8. 女中、厨房にこもる 前編
その日は、久々に見事な晴天に恵まれた。
予ねてから領地の視察へ出ようと検討していたセシルは、玄関扉から外へと一歩足を踏み出す。
「行ってくる」と出立の言葉を口にしてちらりと背後に目を向けるれば、使用人たちが見送るための列をなしている。その中に、エステルの姿があった。
ずっと求めていた存在がすぐ傍にあることを噛みしめ、相好を崩す。
それに気づいたエステルは、はにかみ笑いを返した。
長い片思いの期間を経て、やっと告白できる場所に立った。
彼女がセシルの気持ちを受け入れるかは、セシルにはまだわからない。だが、今まで”セシル”として彼女と世間話を交わすことも叶わなかった彼には、現状でも十分幸せを感じていた。
仮装舞踏会場から帰ってから、セシルはいつものようにエステルと接している。彼女の返事をきくまでは、彼女になんらかの火の粉が及ばないよう、そう決めていた。
――本音をいえば、迫りたいし口説きたい。
エステルがカイルと婚約していたために今まで引いていた分、押して押して押し通したかった。……けれど、結局そうしなかったのは、彼女の心を守りたいと思ったからだ。
そして、返事に時間をおいたのは、彼女がもしセシルと同じ気持ちを返してくれたなら――この先、エステルにどんなことがあったとしても、手放すことはできないとわかっていたから。
たとえエステルがどんな状況に陥り、別離を望んだとしても、セシルはエステルを放さない。
そんなセシルだからこそ、彼はカイルの気持ちが理解できないわけではなかった。――ただ、カイルの立場にセシルが置かれたとしても、彼と同じ行動はしなかっただろう。
セシルは前を向き、待機させられた馬へと歩み寄る。
すべての事情を知るアールが、馬を近寄らせてにんまりと笑った。
「心配しなくても、どうせ視察からすぐに戻ってこられますよ、セシル様」
心中を見透かすように言った近侍に、侯爵は嘆息した。――以心伝心がこれほどまでに嬉しくないことは、いまだかつてなかった。
アールのいう通り、今回の視察は早ければ今日中に邸へ帰れる、小規模なものなのだ。エステルにとってセシルと顔を合わさない時間は、じっくり告白を吟味する機会にもなる。
(なにも焦ることはない、か)
セシルはそう考え、なんの躊躇いも不安もなく馬に跨る。そうして、側近たちを連れて馬を歩ませた。
――『焦ることはない』。
その時のセシルは、そう、思っていたのだ。
*** *** ***
侯爵一行が出立した直後のことだった。
エステルは女主人である前侯爵夫人に呼び出された。
部屋は淡い緑の壁に、植物の模様がうっすらと浮かんでいる。豪華過ぎない芸術。日常に芸術を――という動きが民衆の間で盛んになっていると話には聞いていたが、前侯爵夫人もその活動に賛同しているようだ。
部屋の中央に配置された椅子に座る夫人は、嫣然と唇に弧を描き、エステルを向かい席に勧めた。
「あの、私は使用人でございます。同席は……」
エステルはいつもより丁寧な言葉をつかい、卓の脇に控える。
しかし、夫人はなぜか椅子から立ち上がった。
「では、わたしも立ったまま話します」
「……は?」
エステルは目を点にする。
(なにをおっしゃっているのかしら……。奥様も立って会話? な、なんで?? 私、変なこと言った? でも、使用人と主人って同席しないものよね?)
頭の中を疑問符で満たしたエステルが首を傾げれば、夫人は疲労を滲ませた吐息を漏らす。
「でも、最近歳なのか、立ったまま会話するのはちょっと疲れます」
「……は、はぁ。あの、どうか私にお構いなく椅子に座ってくださいませ」
「それはできません。ほら、貴女が立ったまま会話すると、わたし、見上げなければならないから首が痛くなるでしょう? だから、椅子に座ってください」
わかるような、わからないような、やっぱりめちゃくちゃな言い分である。
エステルはしばし躊躇したが、夫人は目を細めて見据えてくるため、しまいには折れた。……彼女は女主人に他ならないのだ。命令を反故にするほうが怖い。
「では……失礼いたします」
正面席にエステルが腰をおろす。
夫人はようやく椅子に座った。
「貴女のことは、アールとセシルからきいています」
その一言に、エステルは視線をあげる。すぐにこめかみから冷や汗が伝った。
「あ、あのっ」
「紹介状に書かれていたエルーという名前は、偽名だったのですねぇ」
「偽名ではありますが、愛称でもありまして」
「男爵令嬢が身分を隠して元婚約者の好敵手の家に女中入りしていたのですねぇ」
「その、諜報員としてではなく……情報は一切漏らしたりは」
「……っていうネチネチした嫁姑の会話をしてみたかったのです」
「はい、ネチネチした嫁姑………………は??」
エステルは口をあんぐりと開けて呆けた。一体夫人をなにを言いたいのか。というよりも、なにをしたいのかがさっぱりわからない。
様子を窺うように夫人の瞳を凝視してみると、彼女は会心の笑みを浮かべた。
「言ったでしょう? セシルから聴いた、と。――セシルからはね、仮面舞踏会で貴女と出逢って恋に落ちたから、邸に届く縁談は受けられないという話を聴きました。貴女がハーシェル家の嫡男と婚約していたことも、白紙になったことも知っています。知っていて、エステル嬢、貴女を雇いました」
「私がキング家に不利益となる情報を横流しにすると、お考えにならなかったのですか……?」
エステルが戸惑った声で問う。
夫人は、セシルによく似た淡い金の髪を指に絡ませた。
「まぁ、考えなかったといえば嘘になりますね。でも……ほら、家の男性陣は草食系ばかりなので、ちょっとくらい息子の手伝いをしてもいいかな、と思いまして」
「……草食系……」
すると、夫人は自嘲するように鼻で笑った。ついで遠くにある記憶の糸を辿るように、穏やかな色を目に宿す。
「セシルの父である夫は、すこぶる草食系でした。彼と両思いになるまでのわたしの苦労といったら……もう涙なくしては語れません」
「は、はぁ。そうなんですか」
「……アールからも聴きました。仮装舞踏会でセシルがやっっと告白したとか」
刹那、エステルは顔を紅潮させる。セシルの実母である夫人の前で、どういう顔をしていいのかわからずに俯いた。
だが、そんなエステルの変化を気にする風でもなく、半ば呆れたように夫人は続ける。
「返事は待ってくれと、セシルが言ったとも耳にしています」
エステルは一度肯いた。
夫人は長い溜息をつく。
「本当に草食系というかヘタレというか……。このままでは、あの子は婚期を逃します。そうなれば、わたしは当分この邸にいなくてはなりません。女使用人の主となる女主人がいなくなるのですから。つまりは、わたしは主人のところへ行けません」
その言葉に、エステルは首を捻った。そういえば、カイルはまだ侯爵の地位を継いでいないが、セシルは侯爵位にいる。邸でも前侯爵を見かけないため、生きているのか疑問に思っていたが……。
「あの、前侯爵様は……」
生きてらっしゃるのですか? とは訊けず、口ごもった。失礼すぎて絶対に訊けない。生きていても亡くなっていても失礼という、答えによっては救われる二者択一 ――ですらない失言だった。
そも、なぜか前侯爵の話題をエステルが男爵令嬢として過ごしていた間に耳にすることはなかったのだ。話題にのぼらない、ということは、領土に悪政を施していたわけでもないだろう。
すると、夫人は手の甲を唇にあてるように笑い始めた。美貌の主の無邪気な笑いに、エステルの瞳は離せない。
「生きていますよ。ただ、体が弱いので療養地でのんびりさせています」
エステルは心底安堵する。うっかり口に出してしまったが、まさか地雷を踏んだかと思った。
そうして、先刻の『主人のところへ行けません』という言葉を思い出す。
「ご主人様を、愛してらっしゃるのですね」
やんわりとした笑みを浮かべると、夫人がとろけるように目を細めた。
「だから、常に共に在りたいのです。――なのに、あの子ったらなかなか結婚してくれないので困ってます」
夫人はエステルへと視線を向けた。
それまでのおどけた空気を払拭するような、あまりに真摯な眼差しを受け、エステルの体は緊張で強張る。
「もう、返事は決めているのですか?」
優しい声音。けれど鋭い問いに、エステルは拳に力を込める。――答えは、決まっていた。
「はい」
簡潔に答えれば、夫人は苦笑する。
「そう。じゃあ、わたしからはもうなにも言えませんね。貴女は貴女の決めた道を進んでください」
用件はそれだけです、と告げて夫人は腰をあげると――突如、なにかを思い出したかのように拳で掌を打った。
そそくさと整理箪笥へと足を向け、抽斗から巻かれた紙を取り出す。
「すっかり忘れていました」
言葉と同時にペンとインクを用意し、エステルの目の前に置く。
「貴女の名前を頂戴できますか?」
有無を言わさない圧力の込められた声。エステルは怪訝に思った。
差し出された書類は、まだ半分が巻かれたまま。署名する空欄は開かれているが、書類の内容が書かれているだろう文章はほとんど読み取れなかった。
脳裏で、詐欺の類だろうか?と考えるも、男爵家よりも遥かに裕福な侯爵家の夫人が、エステルを罠にはめる価値はない気もする。
(……で、でも、なんの書類か確かめた方がいいわよね)
夫人を信頼していないわけではない。一応――一応、だ。
そう思うエステルであるが、それでも重い空気を耐えがたく、とりあえず目の前に置かれたペンを握ってみる。
ペン先にインクをちょん、とつける。そして、半分巻かれたままの紙に視線を落とすと……すぐに視線を夫人に向けた。
「…………あの、これ、なにかの契約書に見えるのですが」
夫人は悪びれることなく答える。
「あら、目聡いですね。見える、ではなく、そのものです」
平然と返答した彼女を、顔面を引き攣らせながらエステルは見つめる。
(……なに。なんなのかしら。キング家の面々って……貴族のそれとは違う怖さがある気がする……)
本能がかの侯爵家を敵にまわすな! と警告していた。
それでも、契約書は自分の人生を左右するものであるため、エステルは意を決して尋ねた。
「……あの……なんの契約書、ですか?」
瞬間、夫人の瞳に妖しい光が宿った……ようにエステルには見えた。背筋にぞぞっと震えが走るが、なんとか堪えてみせる。
夫人は笑った。それは妖艶でも嘲りでもなく、純粋な子供のような笑み。
そんな表情にエステルが肩の力を抜くと、彼女は金の髪を揺らして答えた。
「わたしが雇ったのは、エルーという女の子であって、エステル嬢ではなかったでしょう?」
その一言で、エステルは理解する。
夫人が女中として雇ったのは、紹介状にあった”エルー”という娘であって、男爵令嬢の”エステル”ではない。ゆえに、今後も女中として邸にいたいのならば、”エステル”の名で契約をし直そうということだろう。
しかし――そういうことか、と納得する一方で、やはり半分巻かれたままの、見えない文章部分が気にかかる。
エステルは再度夫人を視線だけで見上げる。
それに返されたのは――悲しそうな、けれど威圧を感じさせる表情だった。まるで(わたしの言葉を信じてはくれないのですか? 主人の言葉でも信じられないのですか? 信じられない主人に仕えているのですか?)と問う――いや、問い詰めるような、それ。
時間の経過と共に、エステルの胃は痛みを訴える。背筋を流れる冷や汗。つい逸らしてしまった紫の瞳。
結局、エステルは降参し、ペン先を書類に走らせた。
書いた名は本名である”エステル・コーネリア・クラーク”。
――きっと、夫人がエステルを悪いようにはしないだろうと信じて、ペンを置く。
インクが乾くと、夫人はさっさと書類を巻き直し、再度抽斗にしまった。
ついでエステルの傍まで歩み、「ありがとう」と手をとって彼女を立ち上がらせる。同じ高さで瞳をあわせれば、夫人が目を伏せたのがわかった。
「時間をとらせてしまってごめんなさい。今度こそ、もう戻っていいですよ」
少し憂いを纏った陰りが気になったが、エステルは一礼して踵を返す。
扉を開けた時、かすかに呟きが聞こえた気がした。
「……エステル嬢、あの子は―― 一途過ぎるきらいがあることを、どうか忘れないでください」
静かなそれは、扉を閉じる音に掻き消された。
*** *** ***
休憩時間になると、エステルは厨房へと向かう。
エステルは、すっかり忘れていたことがあった。
それは――誕生日のお礼をまだ誰にもしていなかった、ということだ。
エリンには祝ってもらい、食品室女中には迷惑をかけてしまった。そして――セシルには、料理とクマのぬいぐるみをもらった。
心遣いが嬉しかった。暗い海底に陽の光が射し込んだように、救われた気がした。だから……自分が彼らに喜んでもらえる礼を、必死に考えて。ともすれば、女中であるエステルができる礼は、心を込めてお菓子を作ることくらいだった。
そうして、こっそり厨房へとお邪魔する。
「おぅ、嬢ちゃん、なんのようだ?」
恰幅のいい髭面の男が、エステルの前に立ちはだかる。熊のような出で立ちだった。もちろん、”熊”といっても、セシルからもらったクマのぬいぐるみという可愛いらしいものではなく、ツキノワグマのような巨体系だ。
「奥方様のつかいか? それともおこぼれがほしいのか?」
かかっと豪快に笑うと、彼はなぜかエステルは背中を叩く。
エステルは叩かれて熱をもった背を想い涙目になったが、気を取り直した。
「そうではなく、厨房の片隅を貸していただけないでしょうか?」
一瞬にして男の表情から笑みが消えた。……それはそうだろう。男は身なりからして、彼は料理長だ。厨房は彼の聖域である。
「ほぉ。理由は? 俺の料理が食えねぇとでもいうのか?」
地響きのするような低い声に逃げ出したくなったが、なんとか踏んばった。ここで逃げては礼の品が用意できない。なんとか理由を話し、理解してもらえたら、と願う。
「そうではありません、料理長様。……以前、誕生日にいただいたケーキ、とてもおいしかったです」
「……ケーキ? いつの話だ」
「つい先日です。五月の話です」
ああ、と男はこめかみを掻いた。ついで両腕を組む。
「で、なんで厨房の片隅を借りたいんだ?」
見下ろしているのか、見下しているのか。判断が難しい視線を向けてくる料理長に、エステルは頭を垂れて理由を話した。
「その時にお世話になった方々に、お礼の菓子を作りたいのです。女中の私では、その方たちのお眼鏡に適うものは差し上げられません。だから、考えて考えて考えた末、趣味のお菓子作りを活かせないかと思いました」
「ふーん」
なんとも短い返答が返ってきた。またしても男の感情は読み取れない。
彼から許可がおりなければ諦めざるを得ないため、必死の懇願だった。
数拍後、男はエステルの頭をぐりぐりと撫でると、頭を上げさせる。
「で、なにを作るつもりなんだ?」
やはり頭をぐりぐり撫でられたのが若干痛かったし怖かったエステルは、涙目で見上げた。
「び、ビスキュイ テです……」
紅茶の香りが特徴的なマドレーヌと同種の菓子。これならば休ませる時間もないため、休憩時間内に作れる。
料理長は「ほーお」と唸った。エステルが眉根を寄せると、男は白い歯を出してニカッと笑う。
「随分詳しそうだな、嬢ちゃん」
「は、はぁ、ありがとうございます」
「用意してほしいもん言ってみろ」
それは、まるで挑戦状のような言葉だった。エステルは首を竦めながらポツリポツリと呟く。
「アーモンドと卵、あと糖と紅茶、バター・薄力粉・水・ベルガモット香料をお願いできますか?」
指折り数えながら、過去に同菓子を作った時の記憶を手繰り寄せた。
料理長は感心したように腰に手をあてると、「しゃーねぇな」と苦笑した。
返答と表情から、どうやら厨房の片隅を貸してくれるらしい。
エステルがほっと胸をなでおろし「ありがとうございます」と笑う。
すると、男はまたしてもエステルの頭を掴んだ。かいぐりするようにぐるりと掌をまわし、同時にエステルの首もぐるりと傾ぐ。
「まったくの初心者だったら貸さねぇけどな。今回だけは特別だ。完成したら俺様が味見してやんよ。だから半分とっとけ」
「それじゃお礼の品がほとんどないじゃないですか。もう! そこまで頼んでません」
エステルが唇を尖らせる。料理長は「うまかったら食品室女中に推薦してやろうか?」とおどけたようにまた口角を上げた。
それからおよそ一時間、エステルは厨房から出てくることはなかった。