7. 侯爵様、夜会へ行く ――舞踏会場へ――
――男爵邸。
男爵は執務室で独り、机仕事をこなす。
領地からあがってきた作物の植え付けと予想される収穫について書かれた書類を読み、目を伏せた。
「……気づけば、もう春か」
今年はエステルが邸にいないため、春が来たことにすら気づかずに過ごしていた。
娘の婚約が破棄されて一年――。その後娘は、ひと月を自室で過ごし、やがて部屋から出てきた時には、すべてと距離を置くようになっていた。
男爵は後悔するように溜息をつき、今彼女はどうしているのか思いを馳せる。少しでも心から笑えるようになっていたらいいと、思った。
その時、慌ただしい足音とともに、扉が叩かれた。
「旦那様、お客様でございますっ」
聞き慣れた声は焦りを含んでいた。年老いて嗄れたそれに男爵は眉を跳ね上げ、嘆息して了承の返事を返す。
「……入れ」
誰とも会いたい気分ではなかったが、仕方なく促すと――扉を開けた執事は、入室してすぐ脇に控えた。
そうして、一人の青年が執事の影から現れる。
男爵は息を呑んだ。
(――どうして、彼がここに……)
思わず立ち上がり、言葉を発せないまま佇む。
青年は苦く笑うと、男爵へとゆっくり歩んだ。優雅な立ち居振る舞いから、一目で彼が貴族の中でも上位であることがわかる。
少しずつ縮む距離を、男爵は見守ることしかできずにいた。やがて青年が執務机の前で歩みをとめた時、ようやく金縛りがとけたかのように名を呼んだ。
「――カイル、殿」
久々に名を呼ばれ、青年は艶やかな黒髪を揺らして柔らかく微笑む。
「お久しぶりです。お元気そうでよかった」
挨拶を口にすると、カイルは一切の笑みを消し去った。すぐに、沈痛な面持ちで男爵を真っ直ぐ見つめる。灰青の瞳には、決意を含むように強い光が宿っていた。
「……今日は、男爵にお願いがあって参りました」
侯爵家の嫡男であるカイルが、元婚約者の父とはいえしがない一男爵に敬語を使っている事実に、男爵は唾を嚥下した。嫌な予感に冷や汗が流れる。
「……何用か、伺ってもよろしいですか?」
口から零れたのは、無意識のうちに硬くなった声。
その声の変化を耳聡く察したカイルは、悲しそうに首をふった。
「男爵、以前のようにお話ください。あなたは俺を幼い頃から知っている。父のような存在だ――いえ、一時は義父でした」
「ですが……今は、違いますので……」
「お願いします」
言葉を重ねられ、押しに弱い男爵は「わ、わかった」と折れた。
カイルは答えに安堵し、握った拳にぐっと力を込める。
――真摯な瞳で男爵を見据えた。
緊張で張り詰められた空気の中、カイルは用件を口にする。
「エステル……いえ、エステル嬢に会わせていただきたいのです」
*** *** ***
夜の街はしっとりと暗く、満月と未知数の星が煌々と道を照らしている。
石畳の上を走る蹄の音に耳を傾けながら、エステルは馬車の窓から外の様子を窺う。
目的地である邸まであと少しということもあり、雑踏と眩いばかりの明かりを五感で感じた。
エステルがなにを思ってか、ぼんやりと遠い目をしているのに気づいたセシルは、彼女の顔を覗き見て首を傾げてみせる。
「エルー、緊張しているのか?」
問われたエステルはセシルへと視線を向けると、否定する意で首をふった。返答に迷ったが、侯爵の疑念を抱くような表情を見て、躊躇いながら答える。
「いえ、そうではありません。そのですね、なんで私、ここにいるんだろう……と思いまして」
「そりゃ、私がつれて来たからだろう」
セシルに即答された。
エステルは眉間に皺を寄せる。間違っていない答えではあるが、求めていた答えとは全然違う。
「そうではなくてですね。私、女中なのになぜここにいるんだろう、ということなのです」
現在、なぜ馬車に自分が揺られているのかさっぱりわからないエステルは、一刻ほど前の出来事を思いおこした。そして、記憶を探るように、眉間に人差し指をあてて瞑目を始めた。
それは、夕飯が終わった時のこと。
エリンと共に、今日最後の仕事にとりかかろうと席を立つ。
「あと少しですわね」
仕事の疲れを滲ませながら笑うエリンに、エステルも同じ笑みを返した。
「はい。もう少し、がんばりま……」
そこまでエステルが言うと、エリンが「まぁ」と掌を口元にあてる。エリンは普段、話相手の目を見てしゃべるのに、この時はなぜか視線がエステルの背後に向けられていた。
「エリンさん? どうかしましたか?」
訝るように問うと。
直後。ポン、と誰かに肩を叩かれた。
エステルは反射的に背後を振り返る。驚愕して悲鳴が出なかったのは、驚きすぎて喉で声がつまっただけのこと。
「よぉ! こうして喋るのは初めてだな!」
エステルとエリンの視線の先にいるのは、太陽のような快活な笑みを浮かべた青年。少し吊り上った目と鉄色の髪をしていた。
(……誰?)
エステルがきょとん、と目を丸くしていると、エリンが苦笑して紹介を買って出てくれた。
「エルー、彼は近侍のアール様ですわ。アール様はエルーのこと、もうご存知とお見受けしますわ」
「ああ、知ってる」
頷いた男は、にっと笑みを深めて髪を揺らした。
「よろしくな、エルー」
「はい、よろしくお願いします。アール様」
つられるようにエステルも笑うと、アールはエステルの頭をガシガシと撫でた。
彼は、エステルが人生初めて会う兄貴系の性質をしている。纏められた銅色の髪をぐしゃぐしゃにされながら呆気にとられていると、彼は突然エステルの背後へとまわった。ついで、彼女の両肩を押して無理やり歩かせた。
「アール様!?」
エリンが咄嗟に声をかける。
けれど、アールは首だけをエリンにむけて、また笑った。
「エルーは借りてくな。今夜の夜会に必須なんだと」
誰が、とはエリンもエステルも問う必要はない。近侍がエステルを迎えにきた時点で、誰の望みかは想像できたから。
「あのですね、セシル様。ちょっと急すぎな気がするのは私だけでしょうか?」
普通、夜会の同行は昼まで告げられるものだとエステルは思っていた。準備とか準備とか準備があるのだ。しかし、今回はまさかの出かける直前に、それも散歩に誘うかのごとく迎えが来た。(心の準備ができなかったじゃない)などなど、エステルの中に不満はたくさん詰まっている。
エステルはつい文句を言ってしまったが、怒ることなくセシルは目を瞬いた。
「まぁ急だが……朝には頼んだだろう?」
(は? 朝??)
エステルは首を捻る。そんな記憶はまったくない。しかも、用件を知らされたのは夕飯の時ですらなく、馬車の前で告げられたのだ。
腕を組んで唸っていると、セシルが片眉をあげて言葉をつぐ。
「アールに伝えるよう昨夜頼んでおいたんだが……。――昨夜のうちに言った方がよかったか?」
セシルの言葉で真実は明らかになった。
「…………いえ、朝で結構です。すみません、セシル様に罪はありません」
エステルは、顔を引き攣らせながらなんとかそう答えた。
(あの兄貴系近侍の仕業ね)
――こんちくしょう、兄貴系。
エステルの今までの経緯を知らないセシルは不思議そうな顔をしたが、とくに問いただすことはせずに、くすりと笑って会話をつなげた。
「他に、質問は?」
エステルは気分を取り直して、「はい」と片手を挙げる。
セシルはまるで、幼い子供の家庭教師にでもなった気分だ。つい、うっかり小さく噴き出す。そうして肩を震わせながらも、拳で口元を押さえてエステルを指した。
「はい、エルー」
「なんで笑ってらっしゃるんです? ……ではなくて……どうして、私なんでしょう?」
実は、アールの件だけではなく、これもエステルには甚だ疑問だった。
「侍女が必要なら侍女をつれて来た方が、私よりよっぽど役に立つと思いますが……」
正直、役に立てる自信はない。エステルは侍女の仕事を経験したことがないため、最低限の仕事内容しかわからないのだ。いつか女主人となる身だったエステルは、己の勉強不足を反省した。
けれど、それだけではなかった。侍女は夜会に共をすることはできないため、ただ用意された控え室に待機しているだけ。ともすれば、魔窟のような舞踏会場からは身を挺して守る事もできない。
(私より、近侍がぞろぞろいてくれた方がよっぽど役に立つ気がするわ)
彼らは主を守るため、身体を張ることも職務の筈。きっと舞踏会場にも入れるだろう。
そんなことをつらつらと考えていると、セシルの声が、ぽつりと降ってきた。
「……そんなに、嫌か?」
少し寂しそうな声音に、エステルは思考をとめる。
その言葉が、なにに対してなのか判じかねた。
(侍女をすること、でいいのよね?)
他に選択肢はないはずなのに、なぜか別のことを問うているようにも聞こえる。
躊躇ったが、エステルは手を振って否定した。
「……そういうわけでは……」
確かに、エステルにとって貴族連中がいる夜会は禁域といって過言ではない。したがって、侍女としてでも行きたい場所である筈がない。そもそも、男爵令嬢として参加していた頃から夜会は得意ではなかった。
それでも、僅かな時間にだって傍にいて役立つことができるならと、腹を決める。
ゆえに、溜息まじりに笑ってみせた。役に立てないことを承知でつれてきたのなら――。
「わかりました。出来る限りがんばります」
そう答えると、セシルは優しく笑い返した。
だがしかし。エステルには、これだけは言っておきたいことがある。これは間違っている。その自信がある。だから、女中だろうとはっきり告げた。
「セシル様、でも、これだけはおかしいと思います」
「なにがだ?」
「同行するからといって、セシル様と私が現在同席しているのは許される行為ではないと思うのですが……」
本来なら、エステルは別の簡素な馬車か、御者の隣に並ぶべきだろう。
目的地についた時に、馬車から二人が降りてきた姿を誹謗中傷大好きな貴族に見られでもしたら、”貴族の威厳”がどうのととやかく言われかねない。
「やっぱり私……」
馬車から降りて席を移ろうと、扉のドアノブに手をかけた。
その手を、セシルが自分の手を被せて制する。
「エルー、馬車は走っているから降りたら危ない。それに、もうすぐ目的地だ。このままでいい」
セシルが嘆息した。が、エステルにはそれどころではなかった。
(なに、この状況)
冷静に思えたのは、その一言だけ。すぐに、冷静沈着さはどこかへいってしまった。
頭が白か桃色にでも染まった気がした。
予想外に重ねられた手。温もりに動揺して、エステルは頬を赤らめながら涙目になる。顔を隠すために両手で顔を覆いたいのに、それすらもかなわないのがもどかしかった。
(ああ、もう! しかも、セシル様、天然だしっっ)
手! 手! 手を離して! と心の中で叫びながら、エステルは狼狽する。……セシルを意識するようになってから、自分が壊れ気味だと思うのは気のせいだろうか。
セシルには好きな女がいる。だから、エステルは恋心を隠そうと決めているのに。
(このままじゃ、間違いなくボロがでるわ……)
やりきれない想いを逃がそうと小さく溜息を零せば、セシルはエステルの手を解放した。
「……すまない」
その言葉は、手のことなのだろうか。それとも席のことなのだろうか。やはりエステルにはわからなかった。
そうして、二人は気まずい空気を払拭させようと今夜の夜会の話を始める。
「仮装舞踏会……ですか」
エステルが半目で引き攣りながら呟くと、セシルは頷いた。
「仮面舞踏会と同じで、一夜の恋を求める貴族が多く参加するから――気をつけるように。なにかあったら、すぐに私を呼ぶこと。いいか?」
「……はい」
「邸についたら、まずは控え室で着替えるから、手伝ってくれ」
「はい」
まさに侍女でなくとも近侍だけで可能な仕事である。それなのに、どうしてエステルが連れてこられたのか。いまだ理由がまったくわからなかったから、つい訊いてしまった。
「……それだけ、ですか?」
すると、セシルは口元を緩めた。心を絡めとるような魅惑的なそれから、エステルは慌てて視線を逸らす。
「いいや。――エルーをつれてきたのは、あなたにしかできないことがあったからだよ」
思いがけない言葉に、エステルはついまたセシルの顔を見上げ、目を瞬いた。