7. 侯爵様、夜会へ行く ――不吉な赤い月――
時計の針が深夜をさす頃、男爵は一人、執務室にこもっていた。
執務机に肘をつき、掌で額を押さえる。
(――厄介なことに、なったな)
苦い顔で溜息をつき、悩みの種を脳裏にめぐらせた。
黒髪の端整な顔の青年は、エステルに会いに来たと、言った。
しかし、娘は今、邸にはいない。まさか、カイルの好敵手であるキング侯爵邸で女中をしているために留守だ――とは言えない。絶対に言えない。
ゆえに、引き攣りそうになる顔でなんとか無難な答えを述べた。
「その、だな……エステルはちょっと落ち込んでいてな…。気分転換に空気のきれいなところへ行かせたのだ」
ははは、といつもの誤魔化し笑いをする。これで乗り切ったと、男爵はわずかに達成感を抱いた。しかし。
「では、俺がそこまで行きます。場所を教えてください」
「え!? いや、それは――」
男爵は焦って口ごもる。
ついで、「お願いします!」と頭を下げるカイルに眉根を寄せた。
彼は、必死だった。むしろ、必死すぎて……謝る事だけが目的ではないと、悟ってしまった。
男爵はカイルの肩に手を置き、頭を上げるよう促す。そして、核心に迫る。
「カイル殿……エステルに会って、どうするつもりだい?」
わずかに瞳を揺らしたカイルは、しばし黙り――やがて口を開いた。
「エステルが、好きなんです」
「……それで?」
カイルは奥歯に力をこめ、男爵を正面から見据える。灰青の瞳に映し出された真剣な心から、男爵は目が離せなくなった。
「もう一度、婚約を申し込みます」
程よい低さの声。心地よいそれは、決意を秘めていた。
本気で娘を妻にと望む姿勢。確かにそれは評価すべきだ。だが、男爵はカイルの肩に置いた手を宙に浮かせた。
他人のことは言えないが、婚約していた折に、娘ではない者の言葉を信じた青年。娘を想う父として、簡単に頷けるわけがない。――それに。
(あの娘がカイル殿を受け入れることは、ない)
誰も信じられなくなった、大切な娘。記憶に残るエステルは、誰とも距離を置き、世界を冷ややかに見るようになっていた。再び心を開いてくれるのかさえ、わからないというのに。
男爵が唇を引き結んでいると、カイルが言葉を紡ぐ。
「エステルに非はありませんでした。――俺は、彼女を信じ切れなかった。……彼女を、好きだったから。信じて裏切られてしまったら、俺は彼女を殺して自分も死ぬ事を選ぶでしょう。だから……手放せる内に手放そうと、思いました。信じて裏切られる前に、俺が信じる事をやめようと……」
カイルの瞳がまるで底のない海のようで、男爵は息を呑む。
カイルは自嘲した。
「でも、もう手遅れでした。婚約を破棄すれば、エステルへの執着は消えると、思っていた」
「カイル殿」
「なにをしていても、エステルのことが頭から離れないんです。それなのに、最後に見た苦しそうな泣き顔と悲痛な声しか思い出せない」
かつてエステルは、喜怒哀楽が顔にでる、あたたかい笑顔の娘だった。きっと、カイルの中でもそうだったのだろう。
カイルは顔を苦しそうに歪める。
「苦しい時に思い出せば、いつも彼女の存在に癒された。騎士になるために王宮で過ごした長い時間も、彼女を妻とするためにがんばれた。それなのに。今、思いだせる彼女は辛そうな姿ばかりなんです」
男爵とカイルの記憶に残る、初めてみた、泣き崩れる姿。「信じて」と叫ぶ声は悲愴の色が浮かび、涙でこもっていた。
それからカイルは、男爵に己の心を打ち明ける。
カイルはカレンの言葉を信じて婚約を破棄したわけではない。彼女に裏切られる前に、裏切らなければ守るべきものを壊してしまうのではないかと、恐怖したから。
だから、婚約を破棄した。エステルの言葉に耳を塞いだ。この狂おしい想いから、解放されたいと、願い。
そうして婚約が白紙になったのに、カイルの心が軽くなる事は、なかった。
なにをしていてもエステルのことが心にひっかかり、どうしようもなく。
震える心を抑えきれず、やがて彼女の周辺を調査させることに決めた。
あがってきた調査報告は――彼女の無実を示すものだった。
本当は、もっと早くにこうしなければならなかったのだ。もう、エステルはカイルを信頼することはないだろう。後悔するには遅すぎた。
それでもエステルを諦めきれなかった。だから。
カイルは奔流する気持ちを一度止め、目的を口にした。
「お願いします。エステルに会わせてください」
強い願いを込めて、かつて義父になる筈だった男爵に懇願する。
「カイル殿……。娘は、あなたに会うことをきっと拒む。私はもうこれ以上、あの娘を傷つけたくないんだ。……カイル殿、わかってくれ」
「男爵……」
男爵が今度は娘を守ろうとしていることは、カイルにもすぐわかった。けれど、引くわけにはいかない。彼は、もう一度、エステルに会いたかった。――どんなことをしてでも。
カイルは何かを封じ込めるように、目を固く瞑る。数拍後、感情を廃した双眸で頭半分背が低い男爵を見下ろした。
「カイル……殿?」
あまりの威圧を感じるそれに、男爵が目を丸くすると、彼は前髪を掻きあげた。
「男爵、俺とエステルの幼い頃の約束が正式な婚約になったのは――うちが男爵家に資金援助することが条件でしたね」
「……」
男爵がごくりと唾を嚥下すると、カイルは灰青の瞳で鋭く射貫く。
「手段を選ぶつもりはありません。――使えるものは、なんでも使います。例え父でも」
急に男爵は薄ら寒さを感じた。目の前にいるのは、本当に自分がよく知った青年だろうか?
「カイル、殿……」
「別にお金を返せといいたいわけではありません。――男爵、あなたは知っていますか?」
「なにを、だね?」
「カレンが伯爵と結婚したと」
刹那、男爵の目が見開かれる。それを見たカイルは会心の笑みを浮かべた。
「相手は中年の色ボケ伯爵です。……メイナード家は、相当お金に困っているようですね。娘をあんな伯爵に娶らせるとは。でも――かの伯爵家の権力は結構なものです。そう、一つの男爵家など簡単に追い詰められるほどに」
「――!?」
男爵は顔を蒼白にさせた。カイルのいいたいことが、わかった。
かつて資金援助を必要とした、爵位も高くない男爵家に圧力をかけるなど、簡単なことだと。そして、カイルの実家である侯爵家が圧力をかけなかったとしても――なぜかエステルを目の敵のように追い込んだカレンが、伯爵の力を利用すれば、没落に追い込むことなどわけないと、示唆しているのだ。
「カイル殿、君は――……」
真っ直ぐな青年だと。真っ直ぐ過ぎて潔癖な青年だと、思っていた。けれど、エステルが婚約を破棄されて変わったように、彼も変わってしまったのかもしれない。――いや、むしろ、彼の先ほどの言葉からすると、秘められていたものが堰を切ったように溢れたというべきか。
カイルは灰青の瞳を細め、男爵の反応を認めると、踵を返した。
扉を開き、歩をとめる。
「……男爵、では、よろしくお願いします」
まるで、自分に汚い真似をさせないように頼む言葉を残し、青年は去った。
男爵の知る彼は、権力にものをいわせて人を動かすことを、本音では嫌っていた。だから、彼の父である侯爵を嫌悪していたきらいがあった。
彼が、本当は思いやりがあることも、知っている。
そんなカイルが、ただ一人の娘を手に入れるためだけに。持ちうるすべてを利用している。
――真っ直ぐ過ぎる性格が、彼に甘い隙を与えないようにした。
『エステルが、好きなんです』
その言葉に嘘はないだろう。
彼が侮蔑する行為を自らしようとする姿から、それは窺える。
だが。
娘のことを想えば、男爵は自分の不甲斐なさとカイルの容赦なさにやるせなくなる。
「エステル――……」
懺悔するように娘の名を呟くと、男爵はカイルが帰った後に書いた手紙を抽斗から取り出した。
古い付き合いの執事を呼ぶ。
「お呼びでしょうか」
深夜にも拘わらず、執事はすぐに現れた。
「こんな夜に、すまない」
「いいえ。旦那様、元気がないようですが……」
男爵は表情だけで心を読む執事に苦笑を返した。有能すぎるのは、たまに徒となるようだ。
「お前には隠せないな」
そうして、手にしていた封筒を渡す。
「どちらへ?」
男爵は溜息をついた。
「キング侯爵家へ――」
男爵が窓から空を見やると、不吉な赤い月が浮かんでいた。