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侯爵様と女中(メイド)  作者: えんとつ そーじ
本編 (完結済)
14/49

6. 苦い夢 ――決別――



 その後、母は衝撃のあまり寝込み、エステルは自室に閉じこもった。



「旦那様、今日もエステル様はお食事を召し上がってません」

 男爵の執務室でエステルの様子を報告した歳嵩の女中は、溜息を漏らす。もうかれこれひと月だ。身体にも無理が出てくる頃だろう。

 男爵は執務机に肘をつき、手を組み合わせる。唸るようにそこに額をのせた。

「……どうしたものか」

 暗い顔で呟く。このひと月で彼は一気に歳をとったように見えた。

「旦那様……。わたくしが申し上げるのも心苦しいのですが……エステル様の密通の件は、事実なのでしょうか?」

 訝るような女中に、男爵は顔を上げる。すると、彼女は躊躇うように言葉をついだ。

「わたくしの方で辞めた従僕のことを調べました。……彼は、病気の父がいるそうで……。この邸を辞した後、内科医に父を診察してもらったと」

「……内科医?」

 男爵は眉を顰める。

 おかしな話だ。内科医は貴族階級しか診察してもらえず、邸を辞めた従僕の父ともなれば、医者はおろか薬師を頼るしかないだろう。それにも拘わらず、内科医に診察を受けた、ということは――。

「辞めた従僕は、うち以外の貴族と繋がりがあったということか」

「はい。あと、カレン様についても、調査してみたのです」

 男爵は女中の言葉に驚愕した。……従僕のみならず、子爵令嬢であるカレンについても調べられる情報網を、彼女はどこで得ているのか。けれど、今は知るべきことを重視した。

「結果は……?」

 嫌な予感がした。促して後悔したが、逃げられることではないため、手に力を込めて報告に耳を傾ける。

「……カレン様のご実家――メイナード家は資金に困っておいでです」

「……――そうか」

 溜息とともに零された言葉は、男爵がすべてを理解した証だった。

(エステル――)

 大切な大切な、我が娘。自慢の、娘。どうして信じてあげられなかったのだろう。

 後悔ばかりが溢れた。

 娘の部屋へ向かおうと思ったが――誰かに会うことを怯えるように拒絶する姿を思い起こし、もう少しだけ様子をみる事に決めた。

「……あの子には、罪がなかったのだな」

 ぽつりと呟くと、女中が「はい」とただ一言、肯定した。




***   ***   ***




 ああ、夜が来たのかと、窓の向こうの暗闇を眺めた。

 エステルは寝室の窓辺に椅子を置き、壁にもたれるようにして座っていた。

 今では、立ち上がるだけでめまいに襲われるのだ。

 乾いた目が悲鳴をあげ、静かに閉じる。そんな生理現象で、自分が生きているのだと実感した。別に、生きたいと思っているわけではなかった。けれど……死にたいわけでもなかった。

 既に、朦朧とする頭で、ものを考えるのも億劫になっていた。日にちの感覚はいつしか失われ、あれから何日たったのかも曖昧で。食事を何日まともにとっていないのかも思い出せない。

 そういえば、と思う。

 ひと月前までは、自分の言葉を信じてくれない両親に憤りを感じ、恨んだ。エステルの言い分もきかず、問答無用で婚約を破棄したカイルを憎んだ。エステルからたくさんのものを奪ったカレンを、呪った――……。

 世界は色を失って、声は意味を遮断されるように音でしかなくなって。

 流れ続ける涙は、恨み辛みによって黒ずんでいるのではないかと疑うほどに絶望を秘めて。

 心が痛くて。傷が疼いて、呼吸の度に胸が苦しくなって。

 あの頃は、こんなに苦しいのなら死んだほうが楽だろうかと、考えた。憎しみを書きなぐった遺書を残すべきか、それともきれいごとを並べ立てて彼らが後悔するような内容の遺書を書くべきか。そんなことを悩んだ日もあった。実際、ペンを手にとったことも。

 それでも今生きているのは、彼らになんの仕返しもせず、ただ独り、バカみたいに死ぬのがたまらず悔しかったからだ。

 けれど、やがて涙は次第に枯れていった。泣き続けていたら、ひどい頭痛と吐き気に襲われて。寝込んでしまってからは、こぼれる涙も減っていった。

 そうして日々を過ごしていくうちに、負の感情は心の底に沈められていた。癒えることはないけれど――もう、すべてが面倒だと、思うようになった。

(泣き叫んでも、誰も信じてくれなかったもの)

 結局、自分がなにを言っても無意味だと悟った。

 エステルは、カイルを信じて十五年間待ち続けた。その間、他の誰に憧れを抱くことなく待つことの難しさ。盲目にならなければ、不安に襲われるから、ただ彼だけを愛した。

(信じても、信じてくれるわけじゃないのに……)

 失った大切な人。

 親友も、婚約者も。もう二度と元の関係に戻る事はないだろう。

 不意に脳裏によぎった赤髪の女を思いおこし、自嘲してしまった。

(さすが、幼馴染ね。罠が巧妙すぎて気づけなかったわ)

 気づけたとするなら、仮面舞踏会の夜だっただろう。今では、体調不良だった男が雇われていたのではないかと、思う。

 突如会場に現れたカレン。絡まれる彼女を守ろうとするのは、幼馴染として当たり前だ。カイルとエステルが離れたのを確認し、エステルの目の前に、都合よく体調が悪いふりをした男が現れる。エステルの性格をよく知るカレンは、見過ごすことができないと把握していた筈だ。そして、エステルに執着するカイルが彼女から目を離すことがないことも。

 そうしてエステルは男の腕を肩に担ぐ形で庭園におりたが、そこで男がエステルを襲えば、未遂に終わろうが彼女はカイルに事情をすべて話し、誤解されることはなかっただろう。しかし、男は庭園におりると、すぐにエステルを解放した。だから、わざと連れ込まれたとエステルは思わなかった。

 そこまですれば、あとは簡単だ。

 真っ直ぐで潔癖なカイルはエステルを疑い始め、そこに少し彼女の不貞を確信させるようなことを吹き込めば――二人の関係は壊れる。

 誤解を解く時間を与えず、いかにして効率よくすりこむかが重要だが、二人をずっと傍で見てきたカレンからすればわけないのだ。

 再度自分を卑下するように笑ったのに……乾いた目から涙が一粒流れ落ちた。これは、きっと最後の涙。

(……なんか、疲れちゃった)

 こうなって初めて知った。

 負の感情を抱き翻弄されれば、体力と気力を消耗するのだと。

 心にしこりはあるけれど、彼らに関わることはしたくないと思った。

(もう、傷つくのはたくさん)

 どうしたらいいだろう?

 導き出された答えは、簡潔なものだった。


 ぼうっと考えながら外を眺めていたが、突如ひどい吐き気に襲われる。

 空腹のせいだろうか。近頃では眠ることも難しくなっていた。

 眠らなければ、体調不良の辛さも紛わせたい記憶も忘れることができないのに。

 口元を手で覆って、よろよろと洗面台へと歩んだ。嘔吐えずくものの、嘔吐することはない。水分以外なにも口にしていないのだから、当たり前だろう。すっきりすることのない吐き気に目が潤む。うずくまるように洗面台へと重心を任せると、背中をさする温かい感触がした。

「勝手に入室して、申し訳ありません」

 温かい手の主は、年嵩の女中だった。彼女はなにやら心配そうな顔をして、手にしているなにかを差し出す。

「エステル様、お願いします。……これだけでも、お飲みください」

 それは、果汁の飲み物。色からして、栄養価のありそうなものを厳選して絞ったのだろう。

「後生でございます!」

 頭をさげられ、わずかに目を丸くする。

 吐き気がおさまるのを待って、エステルは苦笑しながらそれを受け取った。

「ありがとう」

 一口、含む。

「甘酸っぱい……」

 感想を述べると、女中は安堵したように笑った。

「はい、エステル様のために、美容と健康を考えて作ったものでございます。元気になってください、エステル様。お嬢様を心配するのは、わたくしだけではないのですから」

「……そうね。イジイジいつまでも閉じこもっていられないわね」

 女中のあたたかい言葉を心が拒絶したが、できる限り温度のこもった声を返せるように心がけた。

 エステルの言葉に、嘘はなかった。

 いつまでも、こうしてはいられない。

 自分が愚かだったと、学んだことは有益になるかもしれないのだ。

 貴族の世界なんて所詮、騙しあい。気を抜けば没落へと追い込まれ、討たれたくなければ権力のある者にとりいるか、中立を保つか、はたまた討つかしかないのだ。

 これは、初戦だと思えばいい。

(――それでも……その選択肢のどれも選びたくないと思う私は、やっぱり甘いのでしょうね)

 だから、甘さを守れるように強くなれるまで、拒絶しなければならない。そうしなければ、心がつぶれてしまうから。

 それが、他に方法を見出せなかったエステルの答え。

 エステルはおもむろに立ち上がり、知らず両手で握りしめていたグラスを机に置いた。

 そして、机の抽斗から、眠っていた思い出の品を次々ととりだす。

 幼馴染と読んだ、お気に入りの絵本。カイルとカレンにもらった誕生日プレゼント。――幼い約束をした日にもらった、干からびた花冠。白詰草の指輪。

 そのすべてを、女中に渡す。

「あの、エステル様?」

 戸惑う彼女に、エステルは冷たい声で告げた。

「全部捨ててほしいの。もう、私には必要ないわ」


 自分を守るために、すべてと距離を置く。

 それが、今自分にできる、心の守り方。

 裏切られてもいいから、信じようと思うまで。信じることが怖くないと思える時が、いつか来るまで――。



 そしてその日、エステルは女中の手を借りながら、ひと月ぶりに部屋を出た。



 父は驚きと安堵を顔に浮かべて「エステル、すまなかった」と娘を抱きしめた。

 寝込んでいた母は、父からなにを聞いたのか、エステルの頭をなでた。


 でも。

(そのどれも、私の心に響くものはなかった)

 もう、遅かった。

 返せたのは、感情のない態度。

 まるで知らない人を見るように、冷たい瞳で見据えそうになるのを、目を瞑ることでやり過ごす。そうして作った笑顔で答えた。あたたかさなんてわずかにも込められていない、作りもの。それでも、体裁は誤魔化せるでしょう?

 心の声が聞こえたかのように、両親の表情が強張ったのがわかったけれど、自分を守るので精一杯だった。だから、なにも言わずに二人の前から立ち去った。




***   ***   ***




 時が解決してくれる、と先人は言ったが、それは本当だった。



 婚約が白紙となってから数ヶ月という時間が流れ、冬が終わる頃にはエステルは昔のように笑うことができるようになった。まるですべてが悪い夢だったのではないかと思ってしまうほど巧みなそれに、多くの者は騙されるだろう。


 そしてその頃になると、エステルは一つの決意を胸に秘めるようになった。

 もう、覆ることのない決定事項。

 まだ父男爵には伝えていないが――そろそろ時期だろうと考えていた。



「ありがとう――あ、そうだ。これは誰にも秘密にしてほしいの」

 封筒を受け取り、人差し指をたてて唇にあてるエステルに、歳嵩の女中は苦笑した。

「はい。……わたくしもバレたら困りますよ、エステル様」

 この邸で家政婦から厚い信頼を受ける、歳嵩の女中の正直な答えにエステルも笑った。

「そうね。じゃあ、これは二人だけの秘密よ」

 封筒を羽織っていた肩掛けに隠し、女中に背を向ける。

 そのまま歩を進めようとすると、「エステル様」と呼びとめられた。

 エステルは振り向かずに答える。

「なに?」

「――本当に、よろしいのですか?」

 すべてが集約された問いに、エステルはぐっと一度目を閉じ、力強く、ゆっくりと開く。強い意志を秘めて、言葉を紡いだ。

「ええ。誰にも邪魔させはしない。……多分、お父様は療養に空気のきれいなところへ行ったとか言うと思うけどね」

 最後はおどける口調を意識し、「じゃあ、がんばってくるわ」と別れの言葉を口にした。



 目指す場所は、父の執務室――。

 肩掛けに隠した封筒には、女中として雇われるための紹介状が入っている。歳嵩の女中から、親戚の姪にと言って家政婦に書いてもらったのだ。


 ずっと、考えていた。

 心のしこりを取り除く方法。

 疲れきった心に、邪魔だった負の芽だから。

 悩んで悩んで悩んだ末に思いついたのは、小さな小さな復讐。別に誰が不幸になる話でもないから、決断するまではあっという間だった。

 矜持も体裁も捨てて、去ろうとする婚約者に縋ったのだから、もうこれ以上みじめになることはないだろう。だから、迷いは、ない。



(ねぇ、カイル様? あなたはよく、セシル・ラフェーエル・キングを好敵手だと言っていたわ。同じ身分にも拘わらず、いつだって余裕そうに笑って、一歩前を行く彼に、負けたくないと、言っていたわ。なら、もしセシル様が一歩ではなく、何歩も前を行くようになったら、あなたはどう思うかしら? ――そのために、私は女中になるわ。セシル様が民に慕われるような領主になって。その手伝いを、わずかでもできたなら、きっと私の心のしこりは取り除けると思うから。仕える主に忠誠心が必要だというのなら、捧げてみせる。主が権力に執着する目に耐えられなくなって、もし誰も信じられなくなったとしても、私はなにがあっても仕えるべき彼を信じきってみせる。私が彼の噂話に翻弄されたとしても、彼の口で否定の言葉をきいたなら、私はその言葉だけを信じてみせる)



 そう、決めていたけれど。

 決して、心が強くなったがゆえの行為ではなかった。

 もう一度信じてもらえなかったら、もう心が壊れてしまうと思ったから。最初から信じてもらえないことを前提に、信じることだけを考えていたのだ。



 その想いを抱えたまま、キング侯爵邸へ来てしまった。


 ここへ来ても、壊れそうになった心はやっぱり完全に癒えはしない。ヒビは傷跡になって残るし、痛みが疼く時もある。

 ――でも、救いもあった。それを、彼は教えてくれた。

(――セシル様)

 大切な人が傍にいるのなら、それが支えになる。

 そして、支えられる自分でありたいと思う。

 そのために――強くなりたい。


(だから――ね、カイル様)

 ――さようなら。



 決別を示すように、エステルの意識は浮上した。




***   ***   ***




 長い夢から、覚める。

 混濁する意識のまま前髪を掻きあげようとして、両手で抱いているなにかに気づく。

(うーん……なにかしら)

 夜の暗闇の中、射し込む月光を頼りに目をこらすと――それは金色の毛をした、クマのぬいぐるみだった。

 目を数回瞬き、これまでの経緯を一生懸命思いおこす。

(えぇと、確かエリンさんのところでお酒のみすぎて……あー、なんかごたごたして、セシル様に助けてもらって――)

 そして、はっとした。

「そうだわ、セシル様からの、贈り物」

 目の前のクマを正面から見つめ、翠の目と視線を交わす。見れば見るほど贈り主に似ていた。

 眠る前のやりとりを思い出し、表情を緩める。

 なぜエルーを信じるのかと、詰め寄る従僕に『信じる相手は私自身が決めること』だと。そして信じた理由は『エルーだから』だと。

 昂る感情に、涙が溢れた。

(――セシル様。あなたは、私を信じてくれた)

 腕の中のクマを、ぎゅっと抱きしめる。あまりの愛おしさに、口づけをしようとしたが……急に恥ずかしくなっておでこに軽く唇を落とす。

「……好きよ」

 他に好きなひとがいる彼に、伝えることのできない言葉。だけど、どうかこのクマに愛を囁くことだけは、許してほしい。

(そっと、誰にも聞こえないようにするから)


 初めてだった。

 相手の幸せだけを願う恋。

 自分の気持ちよりも、彼の気持ちを大切にしたいと思うこと。

 辛くないといえば嘘になるが、セシルと恋人でないのなら、別れはこない。永遠に傍にいられるとは限らないけれど、自分のせいで彼の笑顔が曇ることがないのなら、そんな優しい別れもいいと思う。

 ――誰よりも、たくさん笑っていてほしい。

 ――世界で一番幸せになってほしい。

(そうしたら、私は世界で二番目に幸せになれるわ)

 小さく笑う。

 自分の幸せのための祈りでしかないけれど。自己満足だって構わない。

(そのためなら、私はあなたの望みを叶えてみせる)

 だから、どうか――。



 願いを心の中で呟き、エステルは、再び目を瞑った。




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