7. 侯爵様、夜会へ行く ――裏切りの理由――
日付があと半刻で替わろうとする頃、エステルは厨房前で銀の盆を受け取る。
菓子はなく、湯と温められたティーポット、それに茶葉とティーカップがあれば充分であるため、盆でも事足りた。淹れる茶はレモンティーにしようと、檸檬も一つ貰う。
「ありがとうございます。手間をとってしまい、申し訳ありませんでした」
盆が傾かないよう頭をさげると、この邸の使用人は事務的に答えた。
「これも仕事ですから。お客様には尽くさなくてはならないものです」
彼女はエステルが初めて会う種の女中だった。
茶道具一式を頼むと、てきぱきと素早く用意してくれた機敏な動き。少々無愛想ではあるが、できる女、という印象を受ける。
こんな時、(案外、女中世界のほうが私には向いているかもしれないわ)と思う。煌びやかでも腹の探りあいをする貴族間の付き合いより、よっぽど肩の力を抜けるのだ。
(この邸の菓子についてとか、おしゃべりできたらいいのに)
そんなことを思えばこのまま辞するのは名残惜しいが、まだエステルにも仕事が残っている。ゆえに、別れの言葉を述べて身を翻した。
*** *** ***
カツ、と踵の高い靴の音が甲高く響く。
「……エステル?」
去って行くエステルの後ろ姿を、瞠目しながら見つめる黒いドレスの女が呟いた。
彼女はまるで、その魅力で男を誘惑し、異世界へと連れて行く妖精のような容姿をしている。
女は妖艶に紅の唇に弧を描いた。――金茶の瞳には、憎悪と哀れみを滲ませて。
やがて女は、緩く巻かれた紅の髪をなびかせて、エステルの向かった先へと歩んだ。
*** *** ***
目が眩むような舞踏会場で、セシルは偶然目のあった女に愛想笑いを浮かべる。神が創り出した傑作のような美しい顔で笑めば、惚けない女などいないだろうそれ。
露出の多いドレスを纏った蠱惑的な女は、頬を染めて笑みを返す。
そうして、セシルの前まで歩み寄ると、誘うように彼の腕に手を伸ばした。
「……随分お美しい殿方ね。一夜の恋の夜会に神官様の装いだなんて……ふふ、なんだか禁断の恋みたいで――燃えますわ」
濡れた唇を艶かしく吊り上げる。ついで、青年の腕に自分の腕を絡ませて身を寄せた。
セシルは素気なく振り払うことをしなかった。別に嬉しいからではなく、ただ単にこういった場での礼儀だからに過ぎない。
だからといって付き合う義理もない彼は、浮かべたままの笑みに困惑を滲ませて鳶色の髪を揺らした。
「あなたのような美麗な方にお褒めいただけるとは、光栄です。ぜひとも一曲、踊りを申し込みたいですね」
「ふふ、それは嬉しいですわ」
最初から誘われることを期待して寄ってきた女は、当然とばかりに会場の中央へと歩を進めようとした。が、なぜか青年は床に縫いとめられるように動かない。
不思議に思った女がセシルを見上げる。
セシルは腕に絡められた手をそっと外し、その手を優しく両手で包み込んだ。
「――ですが、今夜はもう先約がありまして……。残念ですが、私はこれで失礼します。――どうか、あなたにとって素敵な夜でありますように」
別れの言葉を残し、彼は庭園へ向かって歩き出した。
取り残された女は想定していなかった反応に、しばらく目を丸くしたまま佇んだ。
会場を振り返ることなく庭園におりたセシルは、またも首をめぐらせた。
そんな自分にふと気づき、自嘲する。
「……もう、癖だな」
求めていたのは、夜会で出逢った愛しい女。いつだって夜会の度にさがしてしまう。
自分で自分に呆れるように額を手で覆って、目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶ大切な女は、決して絶世の美貌も艶冶な魅力も持ちあわせていない。けれど、セシルは一目で恋に落ちた。――彼女は、知らず自分が求めていたものを、持っていたから。
しかし、彼女には好きな男がいた。だから、諦めていた。
それでも、心はすでに奪われてしまっていたから、彼女の幸せだけをひたすら願った。
――長い従騎士生活によって、気がつけばセシルは騎士道に染められていた。ゆえに、騎士となった後に行った夜会には、衝撃を受けた。貴族の在り方と、貞操観念。見るものすべてに嫌悪感を抱き、同じ場にいることも苦痛だった。
……だが、そんなある夜に、彼女に出逢ったのだ。
目と目が合うと、彼女は驚いた顔をして……困ったように微笑んだ。夜会で初めて見る、上辺だけのものではない笑みは、とても優しくて……心のわだかまりが溶けていく気がした。
彼女の笑みを思い出し、たちまち癒されたくなったセシルは、迷うことなく踵を返した。
*** *** ***
控え室では、エステルが一人、茶の準備を着々と進めている。
漆黒の卓にティーカップを伏せて並べる。
近侍の姿はまだ部屋になかった。どうやら彼はいまだ情報収集をしているらしい。
(……私もアール様を見習ってみようかしら)
銀の盆を卓に置き、瞑目して考えてみる。
だけど浮かんだのは、ほしい情報ではなく、いらない情報ばかり収集する己の姿。……これでは、世間話が大好きなおばちゃんとなんら変わらない。しかも、なぜかそれだけでは終わらないのがエステルなのだ。
(……セシル様に迷惑かけて終わるわね)
自分のことは自分が一番よく知っている。今まで”極端”だの”じゃじゃ馬”だの言われてきたが、これはエステルが好奇心によってもたらし失敗した結果ではなく、良かれと思ってした行動への評価に過ぎないのだ。
……少しばかり自己嫌悪に陥った。自尊心が喪失されていく気がする。
項垂れながらも、暗くなる自分を励まそうと呟いてみる。
「が、がんばれ、私」
「あら、なにをがんばるのかしら?」
背後から女の声が、した。
エステルの――よく知った声。
驚きに言葉を失い、(――まさか)という疑念を抱きながら、振り返る。
音もなく開け放たれた扉口で立っている姿を、紫の瞳に映した瞬間――エステルは目を見開いた。
なにも考えられないくらい、頭が真っ白に染まった。
ただただ立ち竦んでいるエステルを見かねたのだろう。女は黒真珠のようなドレスを靡かせながら、エステルの目前まで近づく。
そして首を傾けて笑んだ姿は、見慣れている筈なのに――エステルの背筋に冷たいものを走らせた。
「久しぶりね、エステル。まさか、この仮装舞踏会に来ているとは思わなかったわ」
嘲るように金茶の瞳がエステルを射貫いく。
「……カレン」
エステルは掠れた声で、彼女の名を呆然と囁いた。
カレンは返事のかわりに目を細める。
見下すような笑みを向けられ、エステルはわからないように深呼吸する。
暗い感情が心を支配しようとした。それでも力の限り拳をつくることで、心の底に沈めるのではなく、排除しようと心がける。――いつまでも過去に囚われていたくはない。今の自分には、守りたいものがあるのだから。
動揺だけを心の底に押し沈め、見据えるように言葉を紡いだ。
「カレン、私に用があるならすぐに済ませてちょうだい」
セシルが客人を連れて戻って来る前に、カレンをこの部屋から立ち去らせなければならない。
感情を廃した声音に、カレンはわずかに柳眉を顰めた。その反応で、彼女が別の反応を期待していたことを知る。
「用……ね。そうねぇ、幼馴染が元気にしてるのか気になった、とか――ダメかしら?」
「……用件は私が決める事じゃないわ。そうね、元気よ。……これでいいかしら?」
エステルは気持ち、心が焦っていた。日付が替わる時刻まで、そうない。長話をするわけにはいかないのだ。
それに、もし、カレンがエステルのことをすべてセシルにしゃべったら……。そう思えば、心が恐怖で震える。
自分が男爵令嬢であること。好敵手であるカイルと婚約していたこと。婚約が破棄になって、身分を隠してキング侯爵家で女中をしていること。もしかしたら、今もカイルに恋をしていて、また婚約を成立させるためにキング家で間諜をしていると、セシルに思われてしまうかもしれない。
わけを話せば、きっとセシルは信じてくれるだろう。けれど、侯爵として重い責任を背負う彼に、自分のことで手を煩わせたくなかった。
だから、急かす様に言葉をつぐ。
「カレン、用が済んだのなら……」
「正直、本当に驚いたわ。あんなに仮面舞踏会を嫌っていたあなたが……まさか仮装舞踏会には女中の格好をして参加しているなんて」
その一言で、カレンが誤解していることに気づく。
エステルは本当のことを言っていいのか躊躇ったが、支障のない程度で否定することにした。
「私は参加者ではないわ」
「……なにを言ってるの? じゃあなぜ仮装なんてしているの?」
実に不愉快そうな声で問うカレンに、エステルは堂々と答える。
「仮装じゃないわ。私、今、女中をしているんだもの。女中の格好でも不思議ではないでしょう?」
刹那、カレンの目が驚愕で彩られた。
今の身分を恥じず、むしろ誇りすら持っているエステルは真っ直ぐにカレンを見つめる。
「私、まだ仕事があるの。だから、用が済んだなら会場へ戻ってほしいのだけど」
直後、カレンは「はっ」と笑い出した。そこに誘惑するような色は一切なく、エステルを小馬鹿にするものだ。
「ハーシェル家の資金援助をなくして、あなたのお家も資金難で大変なのね」
急にカイルの話を持ち出され、エステルの首がわずかに傾ぐ。
その様子を見たカレンは、「あら?」と声をあげた。
「違うの? だって、あなたとカイル様の婚約は、侯爵家から男爵家へ資金援助することが条件に取り結ばれたものよ。カイル様が、お父様に頼みこんで幼い約束を婚約に持ち込んだんだもの。――そうでなければ、娘大好きなエステルのお父様が、幼い娘の婚約なんてお認めにならなかったでしょうに」
(――なに、それ)
すべてが初耳だった。驚きと困惑で言葉を失う。
確かに、男爵家は決して裕福ではなかった。だが、他家に縁組を条件に資金援助を頼むほどとは、エステルは知らない。
――自分の無知さを痛感した。婚約当時、まだ幼さが残っていたとはいえ、成長してからは知っておくべきことだったのに。
エステルは、自分への憤りを感じて拳を震わせた。
カレンから、見下すように睨めつける強い視線を感じる。視線を上げれば、憎しみがこもった金茶の瞳は少し悲愴を含んで見えた。
「なにも、知らなかったのね」
エステルは言葉もなく俯く。
「じゃあ、これも知らないでしょう?」
エステルが顔をあげると、カレンは左手を顔の前にかざした。薬指には、黄金の指環がはまっていた。
「わたし、伯爵様と結婚したの」
なぜそんなことをエステルに告げるのか。眉根を寄せるれば、カレンは冷笑する。
「色狂いの中年よ。この意味、わかる?」
カレンは深紅の髪を指に絡ませた。
「もてないのに性欲だけはある中年伯爵は、ある日、資金に困った子爵家に目をつけたの。珍しい紅の髪を持つ娘を一目で気に入った彼は、婚約もなしにすぐに結婚を申し込んだわ。子爵家の主は迷わなかった。家名を守るために、資金と娘を引き換えにした。……ねぇ、エステル。これが誰の事か、わかるでしょう?」
エステルは唾を呑む。
それは、間違いなくカレンのことだった。
彼女が資金に困って売られたも同然なのだと、初めて知る。
貴族の世界では珍しくはないことだと知っていたけれど……エステルにとってそれは、遠い世界の話と同じだったのだ。
そして、心になにかがひっかかった。――かつて、資金難に陥った男爵家。同じように、資金難に陥ったメイナード子爵家。その意味は……。
唇を引き結ぶエステルの両頬を、カレンはそっと手で挟む。
「昔、カイル様とエステルが婚約した時、あなたの家にも好色男から似たような縁談があったらしいわ。もちろん、わたしの家にもね。でも、あなたはカイル様と婚約した。そして守られた。……でも、わたしの家は守ってくれるものなんて何もなかった。その時はなんとか凌いだけれど――もう限界だった」
カレンは憐れみを込めて、笑いかけた。
「ねぇ、エステル。もう、あなたの家に後ろ盾はないわ。今では資金援助がなくてもなんとかなっているみたいだけど……守護者を失った、しがない男爵家がどうなるか、予想くらいつくでしょう?」
「……後ろ盾が、ほしかったの? だから、罠にはめたの?」
エステルは自分の声が掠れたことに気づいた。心の震えを叱咤しながら、ずっと秘めていた疑問を口にする。
エステルにとって、こんなにも勇気が必要な問いを、カレンは事もなげに答えた。
「まぁ、それもあるかしら」
「……”も”?」
「一番は――そうね、あなたがわたしよりも幸せになるのが、憎かったからかもしれないわ」
予想だにしていなかった答えに、エステルは瞠目する。
言葉の意味を咀嚼すると、頬にそえられた手を拒んだ。
「そんな、理由でっっ」
怒りと悔しさで目の前が真っ赤に染まった気がした。行き場のない思いが渦巻く。
――まだ、カイルのことが好きだからと言われた方が納得できた。カイルと並ぶエステルを近くで見つめてきた憎しみゆえに、罠を仕掛けたと言ったのなら、まだ……。
やり場のない感情を必死に押し殺そうとする他方で、「……そんなこと、ですって?」とカレンが唸るように呟いた。
カレンは今まで溜めていたすべてを吐き出すように、声を荒げる。
「そんなことですって!? カイル様に見初められて悠々と生きていたあなたにはわからないでしょうね! どんな相手でも結婚を拒めない苦しさも、どんなに誰かを想っても実らないやるせなさも、毎晩嫌いな相手に抱かれる絶望も、親に売られる悲しさも!」
堰を切ったかのような心の叫びに、エステルは圧倒される。
「ずっとエステルのこと、妹みたいに大切に思ってたわ。でもね、カイル様に選ばれた瞬間から、定められた未来は天国と地獄ほどにわかれてた。確かに、わたしのしたことは許されることじゃないわ。そんなことわかってる! それでも……許せなかった。どうしてわたしばっかりこんな目にあうの? そう思わずにはいられなかった。もし、カイル様がわたしを選んでくれたら。エステルの未来がわたしの未来になるかもしれないって、思った」
けれど、カレンが思い描いていた結末はこなかった。カイルとエステルの婚約は破談になったのに、だ。
「……カイル様は、わたしを選ばなかった」
カレンは涙こそないものの、泣くように顔を歪めてエステルに訊ねる。
「ねぇ、エステル……まだ、カイル様のこと、好き?」
エステルは言葉を詰まらせる。答えは決まっていた。でも、カレンの意図が読み取れず、答えに窮する。
カレンは問いを続けた。
「じゃあ、誰かに抱かれたことは?」
顔を紅潮させたエステルの反応で、答えを察したカレンは憎々しげに笑い、両手をエステルの首にそえる。
エステルがカレンを視線だけで見上げると、彼女は人形のような瞳で見つめ返していた。
「あなたも、汚れてしまえばいいのに」
甘く囁くと同時に、首への圧迫が少し強まった。
刹那。
「その辺にしてくれないか」
氷のような声と共に、カレンの両手がエステルの首から無理やり外される。
背後にいる闖入者に、カレンが振り向くと――そこには、鳶色の髪の青年がいた。
すぐにエステルは彼が誰か気づく。安堵に涙が零れそうになった。
名前を呼びたくなったけれど、仮装舞踏会という特殊な会場であることを思い出し、ぐっと堪える。
「……誰? エステルのご主人様、というところかしら」
セシルの前で”エルー”ではなく本名を言われ、エステルは焦る。だが、侯爵はとくに驚いた様子も見せなかった。……聞き逃したのだろうか?
エステルが首を捻ると、セシルは鳶色の鬘をバサリととる。
淡い金髪が零れた瞬間、カレンがくっと目を瞠った。
「あなた……っ」
「セシル・ラフェーエル・キングだ。彼女の働く邸の主として、心身への暴行は控えてもらおうか」
底冷えする声。
カレンは一歩後ずさったが……やがて”わからない”というようにセシルへと疑念を向けた。
「……セシル様、あなた、エステルが誰なのか知っていて、邸に置いているの?」
「ああ、知っている」
その言葉に、エステルは身を強張らせる。戦慄く唇を両手で覆い、言葉を呑み込んだ。
(知って、いる? 自分の好敵手である男の婚約者であったことも?)
動揺で瞳を揺らすと、セシルが歩みより、エステルの震える手を持ち上げて唇を落とした。
「せっ、セシル様!?」
セシルは悪戯した子どものように口端をあげる。翠の瞳をエステルへと向け、優しく囁いた。
「あなたのことは、すべて知っている。それでも、傍にいてほしいと、望んだんだ」
エステルは顔を真っ赤にして硬直した。もう、なにがどうなっているのか混乱していた。
そんな中、突如、カレンは笑いだす。
セシルとエステルが彼女へと視線を向けると、笑いをおさめたカレンが妖しく笑いながら告げる。それは、まるで不吉な予言だった。
「ふふ、そういうことなのね。……きっとこれから、愉しくなるのでしょうね。ねぇ、エステル、最初で最後の助言をしてあげる。――カイル様はわたしを受け入れなかった。おぼえておくといいわ」
さようなら、そういい残し、カレンは部屋の外へと姿を消した。