7. 侯爵様、夜会へ行く ――明かされた秘密――
部屋に二人佇む。
やがてセシルはエステルの片頬に手をそえた。他を見る事を許さないというように、エステルは頭の角度を固定される。
絡み合う視線をそらせず、エステルは気まずさに汗を滲ませた。必死に話題をさがし、思いついたことを口にした。
「あの、セシル様、同伴の方がいらっしゃらないようですが……」
すると、セシルは熱にうかされた瞳でエステルを一心に見つめる。
「もう、いる」
「は?」
(目には見えない同伴者なのかしら……いやいや)
エステルが心中首を振ると、セシルは慈しむような笑みを浮かべた。
「あなたと、夜会で会う度に一緒に茶を飲んでいただろう?」
――『夜会で』。
つまり、男爵令嬢だった頃のエステルと会ったことがある、ということだ。
呆気にとられると同時に、エステルは必死に記憶を弄った。美形の侯爵ともなれば、記憶の片隅どころかど真ん中にあってもおかしくはない。だが、セシルと茶をしたどころか、見かけた記憶もなかった。
「あの、人違いでは?」
躊躇いがちに答えると、少し困ったように、頬を染めてセシルは口を開く。
「いや、間違ってない。……私が女装していたから……気づいてないだけだと思う」
恥ずかしげに答えたセシルの言葉に、エステルの思考は一時停止した。
(……今、なんて言ったの?)
助走でもなく、除草でもなく、序奏でもなく。
――『女装』。
男が女仕様になるという、あれ。
「えええ――っっ!?」
エステルはすぐにひらめいた。
仮面舞踏会で会う度に茶を一緒に飲んだ、あのこげ茶の髪の魅力的な美女。――あれは、女装をしたセシルだったというのか。
「ど、どうして……あの、まさかそういう趣味が」
「違う! カイルがいる夜会に私がいるわけにはいかないだろう。それでも、仮面舞踏会は情報収集には最適だからだ」
確かに仮装舞踏会ならば被り物も出来るだろうが、仮面舞踏会では鬘と仮面くらいでしか工夫はできない。カイルとは長年の付き合いであるため、少し変えただけではすぐにバレる可能性もあるだろう。……けれど。
エステルは、なかなか勇気がある選択だと思った。
そして、ふと、”カイル”という単語に戸惑う。先刻、彼は『すべて知っている』と、言ったのだ。
訊くのが怖かったけれど、エステルは躊躇わずに言う。
「私がカイル様と婚約していたことも……その婚約が破棄されたことも、知っていたんですね」
答えは欲していなかった。
もしかしたら、セシルに憐れまれていたのだろうか。それとも、今もカイルを好きで、彼のために働いていると誤解されているのだろうか。悪い予想ばかりが脳裏に浮かぶ。
そんなエステルを、セシルはそっと抱きしめる。拍子に、ビクリと肩が震えた。
腰にまわされた腕に緊張するエステルだったが、優しさを含んだ声音に心が緩みそうになった。
「……知っていた。あなたが私の傍にいてくれる理由は、あなたから訊いた通りだろうとも、思う。――でも、私があなたを傍に置いたのは、それをずっと願っていたからだ」
セシルはエステルが息を詰める気配を感じた。それでも、続ける。
「前に、あなたに問うたことがあったな? 一夜の恋の夜会定番の曲について」
それは、恋した青年の幸せを願って、命を投げた娘の曲。
「あなたは、すべてを捧げられても嬉しくないと、言った。――辛い時に傍にいてくれた方が嬉しいとも」
エステルは耳元で囁かれる甘い声にくず折れそうになる。だから、セシルの服を弱く掴んだ。
セシルは小さく口元を緩めると、エステルの顔を見られるように、上体を少しだけ離した。
至近距離で見つめる翠の瞳には、エステルが映っている。きっと、エステルの紫の瞳にもセシルしか映っていないのだろう。
「あなたの、本当の名を、呼んでもいいか?」
言葉を発せずにいるエステルは、小さく頷く。すると、セシルは本当に嬉しそうに、顔を歪ませて微笑む。
「エステル――ずっと、そう呼びたかった」
再びセシルはエステルを抱きしめる。その力は、先刻よりもずっと強かった。
「セシル、様」
「……好きなんだ。二年前、夜会で出逢った時からずっと、好きなんだ」
エステルの身体の芯に、甘美な痺れが走った。
好きな女がいるからと、胸に秘めようと決めていたのに。もう、秘めなくてもいいのだろうか? いや、それよりも……秘めたくとも、もうできないだろう。愛おし過ぎて、溢れるものを誤魔化しきれない。
「ずっと、傍にいてほしい。誰の目にも共にあることが当たり前の場所にいてほしい」
侯爵と共にに無条件でいられるのは、妻しかありえない。愛人では、公の場では許されないのだから。
「――エステル、私は、あなたが好きだ。傍にいてくれ」
真っ直ぐで情熱的な眼差しに、エステルは顔面から火をふくほど赤らめる。火照る身体と早鐘をうつ心音が伝わっていたら、と思えば、近すぎる距離が辛かった。
笑いたいのに、泣きたくなる。
エステルの壊れそうだった心を、寸前のところで守ってくれた男。恋を自覚するのを恐れていたけれど、彼の優しさは、ついには心の奥底に沈めることをできなくさせた。好きだった。どうしようもなく。自分の幸せを二の次にしてでも、彼の幸せを願うくらいに。好きな男に、好きだといわれることを、本当は望んでいた。
エステルは嬉しさで泣き笑う。そして、口を開こうとした。
――しかし。
セシルはエステルの口を片手で塞いだ。
「…………。……?」
謎の行動に、エステルは怪訝な眼差しでセシルを見上げる。
(……なんで私、口を塞がれているのかしら)
エステルにはさっぱりわからない。
そんな彼女の様子に気づいたセシルは、視線を彷徨わせながら、エステルの瞳が物語る質問に答えた。
「……返事は、ゆっくり考えてほしい」
(……は? なんで?)
侯爵は焦らされるのが好きなのだろうか。それともエステルの気持ちにまったく気づいていないため、答えを先延ばしにしているのだろうか。
エステルが身を捩り、なんとか口を塞ぐセシルの手を外そうと手をそえると、彼は再びエステルを強く抱きしめる。今度は唇を塞ぐように、セシルは腰を少し屈めてエステルの頭を強く自らの首筋に押さえ込む。そうされれば、エステルの耳裏にセシルの唇がつけられ、疼くような寒気がした。
「答えは、急いでないから、じっくり考えてほしいんだ。――ずっと好きだったあなたと、もし相愛になれたら……私は間違いなく手放せなくなってしまうから」
セシルの気持ちは、十五年間一途だったエステルのカイルに対するそれと比べても、間違いなく劣らないだろう。
セシルは、ずっと、ずっとエステルのことが好きだった。
実らないと世間でいわれる初恋。セシルは初めからそれに気づいていた。
出逢った時からエステルはカイルのことが好きだったから――彼女の幸せをただ願い続けた。彼女が幸せになるのなら、なにと引き換えにしても構わないと思った。だから、気持ちを押し殺していた。
そうして夜会の曲の話を持ち出したのだ。
『すべて捧げてほしい』
そう彼女が願ったならば、迷うことなくそうしただろう。
しかし、彼女は違う答えを示した。『辛い時は、傍にいてほしい』と。
本当は……彼女の婚約が破棄されたと知った時、彼女の願い通り、傍にあろうと、彼は思っていた。すぐにでも彼女のもとへ飛んで行き、傍にいたかった。
だが、エステルはこげ茶の髪の女がセシルとは知らない。自分が傍にいたところで支えになれると、セシルには思えなかった。
ゆえに、手をまわし、彼女の両親が真実を知るように仕向けた。それで、彼女が少しでも救われたらと、祈った。
結局それは意味をなさなかったけれど。
彼女が誰に対しても距離を置いて接するようになったと報告を受けた時、自分のあまりの無力さに辟易した。
――それでも、頑張ってみせる。精一杯努力する。だから――傍にいてほしいと……。
もう一度だけ、セシルは言った。これが最初で最後の機会かもしれないと、なんとなく予感したが、彼にはもう退く気がない。
「エステル、私はあなただけを想い続ける。隣にいてほしい。――返事は急がない。だから……私の気持ちを、記憶に留めておいてくれ」
やがてエステルが小さく頷くと、セシルはようやく拘束する腕を解いた。
もう、エステルの用意した茶用の湯は冷めているだろう。
エステルは赤く染まった顔を俯け、セシルに問う。
「もうお水になってしまったので、お茶は淹れられませんが……お水、いかがですか?」
セシルからの思わぬ告白に、エステルの頭の中はぼんやりとしてしまう。なんとか笑おうとしたのに、中途半端なはにかみ笑いになってしまった。
「ああ、ありがとう」
セシルの和やかな笑みに、エステルはほっと胸をなでおろす。
ティーカップに水を注ぎ、檸檬を輪切りにして浮かべた。それを侯爵の前に置くと、彼は席を勧める。
「いつもみたいに一緒に息抜きしよう。夜会のたった一つの楽しみだったんだ」
……夜会のたった一つの楽しみ。
エステルは、セシルが自分と同じ気持ちだったことを知り、目を瞬いた後「はいっ」と明るく返事をした。
自分の分の檸檬水も用意して、正面席に座る。
セシルが翠の瞳を優しく細めた。
エステルは胸の高鳴りを隠したいのに、心音は部屋中に響いている気がした。