。
すぐに液体の正体が、先刻彼が呷った、なんらか薬だと悟る。
必死に抗うのに、否応なく彼の思うがままになる。口を閉じたくても、深い、噛みつくようなそれゆえにかなわない。そんな自分に、腹が立った。……セシル以外と唇を重ねることも不愉快だった。
縫いとめられたように卓に固定される手を、なんとか動かそうとする。足をばたつかせて、カイルを引き離そうともした。それも、すぐに封じられてしまう。
悔しさで目尻から涙が零れると同時に、エステルの意識が徐々に薄れていく。
(な……に……? 急に眠気が……)
カイルはエステルの抵抗が次第に弱まることを確認すると、名残惜しむように唇をはなした。
「カイル……さ、ま?」
エステルは手放しそうになる意識を、なんとか繋ぎとめて目を眇める。
カイルは、妖艶に笑った。そうして、愛しむように頭を撫でる。
「毒じゃないから安心しろ。即効性の睡眠導入剤だ」
すでに目を開けていることもままならないエステルを、カイルは抱き上げた。
「長旅で疲れただろ? しばらく眠っているといい」
不自然なほどに甘い声。昔の彼とは、どこか違う気がした。彼の中で、何かが変わったのだろうか。
最後に、視界の端にセシルとよく似たクマを捉え――エステルの意識は沈んだ。