8. 女中、厨房にこもる 後編
(食品室女中さんにお礼を渡す時は――部屋まで送ってくれてありがとう。またお菓子についてたくさんおしゃべりしてください、って言おう。エリンさんにお礼を渡す時は――たくさん話を聞いてくれてありがとう。これからもよろしくお願いします、って言おう。セシル様にお礼を渡す時は――今まで支えてくれてありがとう。……私もセシル様のことが好きです、って言おう)
エステルは菓子を作りながら、そう決めた。
*** *** ***
「んじゃあ、菓子の熱がとれたら乾燥しねぇようにしといてやらぁ」
その料理長の言葉に甘えて、エステルはわずかに残った休憩時間に自室へ戻る。
机の抽斗にしまっておいた、包装紙とリボンを取り出す。
「これで完成だわ」
つい口元を緩ませて呟くと、コンコン、と扉が叩かれる音がした。
エステルは鼻歌交じりに扉へ向う。事情を知らない者ににやけた顔を見られたら怪しく思われるだろうと判じたエステルは、”平常心”という呪文を胸に扉へと駆け寄った。
「はい」
扉を開けば……家政婦が立っていた。
「エルー、あなたに手紙が届いています。差出人はわかりませんが、あなた宛です」
「……? ありがとうございます」
エステルは瞬きながら手紙を受け取る。真っ白な封筒には、確かに差出人の名がなかった。――しかし。
宛名の文字を見て、エステルは瞠目する。
扉の閉まる音に気づかないくらい、外界の音が遮断されていた。
動揺で震える指を『親愛なるエルーへ』と綴られた文字へと滑らせる。その筆跡が誰のものなのか、すぐにわかった。
「……お父、様」
よく見知っている文字。
父にはキング侯爵家へ女中として仕えること、”エルー”という偽名を名乗ることを伝えてあるから、手紙が届くこと自体におかしな点はない。普通ならば――。
けれど、エステルは今、公の場では身分を隠し、女中として働いている。したがって実家の誰とも文のやりとりはしていなかった。
ふと、エステルは父と交わした、たった一つの約束を思い出す。
『緊急事態がおきたら、キング侯爵家へ手紙を出す。そうしたら、その時はすぐに帰ってきなさい』
滅多に父男爵は命令形を使わない。そんな父が使った命令口調。
”緊急事態”という単語に、エステルは頷くほかなかった。絶縁したのならともかく、エステルは男爵家の系譜に名が在るのだから。
(緊急事態が、起こったってこと……?)
本音をいえば、中身を見たくなかった。それでも、開けなければならない。これは、男爵令嬢としての義務なのだ。
動悸が激しくなる中、封筒から便箋と取り出し、折りたたまれたそれを開く。
連なっている文字は、実に単調だった。
『至急、戻りなさい。馬車は侯爵邸から最寄の店に待機させる』
他には、理由もなにも書いていない。
むしろ、それになぜだか不安をおぼえる。
(なにがあったの?)
父の筆跡であることからして、男爵自身になにかあったわけではないだろう。では、母だろうか。心労で婚約破棄になった直後、寝込んでいたのだから。それとも、男爵家だろうか。
後ろ向きな思考にばかり向かう自分を叱咤するように、首を横にふった。だが、手紙が出されたということは、緊急事態が発生したのだ。良い報せな筈がない。
――たった一つの、父との約束。
エステルの選択肢は一つしかない。
俯かなければやるせなさを心の底に沈められなかった。
(……セシル様が、帰ってくるまで)
告白の返事は、自分の口からと決めている。だから、彼が帰ってくるまでは、邸に留まりたい。
エステルは便箋を封筒にしまうと、包装紙とリボンを手に、部屋をとび出した。
*** *** ***
「嬢ちゃん? 来るの早くねぇか? 女中の仕事はどうした?」
眉を顰めた料理長に、エステルは困ったように笑って見せる。
「急に実家へ帰らなくちゃいけなくなったので……」
「……そうか」
男は元気付けるようにエステルの肩を叩いた。
「すぐに戻ってこいよ」
その言葉が、心にじんわりと染み込んだ。
大分熱がとれた菓子を包装紙で包み、リボンで口を留める。簡易ではあるが、なかなかの出来だとエステルは思う。――が。
「おー、なんか照る照る坊主の逆さ版って感じだなぁ」
なんとも失礼な例えである。
エステルは眉間に皺を寄せると、横目で隣に並んだ料理長を睨む。
「それじゃあ雨降るじゃないですか」
「そしたら帰れねぇな」
きょとん、とエステルが男を見上げる。彼は「しけた面すんな」とまたもや背を叩いた。……正直、痛い。そろそろ背中に大きな紅葉が出来ているのではないかと思う。
それでも、彼が元気付けようとしてくれているのがわかったから、エステルはできる限りがんばって笑った。
「じゃあ、奥様に挨拶に行かなくちゃいけないので……。ありがとうございました」
一礼して、踵を返した。
*** *** ***
偶然廊下で会った前侯爵夫人は「そう」とだけ言った。
帰る旨を伝えた返事が予想よりも呆気なかったため、エステルは少し寂しく思う。
「すぐに発つのですか?」
夫人の問いにエステルは困惑した。
本当ならば、今すぐにでも邸を出なければならないのだろう。でも。
「……今日、出ます。ですが……セシル様が帰ってくるまで、出来る限り待とうと思います」
切なく睫毛を伏せると、夫人が優しく微笑んでエステルを抱きしめた。
「わかりました。帰ることに文句はつけません。でも――戻って来てくださいね」
柔らかい声に、エステルの喉は鈍く痛む。……別に、永久の別れではない筈なのに。
なぜか、嫌な予感がしてならなかった。不安に押しつぶされそうだった。
エステルは黙ったまま、夫人の首筋に顔を埋めるようにして小さく頷く。それが、今の彼女にとって精一杯だったのだ。
*** *** ***
夫人と別れると、エステルは廊下を進んだ。
昼食の時刻は大幅に過ぎているため、使用人たちが一度に集まるのはもう夕食時しかない。しかし、エステルはその時刻まで邸に留まることはできない。
(……夕日が沈む頃には、邸を出ないといけないわね)
窓の外の太陽を、眩しそうに目を細めて眺めた。
どうしてこんなに心が沈んでいるのか、自分でもわからない。ただ、今までこの邸での生活が愉しくて――幸せだったことだけはわかる。
(なぜかしら?)
いつだって失う時に、幸せに気づく。そうして、当たり前なんて、なにもないのだと自覚する。だから、もっと日々を慈しんで大切にしなければならないのに。
カイルとカレンと過ごした日々も、きっとそうだったのだろう。カレンは『妹みたいに大切に思ってた』と言った。ならば、過去の思い出は嘘で塗り固められたものばかりではなかった筈だ。その時間に感じた幸せは、きっと三人それぞれ感じていたのだろうから。
「また、すぐに帰ってこられるわ……」
――今ある幸せを、今度は失わないように。
願いが叶うように、言葉にした。口にした言葉は、力を持つと聞いたことがあったから、少しだけ信じてみようと思う。
そしてエステルは、食品室女中の部屋の扉を開けた。
誰もいない部屋。誰もが仕事の時間なのだから当たり前だ。
わかりつつも、寂しく思い、自嘲する。
忍ぶように部屋へ入ると、机の上に、小さな手紙と礼の菓子を置いた。
エリンの部屋にも、同様に小さな手紙とお礼の菓子を机に置いた。
エリンとドロシーの部屋にも、食品室女中のものと同じ手紙と菓子を届けると、エステルは自室に戻り荷物を鞄に詰め込んだ。戻ってこられることを信じて、少しだけ私物を残して。
服も、女中服から簡易ドレスに着替える。豪奢ではない地味な色合いのそれは、裕福な商家の娘にしてはち少し味気なく、中流家庭や激貧貴族というには丁度良いものだった。
今まで着ていた女中服を、丁寧に畳んで寝台の上に置く。
若干大きくて鞄に仕舞えなかったクマのぬいぐるみは――置いていきたくないから、恥ずかしながらも腕に抱いていくことにした。
椅子に座り、窓から外を眺める。茜色の夕日が雲にかかっていた。
少し霧が出始めたのか、窓の外の風景は遠くがぼんやりとしか見えない。
エステルは、クマの後頭部に口元を埋めるように抱きしめた。
机に置かれた残り一つの礼のお菓子。それは、セシルの分だ。
告白の返事は、絶対自分の口から伝えたいと決めたから、手紙を添えるのではなく、彼が帰ってくるのを時間の限りまで待ち続ける。
(……セシル様、早く帰ってきて)
エステルは一心に願い、クマのぬいぐるみを抱きしめる力を強めた。
*** *** ***
セシルが邸へ帰ってきたのは、エステルが帰省した翌日の昼のこと。
多くの出迎えに、少し疲れた笑みを滲ませる。
「お帰りなさいませ、セシル様」
執事がセシルから外套を受け取ると、邸の中へと促した。
「視察先は霧が濃かったが、こっちはそうでもないんだな」
セシルは苦く笑うように雑談を楽しみながら、出迎えで並ぶ使用人たちの顔を見渡す。だが、そこに探して捜している人物は見つけられなかった。
疑問よりも先に、心を揺さぶるような不安をおぼえる。
セシルは小さな声で執事に問うた。
「……エルーがいないようだが?」
執事は残念そうな面持ちでそれに答える。
「実家でなにかあったようでして……。急遽、帰りました」
セシルは目を見開いた。
すぐ後ろに控えていたアールには二人の会話が耳に届いておらず、訝るように執事を見つめる。
セシルは一度深呼吸し、動揺を押し隠して問いを続ける。
「いつ、帰った?」
「昨日の夕方でございます」
答えたのは、家政婦だ。彼女は手にしていた包みをセシルに差し出す。
「……これは?」
「エルーが出立前に、セシル様に渡してほしいと頼んだものでございます。お礼だと申しておりましたが……」
どうやら、中身は彼女も知らないらしい。
セシルはそっとリボンを外し、包みを開ける。中から出てきたのは、焼き菓子だった。
そして気づく。外したリボンに、文字が連ねられていることに。
文字を目で追えば――『甘いもので疲れを癒してください。誕生日の贈り物、とても嬉しいです』とだけ書かれていた。
心が震えた。
今すぐにでもエステルに会いたい。それなのに。会いたい時に、彼女はいない。
疲れで緩む感情の箍を、なんとか押し込めるために手で両目を覆って自制する。
(――エステル)
一体彼女の身になにが起こったというのだろうか。
奥歯に力を込めて佇んでいると、執事の気遣わしげな声が掛けられた。
「セシル様……あと、これが届いております」
執事は一通の手紙をセシルに渡す。
セシルにとって、今は手紙どころではなかったが――差出人の名を見て、息を呑んだ。
「セシル様?」
アールの声に、セシルは硬い表情で答える。
「……マーサからだ」
――『マーサ』。
それは、クラーク家の情報を逐一流させるために派遣した、キング家の、歳嵩の女中の名である。
アールが目を丸くすると、セシルは素早く封筒から便箋を取り出す。
やがて書かれている文に、言葉を失った。
『クラーク家に、ハーシェル家の嫡男カイル様が滞留』
――焦る事はない。
そう思っていた自分を、セシルは殴りたくなった。